1-(3) いきる 

1/1
9人が本棚に入れています
本棚に追加
/42ページ

1-(3) いきる 

 学校に着いた頃にはもうへとへとに疲れてしまって、コンクリート製のしっかりした門柱に倒れ込みそうになる。  高台にある学校は、しっかり水気のない大地に根を下ろしていて頼もしく見えた。いつもはただそこにあるだけの門柱が、なぜかすごく懐かしい。 「静かだね」 「とってもね」  門柱の脇の大きなクスノキが涼し気な日陰を作っていた。  まだ下校時刻だったせいか、門は開いていた。話し合って、危ないことがあるといけないからと念の為に閉めた。内側に手を回せば誰でも開けることのできるフックをかけた。  そのまま昇降口に行って、湖西くんに励まされながら靴を履き替える。そんなことさえ煩わしい。  室内ばきを履いた足に違和感を感じてるのは、靴下を履いていないせいだ。ぐっしょりと濡れたローファーは教室に立てかけて、面倒だった靴下は絞って下駄箱に放り込んできてしまった。あとで回収に行かなければいけない。  窓の外には空も海も、向こうにあるたった一本の陽炎のような直線に向けて鮮やかな水色に収束していた。薄い雲が、その直線に向かって緩やかに流れていく。  その時ふと違和感に気づいた。 「席」  そう、湖西くんが座っていたのは窓際のいちばん後ろの席だった。あの、誰も触れない、みんなが無いことにしている席。 「僕の席じゃなかった?」 「ううん、合ってる」  なんだかドキドキした。あの席がまるで存在しないと思っていたのはわたしも同じだったんだ。  座席の両脇に何もかけていない、机に置き勉の教科書一冊も入っていない机はあれひとつだった。自分で自分の席を見つけることができたのも納得だった。 「……そう言えば、湖西くんは今日、どうして制服? ひょっとして」 「ああ、それは。また今度話すよ」  またって、いつのことだろう。でも別にいますぐどうしてもそのことを知りたいわけじゃなかったので突っ込むのはやめた。 「言いたくなければ言わなくていいよ?」 「うん、ありがとう。青山さんはさ、気をつかいすぎるところがあるんじゃない? こんなことになって、もっと泣いたり大きな声を出したりするかと思った」 「そんなことになったら湖西くんが困るでしょう?」 「そうだね、僕が困る」 「だから、わたしは困らせないようにしてる」 「それが『気をつかってる』ってことだよ」  湖西くんは肩肘をついた姿勢で苦笑した。  そう言えば湖西くんの笑顔を会ってからあんまり見ていない。まして、この教室で彼が笑うのを見たのは初めてだった。  席を立った。とりあえずやらなくちゃいけないことを始末しないといけない。 「どこに行くの?」 「昇降口! すぐ戻るから」  教室の入口で軽く手を振る。  廊下にはわたしの走るタン、タンという足跡だけが聞こえて、ほかの誰かの足音も賑やかな笑い声も、先生がふざけてる子を叱る声も聞こえない。ましてや体育館で人が集まっている気配なんかない。  ああ、そうだ。  そうなんだ。  いま、学校にはわたしたち、ふたりきりなんだ。誤魔化しようのない事実にぞっとする。  ほぼ初対面に等しい男の子とふたりきり。どんな角度から見ても好ましくない。怖くない、と言ったら嘘だ。 「おかえり、本当に早かったね」  息を切らして走ってきた。早く、このことを湖西くんに伝えなくちゃいけない。胸が激しく上下する。肺が焼けそうだ。 「……ねぇ、水、出ない」  湖西くんは一瞬固まった。  次にどんな顔をしようか迷っているようだった。 「水道の水、どこも出ないんだよ」  わたしはほとんど半泣きだった。泣きたかったわけじゃない。涙の一滴だっていまは貴重だった。それを蒸留すれば飲めるのなら、いっそがんばって泣いてみせる。 「いい、落ち着いて聞いて。水道は止まってるみたいだよ。それから、電気も。ガスもこんなに地形が変わってるんじゃダメだと思う。ガス管が――」 「死んじゃう! 死んじゃうよ、わたしたち。助かって言えないじゃん。こんなんならみんなと一緒に消えちゃえばよかった。わたしもみんなと一緒に」 「……本当にそう思ってるの?」  そう聞いた声は厳しかった。