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螺旋階段
林 智弘
私は今、闇の空気の立ち篭める螺旋階段を、堀り進める様に下へ下へと下っている。
私はまだ、外の世界というものを見たことがない。
私の父と母は、さる大国の皇帝皇后であった。しかし、辺境の放浪民族出身の新しい国王に国を滅ぼされ、国の法律をその手で記した父は、上肢切断の刑に処せられた上に、彼等はこの、今、私が歩いている塔の天辺にある牢獄に幽閉されてしまった。私が太陽から命を授かったのは、その牢獄の中でである。
牢の中には、石造りの壁の手の届かぬ高い所に、一つだけ、小さくぽっかりと開いた窓があった。牢の中に光を提供するのは、唯一この窓だけであった。そこから毎日のように、昼間は眩い太陽が顔を覗かせ、夜は熱を失い月となった太陽が、再び姿を現した。両親が生きていた頃はよく、「あれが、お前の命をこの世へお運びになった神だ。ああして、あの窓に腰を御掛けになる時が、一番世の中の見晴らしが効くのだ」と言い聞かされた。
その頃よく聞かされた話にはこういうのもあった。外の世界の『地上』と呼ばれている所には、何でも『鳥』という宙を舞うことの出来る美しい生き物がいて、宮殿のああした窓辺に留まっては、大層美しい声で囀るのだそうである。その中でも、特に清らかで美しいのは、神の使いでもある火焔鳥という鳥で、これは鳥の中でも最も天高く舞うことが出来るのだそうだ。―しかし、ここへは普通の鳥達はおろか、この最高の上昇力を誇る火焔鳥でさえ、未だ訪れたことはない。太陽の次に身分の高い火焔鳥ですら昇って来られぬ高さとなると、ここは生き物の住まうことの許されぬ禁断の土地ということになるのであろう。
我々に、何故斯くも苛酷な運命が定められているのか。このことについても、両親は私に言い聞かせてくれた。そして、自分達の一生がこの様な形で終わることを最後まで悔やみながら、「お前だけは生き延びて、外の世界をその目で見て欲しい」と言い遺し、二人共、神の許へ召されてしまった。
私はそれから時を待った。自分に充分な力が備わる時を。太陽の光だけを食べて成長し、逞しい若者となる日を待った。そしてある日、その時期が自分に訪れたのを感じ取り、憤然と牢の扉に体ごと突進した。この世に生を持つ権利を与えられた私を、生まれた時より二十年もの間、この牢獄に閉じ込めていた扉。剰え、父と母の自由を永遠に奪ってしまったこの扉。―が、まるで、私に道を促すかの様に、扉は呆気なく、けれども勢い良く開いた。その途端、私の体中の筋肉は、まるで純粋なアルコールを流し込まれた様な、―と形容すれば良いだろうか、凄まじい発熱に、体の中側から突き飛ばされた様にビリビリと震えた。―だが、それは実は恐怖の予感の慄えだったのか。次の瞬間、しまった!と思った。筋肉に沸々と浮かび上がった汗は、瞬時に体温を奪う。そこには、ああ、そこには、螺旋階段への入口があった。
すぐ向こうの曲がり角は、内側の石壁に潜り込む様にして陰になっており、そこから闇の空気が漏れていて、進む先は見えない。世界の広大さを知らぬ私にも、階段がどれ程果てしないものかは知れた。しかも、その果てしなさとは対照に、狭い通路の壁と壁との間には、ある緊迫感があった。
私は長いこと入口の前で躊躇した。それから不意に後ろを振り返った。そこに南中の太陽があった。私は太陽に最後の救いに縋らせて戴こうと思った。これは甘えであると分かっていた。分かってはいたが、止むを得まい。私の心の片隅には、まだ、この牢獄に対する僅かばかりの未練がある。私は先程突き破った扉を引き裂いて薪を作り、それを太陽へ翳し、火を賜った。その松明を右手に握りしめ、私は再び入口へと立った。しかし、又もや何か複雑な想いが私を襲っていた。するとその時、太陽の光か、或いは牢の空気の圧力が私の背中を突き飛ばしたかの様なもの凄い感覚を受けた。私はよろめく様にして階段に足を踏み出した。
