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世界の半分が失われた。指の震えを気付かれぬ様、私は今にも崩れ落ちそうな膝に無理矢理に力を込める。激しい動悸を抑える為、溢れそうな涙を堪える為だけに荒い呼吸で息を整える。ショッピングモールを歩く人々は様々だ。カップルもいればサラリーマンもいる。小さな子ども連れの家族も。あの子と同じ年頃のグループだっている。私は視線を逸らして右上の天井を見つめ、水の中を進む様に出口に向かって歩いて行く。
この悪夢が始まったのはほんの三日前。電話を受けたのは夜だった。
「……Nが死んだ。」
「は?」
細かい会話はもう何も思い出せない。唯一覚えている兄妹の言葉はそれだけだ。それからずっと、悪夢の中を私は泳ぎ始めた。Nは我が子では無い。友達でも無い。そうだ。ただの親戚の子だ。ただ、世界で一番特別な子だ。親や兄妹と言うものを含め、人間と名の付く生き物と上手く付き合うことの出来ない私にとって初めて愛しいと言う感情を抱かせた存在。そう、Nを愛していた。それまで付き合った何人かの名ばかりの恋人達の比では無い本当の愛情。それを感じたのは後にも先にもNだけだった。しかしあの子の親──つまりは私の兄妹だ──さえ苦手な私はNが大きくなるにつれ、Nが兄妹と同じ視線を自分に向けてくる事を恐れた。だから離れた。それでも時たま無理をしてでもNの暮らす実家に帰った。それは親への義理と言う名の最後の束縛があった事も理由ではある。しかし何よりNに忘れられたくなかったし、私自身があの子を完全に失う事が出来なかったからだ。
部屋に入ると真っ先にそれと分かる白い布団が目に飛び込む。足は止まり、その時にはもう嗚咽を上げていた。私を見た兄妹ももう既にボロボロだった。事の顛末を聞いて兄妹の計り知れない悲しみと苦しみもわかった。しかし互いに決定的に考えの交わらない私達の言葉は、いつだって互いにどこかぼんやりとしか響かない。私はいつだって言葉を飲み込む。こんな時でも相も変わらぬ無神経な言葉を心で耳を塞いで聞き、私は思っている事のほんの少しを告げただけだった。
あの子を見れば認めなければならなくなる。否応無くその時は来た。Nの顔。見間違う事など有り得ないあの子の顔。閉じた瞳と見慣れた睫毛。いつもNが寝ている時にこっそりと見つめていた見慣れた景色。状況を考えれば顔が残っていたの事は奇跡だった。これより下は見るなと兄妹は言った。元よりそんな勇気など微塵も無い私はNの髪に、そして頬にそっと触れた。手が震えていたからだろうか。自分の手が冷たくなっていたのだろうか。ガサガサの髪に触れた後に触れた頬は何故か温かく感じた。何故だろうか。Nの目蓋も少し開いて見えた。あの子が眠る時にたまになる半目の様に見えるのだ。そんなものが思い込みだと言うのは自分自身が一番良く知っている。見てしまった以上、これは事実なのだ。
葬式の日になって初めて自分が一昨日の夜から飲み物しか口にしていない事を思い出した。トイレへ行く度に自分の生を感じ、吐き気の方が優ってしまい何も食べたいと思えなかったからだろう。時に腹は鳴るが何も必要が無かった。周囲がそれほど私の事に気付く筈も無かったが、一度帰宅した際に冷蔵庫に入れていた羊羹を一切れ口にした。Nの知らせを受ける2日前に作ったものだ。何の味もしない羊羹を飲み込み水を飲む。そして斎場へと私は向かった。
家族葬の終わった翌日──つまりは今日──休みを取っていた私は通帳記入の為にショッピングモールに立ち寄った。そしてそこで悟ったのだ。私の世界はもう既に半分失われてしまったのだと。