その目は、わたしが視線を逸らすのを許さなかった。 「だって……怖いよ。計画停電とかとはわけが違うんだよ」 「わかってるよ。でもほら、水なら少しは」  彼はそう言うと、あの重そうなバッグから二リットルの水のペットボトルを三本も取り出した。 「どう? 少しは安心できるかな?」 「……」  安心の前に、驚いて声が出なかった。  手品師がシルクハットからいとも容易く鳩を出すように、わたしたちの生命線を維持しようとしているこの人は誰なんだろう、と笑顔の向こう側を覗こうとする。でもわたしを安心させようとする笑顔の向こう側はわたしから見えない。  なぜって、わたしは彼を知らなさすぎる。  彼は何者なんだろう? 「それで重そうだったんだね、……ありがとう」 「いや、いいんだよ。ちょうど買い出しに出たところだったんだ。食料も少しはあるよ。たぶん、あのコンビニで青山さんと入れ違いになったんだと思う。僕が公園に着くと、青山さんはもうそこにいたから。カモメを見てたでしょう? こんなことになるとわかってたなら、もっと持てるだけ買ってくればよかったね」  彼のカバンからは調理パンと食パン、おにぎり、それからなぜかプリンまで出てきた。ゼリー状のエネルギー飲料もあった。一体どこに籠るつもりだったんだろう?  そう、そうなんだ。  確かにわたしよりあとに湖西くんは現れたように思う。公園に入る時、同じ制服の人は見かけなかったから。  みんな、公園で寄り道したりしない。途中にあるマックやモスに寄るんだと思う。 「取り乱してごめんね、靴下を洗いたかったの。砂だらけのままじゃ気持ち悪いと思って」 「そうか、そうだよね。でももう少し待って、水なら当てがあるんだ。そうだな、明日には見に行ってみよう? それまではこれで凌ごう。もっとも足は気持ち悪いと思うから、足先だけでも洗おうか」  使いすぎないよう工夫して、少ない水で足を流す。  最初に流した水は捨てないでバケツに汲んで、その水で一度足をよく洗う。砂が沈む。少ない真水でもう一度流す。  湖西くんはわたしの手のひらに透き通った水をくれる。それで顔を洗うとずいぶん気持ちがすっきりした。  そして湖西くんもわたしと同様にした。 「ワガママ言ってごめんなさい」 「いいんだよ、聞けないワガママじゃなくて良かった」  バケツには顔を洗った水を残しておいた。『もしも』の時の備えだ。  明日には水が手に入ると言っていたけど、安心できなかった。できるだけ物は温存した方がいいに決まってる。 「ねぇ、学校探検をしない? 真っ暗になる前に」  夕闇が夕焼けを追いかけて空を覆ってしまおうとしている時間だった。 「いいけど、どこに行くの?」 「具体的には……そうだな、食べ物のありそうなところとか。調理室とかどうかなぁ?」 「ああ、なるほど」 「アルコールランプってどうかな、と思うんだけど。コーヒーを飲めるくらいのお湯なら沸かせるって化学部の子が言ってたの。そうしたらガスがつかなくてもちょっとしたお湯なら……」 「思いつかなかったよ、そうだね。スティックコーヒーやお茶なら職員室にもあるだろうし、いいんじゃないかな」  話を切り出す前にわたしはジャージに着替えていた。制服は重かったし、どうしても湿ってるような気がしたからだ。  カバンの中には予備の靴下も雨の時のために入れてあって、少しは清潔さを取り戻した気がしていた。 「じゃあ行こうか」  どこの教室もまだ鍵は開いたままだった。というより掃除中だったところも多かったみたいだ。掃除用具が散乱している。  ――みんなはどんなふうに消えてしまったんだろう? 物の散らばり具合から見て、準備ができてからどこかに行ってしまったとは考えられない。  世界が水に覆われるのを見て慌てて逃げ出したのか? ロッカーの中にはカバンが置き去りになっているケースが何件もあった。  それとも、むかし本で読んだ海賊船のように、ある瞬間にすべての時が止まったのか。 「ほら、青山さんが案内してくれないと」 「そうだよね、ごめん、ぼーっとしちゃって」  消えてしまった人たちのことは気になったけど、その前に自分たちの命が大切だった。なんでもいいから利用できるものを探さないと。
/42ページ

最初のコメントを投稿しよう!