その儘数時間、螺旋階段を掘り進める様に、下へ下へと下って来た。しかし、まだ私の冷たい足音は、筒状の塔の中を、星よりも遠く彼方へと谺してゆく。今は太陽ももういない。松明の光が照らすのは、自身の姿と、階段の僅か四、五段先までである。あの曲がり角には、己の存在とは異質な、しかも、己の存在を脅かす沈黙の魔物が潜んでいる。―いや、そんなものは、まだ生易しい。私の研ぎ澄まされた感覚は、何かとてつもなく大きなものが、まだ僅かではあるが近付いて来る気配がするのを察知していた。それは、とてつもなく大きなものである。しかし、その大きさまでは、私の力では計り知ることが出来ない。何処から始まり、何処で終わるのかが見えないのだから、全体の大きさを知り得ようもない。それ故実感が沸かぬ。だから、どう対処して良いのかも分からぬ。それだけに尚更恐ろしい。だが、それは確かに近付いて来る。何時かははっきりせぬが、それは必ずやって来る。
階段を下り始めてから、更に何十日かが経過した。(尤も、ここでは昼と夜の区別も付かないが)なのに、状況は全く好転する兆しを見せず、下れども、下れども、私の目の前の風景は相変わらず同じであった。そうなると、流石に私の脳裏を、いろいろな迷いが捕らえるようになり始めた。そして足が重くなった。
ああ、帰りたい。帰りたい。松明を投げ棄て、一目散に踵を返したい。そうだ、松明を棄てろ。松明を棄てれば楽になる。後は魔物が追い返してくれるだろう。思い切って松明を捨ててしまえ!―いやいや待て!早まるな!太陽から賜った火を棄てておいて、ぬけぬけと牢に引き返せるものか。私は今、何という愚かなことを考えてしまったのだろう。両親は、あれ程強く立派でありながら、私は何という軟弱者なのであろうか。長いこと牢の中にいた為に、私も魔物に成り果ててしまったのだろうか。扉を突き破り、階段へ踏み込まんとした時の信念は、一体何処へいってしまったのだろうか。
もしかすると、私が自分の内なるものから発散されていると思っていた、己の思考、精神、行動は、全て親の見様見真似だったのであろうか。―そうだ。きっとそうに違いない。とどの詰まりはそうだったのだ。考えてもみろ。私はついさっきまで、あの牢獄の中にいたのだぞ。外の世界にいる、私と同じ位の年齢の若者であるならば、もうどんなにか賢才な人間に成長していることであろうに、私とくれば、云わば、今まで母親の腹の中にいたも同然だ。つまり、この二十年の間、何処も成長し得ていないのだ。私の行動は、全て親から盗んだ道徳に則ったもので、己の決断ではないのだ。この場面ではこうするのが美しいだろうと思ってやって来ただけのことだったのだ。本心は別の所にあったのだ。
―ああ、もう駄目だ。息が詰まりそうだ。ここの空気は私の体に合わないのかも知れぬ。こんなことでは、私の命はあと幾らも保たないのではないか。―いや、いかん、いかん。これは気の病だ。こんなに弱気になっていてどうする。外の世界に辿り着けるものも、辿り着けなくなってしまうではないか。
ああ、いっそのこと、自分が二重人格であったならどんなに良かっただろう。
―太陽と闇夜の月、双方は二つで一つであって、それが昼間太陽である時は、自身が闇の月であったことを忘れ、夜、月である瞬間は、自身が太陽であったことをまるで知らない。環境に応じ、全く別のものになっている。そして、個々がそれぞれの自分を正しいと思って、あんなにも安定した、陽の美しさと陰の美しさを醸し出している。しかし、―こんなことを言っては無礼にあたるかもしれないが、しかし、太陽や月が醜い色をしている時ですら、それは同じ事だろう。個々はそれぞれの自分を省みず、安定した醜さを保つことだろう。
