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人類が進化したイカに侵略されてから五年が経とうとしている。世界はほとんどイカの手に落ち、アメリカやロシアなどの強国も陥落して、今や人間の支配域は北九州のみになっていた。
そんな中、ぼくはイカの目を開発する仕事に就いた。かつてはイカの眼球の性能はすさまじく、イカの脳のスペックの五倍とも言われたものだが、それも今は昔の話。進化したイカの脳神経に追いつくためには生身では不十分で、サイボーグアイを開発する必要が出てきた。ところが、サイボーグアイは作成時にイカにとって猛毒となるアポトイカキシンを素材に使う必要があるため、イカ自身では作ることができない。そこで、捕虜にした人間が代わりに開発している。
つまり、現在の世界で人間が生きていくためには、せっせとサイボーグアイを作るほかはないのだ。そこでぼくはここを就職先に選んだわけだが、イカに支配されまいとするレジスタンスにとってはそれが許せないらしい。
「おい、お前も同族だろ!? どうしてこんなことをしているんだ!」
ぼくは今、研究所に侵入してきたレジスタンスに銃口を向けられている。男は強い意思の宿った瞳で、しかとぼくの目を見つめる。
「同族と言うなら銃を下ろしてくださいよ……」
「下ろしたらお前、統合イカ機構に助けを呼ぶだろ。俺たちの仲間になるまでは下ろせない」
悲しいぐらいに見透かされていた。ぼくは一瞬背後の警報装置に目をやり、落胆のため息をついた。
「じゃあどうしてか言いますけど、ひとえに安全だからですよ。強者に従うのは弱者として当然の選択でしょう。どうしたって人間はイカの科学力にも身体能力にも敵わないんですから」
「そんなことない。まだ北九州が残ってるじゃないか。巻き返せる!」
流行歌を歌うみたいにするりと出てきた言葉は、ぼくがまだ人類側だったときに聞き飽きたものだ。この人もまたそう言って聞かされて、同じようにぼくを説得しようとしている。その甘さに無性に腹が立った。
「福岡人に何ができるっていうんですか!? ちょっと太平洋工業ベルトが通っているからって……! 光科学レーザーとか作れないじゃないですか! あなたたちが作ってるのは家電でしょうが!」
つい熱くなって、喉から大きな声を張り上げてしまう。目の前の男の額から汗が垂れて、床にぽとんと落ちた。
「……いや、銃とかも作れる!」
「そんな弾丸、イカの外皮に当たったって弾かれるだけですよ! ダイヤモンドよりも硬質なんですよ今のイカ!」
「奴らは外皮のない眼球が弱点だ。そこを狙い撃てばいい!」
浅はかな意見だ。鼻で笑ってやろうと思ったけれど、長く感情を殺して生きてきたせいで乾いた息しか出てこない。
「そう言って今まで何人の兵士が死んでいったかわかってます? イカだって眼球が弱点なことぐらいわかってるんですから、対策だってしてるのが当然でしょうに」
「そんなの、やってみなきゃわからないだろう!」
やってみなきゃわからない。頭の中で反芻する。
母親、友人、妹……同じ言葉が口癖だった人は周囲に何人もいた。
そしてみんな、もう死んだ。
「あなたはここでなにを開発してるかご存知ですよね。サイボーグアイが完成すれば、イカから眼球という弱点は消え失せて、生物として完成してしまいます。そうなればもう、人間に勝ち目はないんですよ」
「それは……!」
男は何も言い返せなくなったのか、口を閉じる。両者の間にしばらく沈黙が続いて、先に口を開いたのはぼくだった。
「あなたは、ぼくがイカへの恨みがないから大人しく飼われていると思っているのかもしれませんが……ぼくの妹はイカの侵攻のせいで死亡しました。あんな連中、可能ならすぐにでも殺してやりたいぐらいです」
ぎゅっと拳を握りしめ、奥歯を噛み締めた。ここ数年この動作を繰り返しすぎたばかりに、奥歯はずいぶんすり減ってしまった。
「……それなら、俺たちといっしょに戦って――――」
「『お兄ちゃんは生きてね』って言われたんですよ」
男は目を見開く。
彼の息を呑む音が、狭い空間ではよく聞こえた。
「妹はね、爆撃で倒れた塀ブロックからぼくをかばって死んだんですよ。ぼくが死に急ぐのは妹の思いを無駄にしたことになる」
「…………」
「だからぼくは、こうして妹を殺した連中に忠誠を誓ってまで、生き永らえようとしているんですよ。……勇敢なあなた方からしたらそれは、臆病なのかもしれませんがね」
皮肉を込めて、男を睨みつける。男を刺激し殺されてしまうかもしれなかったが、正直もうどうでもいい。身を埋め尽くしそうな怨嗟を頭のすみに押し込んで、イカのご機嫌とりに費やす毎日にも疲れ果てていたからだ。『妹のために生きなきゃ』とは思いつつも、この地獄で生きるのがとうに面倒になっていた。
衰退した精神は、ゲームオーバーを望んでいた。
「……嘘だな。お前はイカに忠誠を誓ってなんかいない」
突如、男はゆっくりと銃を降ろすと、何の躊躇もなくこちらへ歩んでくる。その言葉は先ほどまでのような借り物ではなくて、確かな実体を伴って聞こえた。
「な、なにを根拠にそんなことを……?」
男の急な落ち着きように、ぼくは冷静さを失っていた。男とぼくの精神的な上下関係はオセロのようにひっくり返る。
