第一話【偶然】~高塚暁人~

4/7
194人が本棚に入れています
本棚に追加
/14ページ
「どうも……! あっ、あの……、本当にすみません!」  青年は暁人の前まで来て深く頭を下げて、もう一度(あやま)った。暁人はずり落ちた眼鏡(めがね)を少しだけ指で上げてから、にっこりと笑みを浮かべる。 「いえいえ。元気がいい子ですね。ほら、お兄ちゃんとこに帰んな」  そう言って、暁人は青年に()いていた犬を渡す。すると、青年はたちまち安堵(あんど)した様子で目を潤ませた。 「ばかモモ……! もう、よかったぁ……!」  明るい茶髪がふわりと(かぜ)に揺れ、くりっとした丸い目が暁人を見上げる。細かいそばかすのある(ほお)は白く(つや)やかで、若さを思わせた。彼は暁人よりも少しだけ背は低いが、すらりとしていてどこか中性的。男にしておくのはちょっともったいないくらいだ。それくらい、彼は目鼻立ちが整っていた。  青年は白いワイシャツに茶色のエプロンを身に()けている。その姿は一見(いっけん)、カフェの店員のようにも見えた。だが、エプロンには犬の毛と(おぼ)しき細かい毛がくっついていて、胸元には小さく犬のマークが刺繍(ししゅう)してある。もし彼がカフェの店員なら、仕事中にこんな毛むくじゃらを追いかけてくることはまずない。毛だらけのエプロンを身に()けていることも、絶対にない。  あぁ、この子……。確か犬の店の――。  胸元の名札には『水澤』とあった。会社の向かい側のビルの一階には、ドッグサロンがある。店の外観は、全面ガラス張りの洒落(しゃれ)た作りで、人間の美容院やカフェと見間違えるような雰囲気がある。聞くところによると、その店は雑誌にも掲載(けいさい)されているほど有名店らしく、富裕層(ふゆうそう)には特に人気(にんき)があるそうだ。店の前には高級車がハザードランプを()けて停まることも珍しくない。 「本当にありがとうございました。車に()かれたらどうしようかと――あぁっ!」  礼を言うなり、青年は慌てた様子で()頓狂(とんきょう)な声を上げた。目線を下に落とし、すぐにモモというらしいその毛むくじゃらの犬を大事(だいじ)そうに()いたまま、その場でぱたぱたと(せわ)しなく足踏みを始める。 「大変だ! け……、毛だらけになっちゃってる!」  当然、こんな毛むくじゃらを(かか)えればこうもなるだろう。くたびれて(しわ)の寄った暁人のビジネススーツにだって、(ほこり)一つ、ついただけでも一応それなりに目立つものだ。 「あぁー……。どうしよう……! さっき(あら)()りしたからだぁ。あぁ、もう……」  青年は頭を(かか)えているが、暁人は驚きもしなかった。 「大丈夫だよ、毛なんか払えば落ちるんだから。会社にコロコロあるから平気」  暁人はそう言いながらワイシャツや、スラックスについた茶色い毛を払い落とす。確か、向かい側の席の女性社員がそういった(たぐい)の物は大体(だいたい)持っていたはずだ。 「コロコロ……。でもあのっ、クリーニング代ちゃんとお支払いしますから!」 「そんなのいいって。じゃあな、ちゃんと綺麗にしてもらえよ、ワンコロ」 「あの、ちょっと……!」  犬の頭をくしゃくしゃ撫でた(あと)、青年の(あせ)ったような声を背中に受けながら、暁人は会社に戻った。  店から脱走してきたのか……? 他所(よそ)にもうちの犬と同じようなのがいるんだな。  暁人の実家では昔から室内犬を飼っているが、今はもう亡くなってしまった先代の犬には脱走癖(だっそうへき)があった。とにかく、『お出かけ』と『お散歩』が好きな犬で、何度勝手に家を抜け出して、近所の人に届けてもらったかわからない。それを思い出して、暁人は一人、くすっと笑みを(こぼ)した。  人助けをした(あと)の気分はいいものだ。暁人は足取り軽く会社へ戻った。だが、エレベーターや廊下ですれ違う人に必ず、ぎょっとした顔で振り向かれる。皆、暁人を見ているのではない。毛だらけのスーツを見ているのだ。  おぉ、こりゃひどいわ……。  エレベーターの鏡で自分の姿を映しながら、暁人は(まゆ)を上げた。この有様(ありさま)ならぎょっとされても仕方ない。 「すみません、上野(うえの)さん。お忙しいところ申し訳ないんですが……」 「はい? あら、高塚さん。おかえりなさい」  暁人は薬事部に戻ると、隣の席に座るパート社員の上野にこそっと話しかける。 「コロコロ、どっかにありましたよね? どこでしたっけ?」 「あぁ、えっとねぇ、さっき羽崎(はざき)さんが持って――ってやだ、高塚さん! 何がどうしてそうなったんです? 野良猫でも()っこしてきたんですか?」  上野は眼鏡(めがね)を取って、まじまじと暁人のワイシャツを見つめた。彼女は老眼だった。 「いや、犬ですね。たぶん」 「犬? スーツでわんちゃんを()っこしたんですか?」 「まぁ、向こうから飛び込んで来たという感じで――」 「暁人、ほら」  (うし)ろから馴染(なじ)みのある声がする。羽崎一(はざきかず)()だ。一真は暁人の同期であり友人でもあって、付き合いは深く長い。(ちな)みに、薬事部長とどうにもウマが合わず、転職を考えている同僚、というのは彼のことである。
/14ページ

最初のコメントを投稿しよう!