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強い人
俺の同僚に、宮沢賢治みたいなやつがいる。
仕事が忙しいときも怒らず、騒がず、いつも静かに笑っている。しかも禁欲的で、浮ついた話は一切流れてこない。肉より野菜が好きで、痩せぎすとまではいかないが体躯が細い。そんな男だ。
その日、繁盛期のせいでオフィスは地獄と化していた。あまりに忙しい状況の中、あいつは失敗した部下に怒らず、極めて穏やかに注意していた。
数週間前に妹が亡くなり、余裕がないはずなのにだ。
昼時の屋上でやつに尋ねた。
「なあ、なんで怒ったりイライラしたりしないんだ? お前も余裕ないはずだろ」
煙草を吸っている俺の隣で、やつは弁当をゆっくり食べている。やつはううんと唸った。
「……誰にも言わないと約束するなら、教えるよ」
なんだそりゃ、と返すと、やつは少しだけ笑って言った。
「宮沢賢治みたいになりたいんだ」
俺は内心どきっとした。俺は前々から宮沢賢治みたいだと思っていたからだ。
やつは少し恥ずかしいのか、目元を赤くしている。
「雨ニモマケズって詩だよ。 小学生のとき、その詩を読んだんだけど、すごく心に残ってね。それ以来おれの目標は宮沢賢治なんだ。そりゃあ、腹立つときもあるけど。そのときは決まって、宮沢賢治のことを思い出すんだ」
黙って聞いていたが、口を挟まずにはいられなかった。
「そんなふうにしていて、つらくないのか」
なんでも我慢していたら壊れてしまうのではないか。そう不安を抱いた俺をよそに、やつはのんびりと微笑んだ。
「どうだろう。でも、楽しいよ」
そのお気楽な言葉に、やはりこいつは宮沢賢治みたいなやつだと思った。
「いつも心配してくれてありがとう。おれにとっての宮沢賢治は君だよ」
俺は笑って、なんだそりゃと返した。
おれの同僚に、宮沢賢治みたいな人がいる。
傷ついた人に躊躇なく手を差し伸べられる、そんな人だ。
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