私の生きている理由はひどく単純なものだ。生きれば死ねるからだ。何よりNがいる。そして私の部屋には猫がいる。だから死に向かって生きる事が出来ている。それら二つだけが私がここで放り出せないものなのだ。それ以外のものなど如何だって問題無い。友人と呼べる相手も恋人も勿論いない。数年に一度気紛れに挨拶を交わす相手を友人と言うならば一人だけいるのかもしれないが。前の恋人と別れた理由もNだったか猫だったかも忘れた。その人は少なくともあの子とこの猫以上の存在にはなり得なかったと言う事だけが確かな事だった。親兄妹とも年々少しずつ距離を置いている。職場の人間も、ネットゲームで知り合った画面の向こうのフレンドと呼ぶ人々もいつでも『切れる』関係だ。今この瞬間に私が消えてそれが分かる相手はいない。ただ猫が残されてしまう。連れて行く事は出来ない。何度もキャリーケースに入れた猫と夜の海に入る自分を思い浮かべては、猫の悲しげな声と光る瞳を想像して妄想を止めた。そしてN。あの子に会えなくなるのだけは駄目だ。その思いだけで私は迷いなく翌日を迎えて来た。その箍が半分失われた。残るは半分。
帰宅して電気を点ける。いつもなら猫が鳴き始める場面だ。なんの物音もしない。私はいつもの場所に鍵を置き、キッチンで少しだけした買い物の中身を仕分ける。リビングは静かだ。振り返って見るが磨りガラスの奥には何の影も無い。十分な時間を取ってから私はリビングの扉を開ける。いつもなら此処で猫は私を待ち構えている。猫の姿は無い。猫の為だけにつけているクーラーの風が冷んやりと私の頬を撫でた。リモコンを手にしてスイッチを切る。風船が萎む様な音を立ててクーラーが止まる。猫の給水機のモーター音だけが部屋に響く。暑くなって来てから猫が定位置にしている戸棚の下を覗くがそこに姿は無い。視線を部屋の隅に積んだ毛布に走らせる。仕舞う為に先日洗濯して畳んで置いたものだ。中央が微かに膨らんでいる。クーラーが効き過ぎていたのだろう。私は膨らみをじっと見つめる。動いている様に見えたNの白い掛け布団が脳裏に鮮明に映し出される。同時に、目の前にある毛布は微動だにしていない様に見える。私はそっと猫の名を呼んだ。毛布の膨らみは動かない。ゆっくりと膨らみの上に手を伸ばす。それでも膨らみは動かない。私は乱暴に毛布を捲る。驚いた様子の猫の顔がそこにはあった。猫は相手が私と判ると一つ大きく欠伸をし、モゾモゾと毛布から這い出る。そして全身をこれでもかと伸ばして震えて見せた。いつもの様に猫は鳴きながら私の足に身体をこれでもかと擦り付ける。私は震える指で猫の頭を撫でた。両目から溢れた涙は止める間も無くフローリングの床に落ちる。
「ごめんな……。」
私は小さく呟き、ダンゴムシの様に丸まって泣き続けた。
「ごめんなさい……ごめん……。」
いつだってそうだ。私はこの猫に酷い事ばかりしている。自分が死ぬ為に生きる理由を押し付けてきた。妄想の中で何度も一緒に沈んで来た。今だってそうだ。私の残りの世界がやっと、やっと消えたと思ってしまったのだ。それなのに何も知らないこの弱きものは私に縋るのだ。そうしないと生きられないと本能で知っているから。この部屋から出る事は出来ないと知っているから。他の誰も踏み入る事の無いこの部屋だけが自分の世界と知っているから。Nは何も知らなかっただろう。私がこの部屋で思っていた事を。職場であの子が大好きだなどと宣っていた事を。極々稀に送られるメッセージを何度も見返してはNと妄想の中で会話していた事を。嫌な顔をされたくなくてこっそりと撮った写真、たまに見せてくれる無防備な笑顔の写真。それらを苦しい時に見ては大丈夫と言い聞かせて来た。そんな自分が今どうやってこの苦しみから解放されると言うのだろう。Nのいない世界と言うこの覚めない悪夢の中で一体いつ窒息死出来るのだろう。猫のザラザラとした舌の感触を手に感じて私は顔を上げる。涙は止まらない。止める気も無い。この部屋の王様は私なのだから。この弱きものに私の涙を止める手立ては無い。だから私は安心して泣き続けられるのだ。たとえこの涙がNの為に、そして半分はこの猫の為に流しているものだとしても。
猫がNと同じ場所へ行く時にも私は泣くだろう。きっと、それは悲しみの涙では無い。きっと、歓喜の涙なのだ。きっと、私はどこまででも残酷なのだろうから。
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