「ここに来る前、セキュリティを停止させるためにここのコンピュータに侵入したんだが、そのときに『Rev』という名のプログラムを見つけてな。これ、何だと思う?」
「さあ……? 前の担当者が作ったんじゃないですか?」
嘘だ。ぼくはそのプログラムが何のために作られたのか、誰よりもよく知っていた。
「同時に世界中のサイボーグアイを誤作動させ、高圧電流によって全イカの脳神経を破壊する。ざっと見た限りそんな感じだった」
「……そりゃまた、物騒な」
「茶化すなよ。これ、お前が作ったものだろう。ログには最近作られたものとあったしな」
「知りません! 妙な憶測はやめてください!」
意識せずして語調が荒くなるのは、痛いところを突かれているからだ。
ぼくの言葉を無視して、男は続けて言う。
「もしかして、とは見つけたときから思ってたんだがな。妹さんが殺されたと話す様子を見て確信したよ。あれは、うちのメンバーと同じ目だ。こいつがあのプログラムを作ったに違いない……ってな」
「やめろ、やめてください……それ以上は……!」
それ以上は、ぼくが耐えられない。押し殺していた感情が溢れ出て止まらなくなってしまう。捨てられなかった不合理性を露呈させることになる。
「これは予想だが、この『Rev』っていうのは革命だ。お前はこの世界に革命を起こそうとしている。イカの発展のためにサイボーグアイを開発していると見せかけて、実際はイカを全滅させ、復讐するために動いていたというわけだ」
なにも、言葉が出てこなかった。
銃口を突きつけられても正常な脈拍を保っていた心臓は、今やうるさいぐらいに飛び跳ねている。目の周囲に熱が溜まっていく感覚を覚える。
「すげえと思うよ。この手段ならイカの硬質性なんて関係なく、起動した瞬間に世界中のイカが全滅だ」
男が言葉を紡ぐ度に、過去が走馬灯のように蘇る。
足がクラスで1番速いから絶対逃げられると無邪気に息巻いていた妹。「でもお兄ちゃんは足遅いから合わせてあげるね」と言った笑顔。そして、倒壊した塀ブロックの隙間から流れる――血。
怨念で、決意で、復讐心で、焚きつけられるようにイカを内部から抹殺しようと企んでいたあの頃のことも。まだ心が摩耗しきっていなかった頃の衝動が鮮明に思い出せる。
ぼくの指先は震えていた。動揺か、緊張か、それともイカへの殺意なのか、オーバーヒートした頭では判断がつかない。
男はぼくの肩にぽんと手をおく。教師が生徒に諭すような表情で。
「でもなお前、外部侵入の俺にプログラムを見つけられるようじゃダメだ。目聡いイカが気付かないはずがないだろ。やろうとするなら自暴自棄になるんじゃなく、本気でやれ。体のいい自殺で終わらせるな」
頬をなにかが伝っていくのを感じて、手で触れてみたら濡れていた。
人前で泣くのはいつぶりだろう。はっきりと覚えているのは三年前、妹がぼくをかばったときに泣いたということだ。それ以降は、感情をむき出しにできる機会も相手もどこにもなかった。
「レジスタンスはこのご時世でこそこそ生き延びてきた連中ばかりだから、隠蔽工作が上手いやつらが揃ってる。俺たちなら、お前の計画を実行その日までイカに悟らせないことも可能だ」
男は片膝をつくと、ぼくに手を差し伸べる。
「俺たちにお前を手伝わせてはくれないか? お前が世界をひっくり返す、その手助けをさせてほしい」
断るなんて選択肢は浮かびもしなかった。
「――――はい、喜んで……!」
ぼくは男の手をとる。傷だらけのがさがさの感触が、彼の戦いの足跡を想像させる。粘着質で冷ややかな触腕とは違って、握りしめた人肌は乾燥していたけれど暖かかった。
「……ところで革命がどうとかカッコイイこと言ってましたけど、Revは修正版で、試作版を手直ししたものって意味ですよ」
「えぇー? なんだよぉ、それじゃ俺恥ずかしいやつじゃないか……!」
「面白いですよねほんと。この世界に革命を起こす、でしたっけ」
「おいおい……」
笑いたくて、でも真顔に慣れ切った表情筋は思うように動かない。顔が涙でぐちゃぐちゃになっているのもあって、きっとぼくは今ものすごく間抜けな表情をしていると思う。でも、それでも、真顔よりはずっとよかった。
平坦に日々を生きるだけなら死んでいるのと同じだって、昔なにかの歌詞で聞いた覚えがある。だとしたら、今までのぼくは死んでいたのだろう。
じゃあ、これからは。
妹に胸を張れるだろうか。『生きてるよ』って自信を持って言えるだろうか。へたくそな笑顔しかできなくなったぼくにも、妹の分まで笑える日がくるだろうか。
「いいと思いますよ、革命。大富豪なら最弱の札が最強に反転するじゃないですか」
「おお、確かに。お前、大富豪やるのか? 俺も基地でときどきやるんだが」
素直な反応が小学生みたいで、噴き出してしまう。「くっくっく」なんて声しか出ないけれど、ひとしきり引き笑いをしたあとで男に言う。
「逆にやる相手いると思います? 周囲にイカしかいないのに」
「おお、すまん……。配慮不足だった」
「なんですかそれ。変な人」
笑えるかなんて、そんなの杞憂だったのかもしれない。少なくともこの男といれば、表情筋のリハビリぐらい一週間で終わりそうだ。
単独作業想定で作られている狭い部屋は、すっかり熱で満たされていた。
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