3曲目 in silence

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3曲目 in silence

 眠れない夜の苦しみを私は誰よりも知っている。  この日も眠れずに白いベッドの上から深海のように黒く沈んだ夜をぼんやりと眺めている。  打ち寄せる波の音が聞こえる。窓の外に目を凝らしてみても空と海の境界線は曖昧だ。  私と同じ部屋に入院している患者はみんな眠ってしまったようだ。微かに寝息が聞こえる。眠れるかどうかわからないけれど、もう一度眠ってみることにした。  布団を深くかぶって余計なことは考えないことにする。  どうすれば眠れるだろう?  考えないように考えないようにしてもどす黒い不安感が追いかけてくる。真っ黒な波が押し寄せてくる。  楽しいことを考えれば眠れるはずだ。でも、次の瞬間、楽しいことってなんだろうと思えてくる。  私はずっと独りぼっちだ。どうしてなのだろう。  眠れないので、羊を数えることにした。羊を数えて眠れたためしはないけれど、今はもう羊に頼るしかなかった。  羊が1匹。羊が2匹。羊が3匹。  もふもふの毛に覆われた羊は楽しそうにぴょんと柵を越えていく。  羊が4匹。羊が5匹。羊が6匹。  次から次へと羊はぴょんと柵を越えていく。ここの牧場主は何匹の羊を飼っているのだろうと馬鹿なことを考えてしまった。雑念が過ってしまったせいで何匹まで数えたかわからなくなってしまった。  やはり眠れない。  私は布団から出て、そっと床に足をつけた。ベッドの下に置いていたスリッパを履いて音がしないように病室を出ることにした。  病室のドアを慎重に横にスライドさせると、予想以上にがらがらと音がしてしまった。慌てて後ろを振り向く。誰も起きていないようだ。  そっとドアを閉めて、静まり返った廊下に人の気配がないか確かめる。廊下は左右にずっと伸びている。薄明かりが灯ってはいるものの、廊下の突き当たりまでは認識できない。右の方向に少し進むと、階段がある。階段まで辿り着くと、そのまま下の階に進む。どれだけ物音を立てないように努力してもスリッパのぺたぺたという音は避けられない。  階段を降りきったところで遠くの方から物音が聞こえる。他の患者だろうか。階段の物陰で息を潜めて待っていると、徐々に足音が近づいてくる。足音が近づいてくるとともに心臓の鼓動がどんどん早くなる。突然、がらがらと音がして、そして静かにドアが閉まる音がした。そして、静寂。  特に目的があって病室を抜け出したわけではない。単に眠れないだけだ。  そのまま階段をさらに降りる。  今が何時かはわからないが、深夜の病院は怖いくらいに静かだ。誰もいないのではないかという錯覚すらしてしまう。  次の階にはナースステーションがあるので、看護師さんがいるはずだ。この時間には何人くらいいるものなのだろう。想像もできない。  階段を降りて廊下に出ると、右の方がぼんやりと明るい。微かに物音が聞こえる。ナースステーションには誰かいるようだ。  壁に手をつきながらすり足でナースステーションの方にゆっくりと近づいていく。すり足であれば、スリッパのぺたぺたという音もしない。最初からこうすればよかったと後悔した。  ナースステーションに辿り着いたので、そっと受付を覗くと誰の姿も見えない。その一瞬の隙をついて、ナースステーションを横切って、曲がり角を曲がる。気づかれてはいないはずだ。そう思った瞬間、「美穂ちゃん?そうなんでしょ?」という声がして、私は早足に廊下を駆け抜けた。後ろを振り向いても誰もいない。目の前にトイレが見えたので、慌てて飛び込んだ。  急に走ったので、息が上がってしまった。呼吸が整うのを待ってから、そっとトイレを出た。先ほど走ってきた方向を見ても人影はない。廊下の突き当たりは非常階段の緑色の光で怪しく照らされている。非常階段の方に行ってしまうと、またナースステーションを通らないといけないので、反対方向に向かうことにした。  足音がしないようにそっとすり足で進む。  眠れない夜はこうしていつも病室を抜け出して、誰にも見つからないようにあてもなく歩く。歩いているとぐちゃぐちゃになった頭の中が整理される。だから私は歩くのが好きだった。  やがて階段が見えてきた。階段の下を覗くと、暗く沈んでいる。躊躇せずに階下に進む。階段を降りると、広い空間に出てきた。1階に辿り着いたようだ。右の方には総合受付があり、その前にはベンチがずらっと並んでいる。誰もいないようだ。周りを慎重に窺いながら、ベンチの方に進む。ふと左の方を見ると、特徴のない黒で塗りつぶされた景色が見え、その例えようのない色が妙に私を不安にさせた。外の景色が見えないようにベンチに座った。  ふうっと息をつく。一向に眠気は訪れない。  入院してから1か月が経った。  インフルエンザにかかってしまった私はずっと学校を休んでいた。