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「どうも……! あっ、あの……、本当にすみません!」
青年は暁人の前まで来て深く頭を下げて、もう一度謝った。暁人はずり落ちた眼鏡を少しだけ指で上げてから、にっこりと笑みを浮かべる。
「いえいえ。元気がいい子ですね。ほら、お兄ちゃんとこに帰んな」
そう言って、暁人は青年に抱いていた犬を渡す。すると、青年はたちまち安堵した様子で目を潤ませた。
「ばかモモ……! もう、よかったぁ……!」
明るい茶髪がふわりと風に揺れ、くりっとした丸い目が暁人を見上げる。細かいそばかすのある頬は白く艶やかで、若さを思わせた。彼は暁人よりも少しだけ背は低いが、すらりとしていてどこか中性的。男にしておくのはちょっともったいないくらいだ。それくらい、彼は目鼻立ちが整っていた。
青年は白いワイシャツに茶色のエプロンを身に着けている。その姿は一見、カフェの店員のようにも見えた。だが、エプロンには犬の毛と思しき細かい毛がくっついていて、胸元には小さく犬のマークが刺繍してある。もし彼がカフェの店員なら、仕事中にこんな毛むくじゃらを追いかけてくることはまずない。毛だらけのエプロンを身に着けていることも、絶対にない。
あぁ、この子……。確か犬の店の――。
胸元の名札には『水澤』とあった。会社の向かい側のビルの一階には、ドッグサロンがある。店の外観は、全面ガラス張りの洒落た作りで、人間の美容院やカフェと見間違えるような雰囲気がある。聞くところによると、その店は雑誌にも掲載されているほど有名店らしく、富裕層には特に人気があるそうだ。店の前には高級車がハザードランプを点けて停まることも珍しくない。
「本当にありがとうございました。車に轢かれたらどうしようかと――あぁっ!」
礼を言うなり、青年は慌てた様子で素っ頓狂な声を上げた。目線を下に落とし、すぐにモモというらしいその毛むくじゃらの犬を大事そうに抱いたまま、その場でぱたぱたと忙しなく足踏みを始める。
「大変だ! け……、毛だらけになっちゃってる!」
当然、こんな毛むくじゃらを抱えればこうもなるだろう。くたびれて皺の寄った暁人のビジネススーツにだって、埃一つ、ついただけでも一応それなりに目立つものだ。
「あぁー……。どうしよう……! さっき荒刈りしたからだぁ。あぁ、もう……」
青年は頭を抱えているが、暁人は驚きもしなかった。
「大丈夫だよ、毛なんか払えば落ちるんだから。会社にコロコロあるから平気」
暁人はそう言いながらワイシャツや、スラックスについた茶色い毛を払い落とす。確か、向かい側の席の女性社員がそういった類の物は大体持っていたはずだ。
「コロコロ……。でもあのっ、クリーニング代ちゃんとお支払いしますから!」
「そんなのいいって。じゃあな、ちゃんと綺麗にしてもらえよ、ワンコロ」
「あの、ちょっと……!」
犬の頭をくしゃくしゃ撫でた後、青年の焦ったような声を背中に受けながら、暁人は会社に戻った。
店から脱走してきたのか……? 他所にもうちの犬と同じようなのがいるんだな。
暁人の実家では昔から室内犬を飼っているが、今はもう亡くなってしまった先代の犬には脱走癖があった。とにかく、『お出かけ』と『お散歩』が好きな犬で、何度勝手に家を抜け出して、近所の人に届けてもらったかわからない。それを思い出して、暁人は一人、くすっと笑みを零した。
人助けをした後の気分はいいものだ。暁人は足取り軽く会社へ戻った。だが、エレベーターや廊下ですれ違う人に必ず、ぎょっとした顔で振り向かれる。皆、暁人を見ているのではない。毛だらけのスーツを見ているのだ。
おぉ、こりゃひどいわ……。
エレベーターの鏡で自分の姿を映しながら、暁人は眉を上げた。この有様ならぎょっとされても仕方ない。
「すみません、上野さん。お忙しいところ申し訳ないんですが……」
「はい? あら、高塚さん。おかえりなさい」
暁人は薬事部に戻ると、隣の席に座るパート社員の上野にこそっと話しかける。
「コロコロ、どっかにありましたよね? どこでしたっけ?」
「あぁ、えっとねぇ、さっき羽崎さんが持って――ってやだ、高塚さん! 何がどうしてそうなったんです? 野良猫でも抱っこしてきたんですか?」
上野は眼鏡を取って、まじまじと暁人のワイシャツを見つめた。彼女は老眼だった。
「いや、犬ですね。たぶん」
「犬? スーツでわんちゃんを抱っこしたんですか?」
「まぁ、向こうから飛び込んで来たという感じで――」
「暁人、ほら」
後ろから馴染みのある声がする。羽崎一真だ。一真は暁人の同期であり友人でもあって、付き合いは深く長い。因みに、薬事部長とどうにもウマが合わず、転職を考えている同僚、というのは彼のことである。
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