プラット・ホーム

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 プラット・ホーム 林 智弘  ふと目を醒ますと、いつの間にか列車内には明かりが灯っていた。  少年は、どれくらい自分は眠っていたものだろうかと考えながら、辺りを見廻した。窓の外はもうすっかり闇に包まれていて、人家らしきものが通過してゆくのは辛うじて分かるのだけれど、列車が今、何処のどういう土地を走っているものか、時刻は何時頃なのか、さっぱり見当が付かなかった。  乗客は疎らで、悉く眠りこけている。終点が間近いのだろうか。  少年はこう考えながらも、心の中はひどく空虚であった。時々、機械的な感情の推移が僅かにあるだけで、それが終わると、脳は再び機能を停止してしまうのだった。  目が醒めたばかりというせいもあってか、少年には何処か、目の前の風景が全て、ひょっとしたら現実などではなくて夢の続きなのではないかという錯覚があった。  少年は吊り革の上の、網棚の更に上の、壁に貼られた広告に目をやった。車内の灯火に照らされ、煌々と光るそのいずれもが、彼には馴染みのないものばかりであった。  あ〃、随分と遠くへ来てしまったものだ。  そう考えると、少年は現実に戻らざるを得なかった。  段々、体の奥底から沸き上がってくる不安や寂しさと闘わなければならなくなった。すると窓の外の暗闇は、彼にとって益々残酷なのだった。  やがて、列車はとある駅のホームへと滑り込んだ。車内から見た駅構内は、その古ぼけた電灯のせいで暁色に染まって見えた。  少年は何かに恐ろしくなって、扉が開くなり列車を降りてしまった。  少年に、はっきりとした自覚があったわけではないが、このままこの列車に乗っていたら、自分は暗黒の死の崖縁へ運ばれていくという夢を見たのだった。  しかし、降りてしまってから、自分は一体何のために列車を降りたのだろうかと後悔した。  この駅で下車したのは、彼をおいて他にはいなかった。  列車が去ってしまうと、構内は一段と暗さを増した。  この裏寂しい駅のホームに、少年は一人取り残されてしまった。  彼は、ここの駅の名を調べようとしたが、不思議なことに、何処をどう探しても、駅名を表示したものは遂に見付からないのだった。  辺りにはただ、蛍光灯のジジジ…という音ばかりが鳴り響いていた。  少年はまだ幼くて、独立心も決して旺盛とはいえなかったから、従って、こんなふうにして一人で外を出歩くことすら、彼にとっては寧ろ稀であった。  彼には何処に行こうという宛てがあるわけではなかった。しかし、その日はどうしても家に帰りたくなかった。それは親と喧嘩したからとかいった生易しい理由からではなくて、彼の命と関わるような、もっと根源的な理由からであった。  彼の神経は衰弱し切っていて、少しでも気を緩めたのなら、すぐにこの世の全ての重圧に負けて、潰れて死んでしまうのではないかと思われるほどであった。  不意に、足元を照らす明かりがユラユラと揺らいでいるのに気が付き、上を見上げると、頭上の電灯の周りを纏い付くようにして飛んでいる一匹の蛾を見付けた。その羽根は電灯の光を受けて、金の粉をまぶしたように鈍く美しく輝いていた。しかし少年の目には、それはあたかも、自分に損害しかもたらさない煩わしいもののように映った。  蛾は、なんとか電灯の光と同じ高さを保とうと羽ばたくのだが、すぐに力尽きて降下してしまい、降下してはまた上昇しと、同じことを永遠と繰り返すのだった。これが彼には思慮浅はかな愚かしい行為としか取れなかったのである。  彼は嫌悪感を抱いて、すぐに顔を元の高さに戻してしまった。  彼はこの瞬間に、自分も、この光景も、全世界も全てご破算にしたいという、退廃的とも暴力的ともつかぬ欲求に駆られていた。  それからかなりの退屈な時間が流れた。  ホームは両側とも何かの建物に囲まれていて、それらは屍のように静まり返り、こちらからの光を受けて、暁色にボウッと浮かび上がっている。  それらは昼間はその建物本来の意味を持ち、少年も昼間それを眺めたのであれば、さして気にも留めなかったであろう。しかし、今は眠りに着き、暗がりの中に息を潜める壁として少年の前に存在しているのであった。  この壁は、少年と出会うまさにこの瞬間まで、彼とは無縁のものとして、ずうっとここに存在していたものである。  知らない土地に放り出された彼にとって、そういう事実は物凄く自分を心細くさせるものだった。だが、それは目の前の壁だけに限ったことではなく、辺りを見回せば、このアスファルト張りのホームも、赤錆だらけの線路のレールも、それからそこに敷き詰められた砂利も、全てが同様に彼の心の中を荒寥とさせるものであった。  少年はある想像をした。  もし、自分が死んでいて、自分の躯がこのような風景の中に打ち捨てられていたとしたらどんな具合だろう。少年はそれが現実となっても、何ら違和感はないような気がしてきた。  彼には記憶がある。  