―私もそうありたい。そうあれれば、どんなに良いだろう。だが、私は違う。そう成りたくて成れない出来損ないである。
二つが一つになった時、自分自身は片付かない、呪われた存在となる。今の私がそうだ。それは、心だけの問題ではなく、自分自身の肉体とも関わる問題であるから、それを消すことも、そこから逃れることも出来ぬ。一生『己』という間違った存在を背負っていくことになる。
父は、帝位を奪われた時、左右の腕を斬り落とされた。以来、両腕無しの片端となった訳だが、当然、その体から、生涯逃れることは出来なかった。
私の心も、それと一般である。一生付き纏うというよりは、それはどうすることも出来ない自分自身である。
―ああ、私はもっと鈍感でいたい。何があっても感じない鈍感でいたい。
私は、この、何処まで行っても永遠と続く螺旋階段と同じく、断ち切ろうにも断ち切れぬ妄想の中を、唯、虫螻の様に、のたうち回っていた。
こんな緊迫した状態の中で、何か少しでもショックがあったとしたら、私は一体どうなってしまうのだろう。自己が破滅してしまわないであろうか。
―ああ、私はもっと鈍感でいたい。
魔物はなかなか姿を見せようとしない。しかし、あの五、六段先の暗闇の中に潜んでいるのは分かっている。どうやら、私が進むに従い、彼等も後退りをしているようだ。それは私を孤独にする。それは、下らぬ迷い事を考える暇を与える。私が疲労するのを待っているらしい。
案の定、始めて疲労を感じた時、まず最初の敵が襲いかかった。足が階段に凍り付き始めたのだ。急に足の一歩一歩が軋み出した。その、動きの遅くなった両足に、今度は別の魔物が階段の中を泳いで来て、下から剣を容赦なく、踵から股までを貫いた。途端に激痛が走る。だが、私は声を挙げない。魔物が襲って来るこの瞬間を、寧ろ心待ちにしていたのだから。私はこの時、懸命に戦うことが全てである。
更に、一年という月日が経過してしまった。襲ってくる魔物の数は、尽きることを知らぬ。
いい加減、あとどれ位塔を下れというのであろうか。一体、同じ所ばかり巡っている様で、一向に出口は見当たらぬ。もしかすると、魔物に誑かされているのかも知れぬ。いや、或いは、出口なぞとっくの昔に見落として、通り過ぎてしまい、今度は、どんどん地に潜り始めているのではなかろうか。いやいや、入口の時点で、既に間違っていたのかも知れぬ。はて、入口は一つだったように思われるが。しかし、もしそうだとすれば、精神的にも、体力的にも、現在の態勢を継続していくだけで精一杯の私には、もう取り返しが付かぬではないか。後ろを振り返れば、あとは魔物に喰われて死ぬばかりだ。そして、今、この瞬間も、何か大きなものが迫って来る気配は常にある。
魔物と戦いながらも、相変わらず、私は雑念を拭い去ることが出来なかった。それは、戦いに支障を来たすかもしれなかった。―しかし、こう考えてみてはどうだろう。足枷を填められた囚人は、それが外れるまで、歩かずに待っているだろうか。足枷を付けた儘でも、歩こうと努力するのではなかろうか。逆に云えば、足枷を填めていない人間など、果たしてこの世の中にいるのだろうか。外の世界の人間も皆、足枷を付けた儘でも、歩く努力をしているのではなかろうか。
そう考えたことに依って、私に勇気が湧いて来た。右手の松明は尽きることがない。それどころか、益々盛んに燃え盛った。私が、私がこんなに勇気を持っていたとは!
