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ぼくがそいつに出会ったのは、夏祭りの縁日だった。
道の両側に隙間なく並んだ屋台、その中のひとつにカブトムシを売る店があった。図鑑でしか見たことがないようなカブトムシたちが、小学生には法外な値札をつけられてケースの中に納まっている。それは小学生には興奮を抑えきれない非日常で、動物園や水族館と変わらない胸のざわめきを感じた。
階段状に展示された彼らは、ランク付けをするかのように安いものは低い場所に、高級なものは高い位置に置かれている。手の届かないところにいるやつは、値段からしても手が届かないのだ。
夢を見るように熱を持った瞳で、視点を下から上へと動かしていく。そのたびに、額に灯る熱もうなぎ上りになっていく。
やがて、視線は階段の頂点へと達した。
安っぽい丸文字で書かれた一万円の文字が目に入る。ぼくの小遣い10カ月分の重みに、唾をごくりと呑み込んだ。
ケースの中には、なにがいるのか。ここまで見た中でいなかった昆虫の中で、それだけの値がつくほど有名なものといえば。答えはとうに出ていたけれど、それでも期待に心臓は跳ねていた。
白色のネプチューンが、いた。
上下一対の巨大な角と、光を当てれば青くも見える白いボディ。日本のカブトムシとは比較にもならないくらいに強大で、そして美しい。彼は蛍光灯のもとで艶やかに輝いていた。
友達と図鑑を見ていてどの種類が好きかという話題になれば真っ先に上がるような種だ。まさにカブトムシの王と呼ばれるにふさわしい存在。
ぼくは感嘆の息を漏らして、眺め続け、そして違和感に気付く。
彼は丸まって動きを止めていた。羽は汗で濡れたシャツのように体に張り付いていて、足は飾り物みたいに接続されているだけ。
その様は例えるなら、アスファルトに転がった蝉の……死体。
「……え?」
思わず、声が漏れた。頭までせり上がった血が下半身へとずり落ちていくのを感じる。
「お、ボウズ、なんか気に入ったのでもいたか?」
屋台の奥から短髪の若い男が顔を出す。髑髏の柄のシャツを肩のところでまくっていた。趣味の悪さとは反対に快活な笑顔の男だ。
ぼくは死体から目を離せないまま、指をさして示す。
「ネプチューンが、死んでる」
「なに?」
男は階段の一番上に手を伸ばしてケースを手に取ると、上下左右から中を覗き込む。男が容器の壁面を乱暴に指で叩くとそのたびに鈍い音がして、それでも中のネプチューンが反応を見せることはない。
「おおう……マジだ。ライトが近かったんかなぁ」
男はふたを開けてネプチューンを取り出す。ゴミを掴むみたいな手つきで握られていても微動だにすることはなくて、作り物みたいにただ掴まれていた。
「仕入れのときやたら安いと思ったが、あいつ死にかけのを売りつけやがったな。こりゃ売りもんにゃあならんわ……そうだ、ボウズ」
男が手の甲をぽんと叩く。振動でネプチューンの脚が柳の枝みたいに揺れる。
「こいつやるよ。じーっと見てたし、好きだろ。たぶん」
たぶん、男は不要な廃棄物を押し付ける目的で突き出したんだと思う。死んだ虫を子供に直接渡すなんて、衛生的にも怪しい行為だと今ならわかる。
けれど、差し出されたネプチューンの身体は、蛍光灯に照らされて宝石みたいに青く輝いていた。一瞬、周囲の喧騒が一度に静まり返ったかのような錯覚を覚える。
「好き」
ぼくは小さくうなづいて、手にとる。手の平に伝わるネプチューンの質量は、哀しいぐらいに軽くて、でもそれもこの際ちょうどよかった。
ぼくはネプチューンの背中を握りしめて、人ごみの中を走り出す。
王の凱旋と行こうじゃないか。
意味もふんわりとしかわからない、ゲームの台詞が頭から離れなかった。
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