すぐに高熱は治まったもののずっと微熱が続き、近くの病院に診察に行くと、地元の大学病院の紹介状を渡された。すぐに両親と一緒に大学病院に行くと、早速、検査が始まった。両親と一緒に検査結果を聞かされたが、当然その内容はわからない。はっきりしていたのは入院しなければいけないということだけだった。改めて先生に病名を知らされたけれど、もう忘れてしまった。  あれからもう1か月だ。病状はだいぶ回復してきたようだけれど、いつ退院できるのかはわからない。歩けるだけ幸せなのかもしれない。  元々、私は、不眠症と言うと大袈裟だけれど、夜に眠れないことが多かった。酷いときは朝方まで寝がえりを繰り返す、ただそれだけで夜の長い時間を過ごすこともあった。そのせいで日中はまったく頭が働かず、ぼんやりとしてしまう。それが、入院してからはより酷くなったように感じられる。眠れないし、時折、強烈な不安感に苛まれる。  この不安感の正体についてずっと考えている。考えた末、ようやく自分の中でぼんやりと形を成したのが、私に明日が来るのかわからないことへの恐怖だった。確実に病状は良くなっているのにどうしようもなく怖かった。そして、何よりも、親しい友達も誰一人としていない私の唯一の世界との接点である学校という場所から隔絶されることで、私の苦しみを理解してくれる人が誰もいないのだということがより鮮明になっているのが苦しかった。自分のことを理解して欲しいと願えば願うほど、その不在を突きつけられる。誰かに自分自身が生きていていいんだと肯定して欲しい。  考え事をしていたらふと我に返った。ずいぶん長い間、考え事をしていたような気がする。正面に大きな時計があるが、暗すぎて文字盤は読み取れない。今は一体、何時なのだろう。  辺りはしんと静まり返っている。急に誰かに見られてないかと不安になり、周りをきょろきょろする。ぐちゃぐちゃになった頭の中が整理されたかどうか怪しいが、もうそろそろ病室に戻ろう。立ち上がって、階段の方に向かいかけたとき、さっと人が動いた気配がした。人影は階段の上の方に消えていった。もしかして誰かに見られていたのだろうか。階段を上がり、2階のフロアーを窺ったものの暗く沈んだ空間があるだけで人の気配は感じられなかった。そのままナースステーションがあるフロアーに上がった。廊下の奥の方には薄明かりが灯っている。ナースステーションには看護師さんの誰かがいるようだ。看護師さんに見つかったのだろうか。でも、だとしたらどうして声をかけなかったのだろう。考えてもわからないので、病室に戻ることにした。ようやく病室の前に辿り着き、そっとドアを開ける。このときもがらがらと音がしてしまった。慎重に開けてもどうやら無駄なようだ。すり足で自分のベッドに戻る。小さくはあと溜め息をつく。眠れるだろうか。眠れるといいな、そう願いながら布団を深く被った。  目を開けると病室は明るかった。  6人部屋の病室にはもうすでに起きている者もいる。  私は眠れたのだろうか。  病室に戻ってからもしばらく眠れなかった。羊を数えても無駄だとわかったので、もう数えはしなかった。記憶が寸断されているような感覚があるので、たぶんは少しは眠れたのだろう。思考はいくらかクリアになっている。  しばらくして朝食が運ばれてきた。  看護師長の田中さんが朝食をテーブルに置きながら話しかけてきた。 「佐々木さん、昨日はちゃんと眠れた?」  佐々木さんに私が眠れないことを話した記憶がなかった。なぜ知ってるのだろう。私の不審な表情を読み取って、田中さんは言った。 「阿部さんがね、この前、言ってたのよ。佐々木さんが眠れないって言ってて心配だって」 「ああ、阿部さんが」 「そうよ」  阿部さんは20代後半くらいの最近この病院に赴任した看護師で、私の細かい表情を読み取って気にかけてくれる人だ。  田中さんは他の患者にも朝食を運んでいる。ふくよかな田中さんにはどうしても肝っ玉母さんというイメージを持ってしまう。私が田中さんにそのイメージを伝えたら豪快に笑う展開も想像している。実際、そうなるかはわからない。  1か月も入院していると病院のご飯にも慣れてしまった。美味しいのかそうでないのかすらわからなくなってしまった。  ご飯を食べ終わって身支度をしていると、阿部さんが病室を覗いている。何やら手招きをしている。 「どうしたんですか?」 「ちょっとね」 「ちょっとってなんですか?」何の用事だろうかと不審に思った。  すると阿部さんは私の耳に口を近づけて言った。「夜中にこっそり病室、抜け出してるでしょ」 「えっ」やっぱり気づかれていたようだ。だとすると昨日の人影も彼女ということか。 「ついてきて」そう言うと阿部さんはにっこり笑った。  廊下をゆっくり歩く阿部さんに黙ってついていく。阿部さんはどんどん階段を上っていった。たぶん屋上にでも行くのだろう。  最上階に到達して、私の予想通り阿部さんは屋上の扉をくぐった。  阿部さんはくるっと振り返り、言った。 