私は今、果てしなく広がる青い空と、遠くに山々の連なるを一望する緑の大地の中にいる。ここは、宮殿の城壁の外で、私の他に人は一人としてなく、私のいる場所からは、人家さえも全く見えぬ。私が、若かったあの日、塔を下り切って最初に見た風景も、おおよそこの様なものだった。こうしてここへ立つと、今でもその時のことが思い興されて、一瞬、世界の全ての音が止まったかの様に、耳の奥がジーンとなる。
始めてこの風景を目にした時の私は、空の広大さと眩しさに圧倒されて、思わず額に手を翳し、大地に蓋をする様にして、視野を狭めようと試みた程であった。この果てしない大地だけでも、私の両腕には抱え切れぬというのに、これに空が加わったら、もう重心を失って、立ってなどいられない。
およそ五、六年掛けて地上へ辿り着いた私は、何も無いところから始め、爾後、更に十数年を掛けて親の仇を討ち、国を復興し、自分も皇帝となった。成功したから良い様なものの、今にして思えば、随分危険な橋を渡って来たものである。
私の暮らしは、今は、取り合えず安定している。若い頃に比べると、心の中まで実に安定している。だが、単調で同じような毎日である。そんな日々に於いて、この丘へ、護衛も付けずに一人でやって来るのが、私の日課である。
ここへ来ると、私には又、父や母の思い出が蘇る。
あの太陽と同じ所に父と母はいる。彼等と私の間には、果てしない距離が生まれてしまった。両親と私は、最早別のものになり始めている。彼等には、私の意志が伝わらなくなってしまった。存在は確かに感ずるのに、呼び掛けても返答がない。そして、私の目にも彼等の姿は見えない。私は、白い太陽を見て涙を零す。
それから、あの青く澄んだ空は、私に妻の面影をも蘇らせる。
妻のことは、まだ何も触れていないから、ここで少し書いておくことにしよう。
妻と私は、国を築こうとしている時期に結ばれた。しかし、もっと以前の、私が文無しだった頃から、私達はお互いを知っていた。妻は、私よりも、もっと大きなことに心を開いていたし、私は、大層卑小で我儘な人間で、その為に、随分と要らぬ苦労を負わせてしまったけれども、妻と私は、お互い堅い愛情で結ばれていた。相手を思い遣ることで結ばれていた。
妻がある時こんなことを言った。世の中の人々は皆、間違っている、と。彼女はこの事と健気に戦っていた。しかし、彼女ほど世の中の人間を愛している者はなかった。私が、いや、間違っているのは私だけであろう。少なくとも君は正しい。と応えると、彼女は、問題に立ち向かわず、家庭の幸福だけに逃げ込もうとする彼女自身の臆病さが、一番許せないのだと主張した。
彼女はこの、白い流れ雲の広がる青い空である。それを、私は大地から見上げている。
両親への愛と妻への愛。これだけは確かに私の内に存在する。
今日は、その後で、こんなことを考えた。
―人間は皆、最悪の状況に落ち入ると、以前、どんなにそうなることを恐れていても、況や、そうなる筈はないと考えていても、実際は、いとも簡単にそれを受け入れてしまうものらしい。
疑うものなら、私や彼の人々を見たら良い。
皇帝、皇后であった私の両親は、それまで、この世で最上の生活を送っていたにも関わらず、あの牢獄の中で、太陽の光を食べるだけで寿命が尽きるまで生き延びた。
或いは、妻が死の床に伏した時、私は最後まで望みを捨てなかった。―というよりは、心の何処かで、妻は助かるに決まっている、死ぬ筈がないと信じていた。妻の死の直前の微笑みは、これからもずっと彼女が生き続けていく事を示すものに思えてならなかったし、もし、万が一にも、誤って彼女が死ぬことがあれば、自分もその瞬間に、一緒に死んでしまうに違いないと考えていた。―だが、妻は死んだのだ。そして私は生きている。
それから又、私が再びあの塔の中を歩いたとしよう。恐らく、数時間と保たぬうちに狂い死にしてしまうだろう。とても今では考えられぬ。
しかし、そうはいっても、現在の私だって、この、何時、誰に殺されるか分からぬ緊迫感の中で、こうして抜かりなく、生きて、歩いて、口を利いているのだ。私の両親も、きっとこういう状況の中を生き抜いたことだろう。
―勇気とは、畢竟は鈍感さであるが、されど、人間の支えである。それがなくては、行動する事も、堪え忍ぶ事も、生きる事も為せぬ。
幸い、私も勇気を持ち合わせていた。あれ程、戦々競々として塔を下った私が、知らぬ間に塔を出て、今日の地位にいた。自分と回転の速度の異なる、大きな世の流れに、長いこと気が付かずにいた。
―さて、もういい加減に止めることにしよう。この空と大地を前にしていたら、私の考えなど馬鹿らしくて仕方がない。
一九九〇
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