5.法家の思想と当時の諸相【荊軻伝】

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【法の信頼性】  重い罰則とかの不利益や補助金なんかの利益もあるんだけど、結局その法律が正しく施行されるかという信頼性の問題に尽きる。法家が現れるまえも法律自体はあったんだ。でも守られてなかった。なにせ徳治主義が横行していて、ようは偉い人が口をきけば見逃してくれるっていう世界がずっと続いていたんだ。それに法律自体のたてつけも『偉い人の裁量』が広いことが多かった。  だから仮に法家が法律を定めてもそのままじゃなあなあになったんだ。  だから商鞅は強行した。  商鞅というのは荊軻でもちょっと話がでてるけど、孝公の時代に秦で法律を厳格にした人だ。法家の人ではあるけどどちらかというと政治家なイメージが有る。孝公には覇道を求められたから法を敷いて富国強兵をすることを説いた。  法律は守られるということを理解させるためにはそれを実感させないといけない。少なくとも当時の徳治政治が実感されているのと同じレベルには。  だから市場の南門に木を立ててこれを北門まで運んだら10金を与えると立て札が掲げられた。でも運ばれなかった。書いてあっても偉い人が反故にしたらお金もらえなくて草臥れ損。当時はそういう世界。そうすると50金と上書きされた。暇な男が運んだら本当に50金をもらえた。  商鞅はその事実を示してから法を発布した。けどやっぱり急には人の意識は簡単に変わらなかった。上の者も変わらなかった。上が変わらなければ下は従わないとまずいのが徳治政治なわけですよ。  それで秦の恵文王が太子(皇位継承する王子)だった頃に法律に違反して、流石に太子を処刑できないから教育係の公子2人の鼻を削いで入墨の刑にして侍従を処刑した。公子だって王族なわけで。  ほとんど一番上の王族だって法に厳格に裁かれるってことがわかって秦ではようやく法が守られるようになった。 次【商鞅の末路】
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