「体調はどう?」看護師なのだから私の体調は当然のことながら知っているだろうが、会話のきっかけとして尋ねきた。 「まあ、悪くはないです。前よりはずっと良いです」 「そっか」阿部さんは静かに微笑んだ。  阿部さんの表情から私が夜にこっそり病室を抜け出していることを咎めるわけではないことが読み取れた。 「美穂ちゃんって中学1年生だよね?」 「はい」 「学校行けなくて辛いよね」 「うん……、辛いと言えば辛いですね」  阿部さんは静かに首を傾げた、近くのベンチを指さして、座ろっかと言った。それに私は静かに応じる。 「どういうこと?」阿部さんはまたもや首を傾げた。 「えっ?」 「辛いと言えば辛い、という意味」  そういうことか。なかなか痛いところをつかれたなと思った。 「そういうことですか」思ったことが思わずそのまま口から出てしまった。 「そういうこと」 「なんて言えばいいのか…、難しいですね。私、友達がいないんですよ」 「うん」阿部さんが隣で優しく頷くのが雰囲気でわかった。 「友達がいないから学校なんて別に行きたくともなんともないし、だから学校なんて行けなくても辛くないんですけど、でも、中学生にとって自分が生きる世界の唯一の接点が学校なわけじゃないですか?その居場所みたいなものに隔離されてて、自分の苦しみを理解してくれる人が誰もいないって。だから辛いんです」昨日、考えていたことを一気に吐き出した。 「そっか」 「わかんないですよね…」 「難しいね」  わかるわけなんてないよなと思った。  でもねと言って、阿部さんは続けた。 「自分の苦しみって自分自身で乗り越えるしかないんだよ、結局。辛いことを言うようだけど……。他人からの安易な同情は強く生きる人にとっては迷惑だと思う。理解に見せかけた理解は余計に人を辛くさせるんだよ」  そんな風に考えたことは一度もなかった。苦しくても自分自身で乗り越えていく力が自分にはないなと改めて思った。 「美穂ちゃんは強いと思う」思ってもいなかったことを言われて驚いた。 「えっ」びっくりしすぎて次の言葉が出ない。 「私のは、他人からの安易な同情でも理解に見せかけた理解でもないからね」 「本当ですか?」薄目を開けながら訝しげに訊いた。 「本当。美穂ちゃんは今まで泣き言を言ってるのを見たことがない。他の看護師に訊いてもお父さんやお母さんに訊いてみても、そう言ってた。本当にすごいと思う。私が美穂ちゃんくらいの年齢のときには考えられなかった。これも他人からの安易な同情でも理解に見せかけた理解でもないからね」 「そんなに何回も念押しすると逆に怪しくなりますよ」 「じゃあ今のは撤回」  屋上は心地良い風が吹いていた。ここ最近は寒いと感じることが少なくなった。いよいよ春だなと思った。 「美穂ちゃんはまだ出会うべき人に出会ってないと思うなあ」 「出会うべき人?」 「そう、出会うべき人。安易な同情や理解に見せかけた理解をしない人」 「阿部さんもそうじゃないですか」 「私もそう。でも、私は看護師だから……、看護師と患者という関係性は、例えば美穂ちゃんが退院したときになくなってしまうかもしれない。そうじゃないの…。美穂ちゃんにはもっと身近にずっと寄り添って、楽しいときも苦しいときも一緒にいてくれる人に出会えるはずだから」 「出会えるんでしょうか…」 「出会えるよ。私が言うんだから。そのためにも強く生きなきゃね」 「はい」 「そろそろ戻らなくちゃ」そう言うと阿部さんはベンチから立ち上がり、お尻の部分の砂埃を払った。私も立ち上がり同じようにする。 「そういえば……、私が夜中に病室を抜け出してること、何も訊かないんですか?それを訊くために呼んだんじゃ…」阿部さんの背中にそう言った。 「ああ、そうだったね」その言葉に私は拍子抜けしてしまった。  またもや阿部さんは先ほどと同じようにくるりと振り返った。画になるなあ、そんなことを思った。 「美穂ちゃんが夜、眠れないことはよく知ってる。それがただ心配で、ずっと気になってたの。でも、美穂ちゃんがもがきながら一人で闘い続けてるのも知ってるから。もちろん病気とも」  私にはできることは少ないから、せめて近くで見守らせて。そう言うと阿部さんは寂しそうに笑った。素直にそんなことないと思った。 「強く生きなきゃね」去り際、阿部さんはもう一度そう言った。  先ほどよりも風は少し冷たい。まだ、暖かいという言葉とは程遠い。春はもう少し先かな。さっきの自分自身の言葉を脳内で打ち消した。  屋上から見える空と海の境界線は曖昧だ。ただ、夜の海と違うのは、海は青く澄んでいて、海面はきらきらと光り輝いている。特徴のない黒で塗り潰された、不安に駆られるあの夜の色ではない。それだけで少し希望が持てる気がした。  強く生きなきゃね。阿部さんのその言葉を胸に、明日も強く生きようと改めて思った。
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