それは、ある都心の駅のホームで見た光景だ。  男の身体はすでにバラバラとなった『物体』と化していた。  指の先とか、頭部の目の付いている紫がかった辺りとか、そういったものがその男がかつて人間だったことを物語ってはいるが、肉の切断された辺りなぞは、まるでゴム製の皮で出来たぬいぐるみの中に、マシュマロか何か詰まっているように、見たこともない形に変形しているのだった。  人間の身体がこんな形になっているのを少年は初めて見た。  次にその肉片の下にヒタヒタと広がっている血の海を見た。  その血はあたかも、その事故が起こる前から、そこに予め広がっていたもののように見えた。もしくは事故が起こった直後から、地面からしみ出してきたかのような様相を呈していた。  そのように見えたのも、これだけの流血にも関わらず、人間の白い肉片が、実際に血に浸かっているところ以外は、奇妙なことに全く血飛沫を浴びていないからだった。  真紅の中に人間の白い肌ばかりが際立っていた。  少年は、その白い肌の周りを取り巻いている大気が、自分のいる方向へ流れてくることを嫌った。肉片を撫でてきた空気が自分の肺に取り込まれることを想像するとゾッとするからだった。  だからその現場を速やかに立ち去った。  少年は後で、何が彼を殺したのかを考えた。そして、それがいかに彼を苦しめていたのかを思いやった。そうして、自分はその影におびえた。  少年は我に帰った。  少年は自分がこのままここにいたら、次の瞬間には自分の価値が全て失われてしまうのではないかという脅迫観念に襲われた。  少年は、あの白い肉片と、自分の魂を秤にかけてみた。  自分の身体の片隅に眠る、暗闇の中で蒼い炎のように光るこの情熱は、あのような醜い肉片に投じるほど、下等なものではない。そう心の何処かで信じていた。  自分の血は、この自分とは無縁の土地の地べたに吸わせるほど、下等ではないと信じていた。  少年は俄に、家に帰らなければならないと考えるようになった。しかも今日じゅうに。ここが何処かも分からず、そしてもうすぐ列車がなくなって、家に帰り着けなくなるかもしれないというのに。  しばらくすると、来たときとは逆の車線に、突然、それまでの静寂を打ち破るようにして、パァーンという音とともに列車が入ってきた。  電光掲示に何処基処行きとの文字が見えた。窓から見える眩しく輝く車内は、家路に着く人の群れで一杯であった。  その光景は、乗客の体の輪郭までもが眼球に肉薄してくるように、妙にくっきりと見えたのだった。  やがて列車が止まって扉が開くと、ホームの今まで誰もいないと思っていた暗がりから五、六人の人間が沸いてきて、慌ただしく列車に乗り込んでいった。  少年はというと、列車が入ってくる瞬間、彼の脳裏には、予め行き先の決められた列車に乗るほど馬鹿らしいことはない、という考えが、殆ど発作的に起こっていた。列車に行き先が決められていることなど、常識からいったら当たり前であるし、彼自身今までそんなことに疑問を抱いたことなどなかった。  立ち竦んだまま、列車に乗ろうとしない彼の姿を目で捕らえる者も何人かあった。  列車は彼を残して走り去ってしまった。  自分の意志とはいえ、彼は世の中全てから見放されたような気持ちになった。まるで、あの列車がノアの箱船か何かで、これに乗っかった人間は命が助かるけれども、自分は助からないといったような。  あの乗客達は今はあんなに疲れた惨めな表情をしているけれども、又明日になれば、何事もなかったかのような顔をして、滞りなく生活していくのだろう。自分は瀕死の状態であるというのに。  列車が走り去ってしまっても、しばらくの間彼はそこに立ち竦んでいた。  ふとまた上を見上げると、先刻の蛾が先刻とまるで同じ場所で、まだ電灯に戯れて飛んでいた。  少年は飽きれてこう思った。虫けらというのは、なんてこうも馬鹿なのだろう。何故あんな無駄なことをするのだろう。あんな光なんて永久に掴むことは出来ないのに。仮にあの電灯に留まることが出来たにしろ、結局熱さで焼け死ぬだけだというのに。  蛾は、時々電灯に留まりそうになりながら、ツルッと滑り落ちて、また電灯の周りを飛んでいるのだった。  少年はしばらくぼんやりと蛾を眺めていた。が、急に我に返って、改札の方へ向かって歩き出した。列車など使わなくとも、どんなに時間がかかろうとも、自分の足だけで歩いていってやろうと決心したからだった。  無人の改札を潜った彼の後姿は、やがて暗闇の中へ溶けていった。後には、彼の確固とした足音だけが響いていた。  彼は家に帰り着いたであろうか。それとも、どこか別の場所に向かったのであろうか。あるいは、最終的には敗北して、またこのホームに戻ってくる運命にあるのだろうか。  それは実はまだ、筆者にも分かりかねている。  だから、もうここから先は別の物語として語られるべきであろう。 一九九六
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