栗鼠と鷂

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栗鼠と鷂

第16話 栗鼠と(ハイタカ) リブロンの取材帳  幼い頃、私は好き放題我が儘一杯に育てられた。  プロヴァンスの城に居た頃だから、多分5・6歳の時分だったと思う、果樹の生い茂った外庭で、いつも一匹の栗鼠を追いかけていた。  人に馴れないその栗鼠を私は『ジャン』と名付け、いつか自分の手の上に乗らせ餌をやりたいと願っていた。  ジャンはもういない。この思い出が過ぎ去りし昔日であるが故ではなく。  その夏の最後に、私が小弓で射殺(いころ)した。 (以下、速記文)  私はなんであれ何かを評論することが嫌いだ。  だが評論家は好きである。例えば芸術(音楽、劇作、詩、なんでもよい)を評論したとする。それは評論する人間の頭脳の中に表層的(ときに深層的)に存在する何がしかの理想あるいは信念に基づくものであり、世に言う「客観的」なる価値観は人間の精神構造上に存在しない。存在すると豪語したり、さもそのように喧伝する者が稀にいるが、無知ゆえの恥知らずか、もしくは詐欺の領域だろう。  例えば、ここに一皿のオムレットがある。まず一口食べる。次に「これは美味しい」または「あぁ不味い」と言う。さらに「これはこうしたら良かったのに」と言い始めたら、それがもう評論の扉へのノックだ(まだ至らないものであるが)。  既にあるものを前にして論じる。確定した過去を己の理想と相照らし、もってしての論評。ときに賛嘆。大方は酷評。  これこそ評論。そして評論家として名を高めたものは、つまりその感性があまりに俗(失礼!)で大衆化されている、あるいはそのように計算して大衆を歓ばせることの出来る者達なのだ。  愚かしいことに最近では「粋人の通を知る」と仰々しくうそぶいて、卵の殻ほどにも価値を見出せぬ凡庸さを有難がり、もって自分を他の評論家と選別しようとする輩もいる。  この人間くさい連中の、みみっちさ、プライド、屈折した羨望、あるいは翼を持ちながら生涯を地上で暮らすドードーが天空を舞う鳥に抱くかもしれない強烈な嫉妬。私の家族の恒例、誕生日に振る舞われるレモンソースと生クリームたっぷりの『幸運のパイ』に巧妙に埋め込まれた銀貨の如く、押し包まれているそういった感情を掘り起こしては味わうのが乙なのだ。  フェルダー氏の事務所のブレーズなどは、この点私にとって非常に好もしい。  私が寄稿し持参した雑誌のドイツ語訳(ノイエ・フライエ・プレッセの有能な編集部に感謝)を読んでの(げん)は、 「超つまんねぇ」  と 「この話は面白かったで好きだ」  の2つ。  竹を割ったような一行の感想。  粗野にも聞こえるが、ブレーズが発するフランス語訛りイタリア語訛り入り交じったような口調は、不思議な素朴さに魅力がある(私自身の小品には「なんで主人公の年増の淫売が自殺すんのか、わけ分かんねえだ」と頭をかきかき呟いた)。  彼の瞳の色はスミレの青を溶かしたようで、野放図な太い眉毛の面立ちとコントラストを描く。話し方は軽率かつ率直、大胆不敵で男らしい。  アルプスに抱かれて形成された人格は粗削りだが深い。そして恐らくは幾多の修羅場を経験したのだろう、時折垣間見える凄味からは、生い立ちの清廉一辺倒ではなかったことが窺い知れる。  大変に魅力的だ。 (雑考ノートに挟まれた三つ折りの紙片)  身辺調査書             ミッターグ探偵事務所 ラウル=ド=リブロン侯爵様  拝啓、閣下の御所望によるマクシミリアン=フォン=フェルダー、イアン=アグラム、ブレーズ以上3名の身辺及び家族構成、来歴、民族、血統その他の調査が完了致しましたので、報告書を同封させて頂きます。尚、雑費経費含めましての依頼料は前回と同じくパリのトゥスタッシュ銀行へ月末までに振り込みされたし。                               敬具 一枚目 マクシミリアン=フォン=フェルダー 階級…男爵家次男 出身…ウィーン、オーストリア 年齢…31歳 学歴…ウィーン帝国・王立大学法学部卒 信教…福音派  フェルダー家を開きしは、マクシミリアン=フォン=アウエルバッハ公爵。その(かみ)はハプスブルク王朝の傍流に属す。  公は小間使いの娘と恋に落ち、両親や親族の反対を押しきり教会で式を挙行したため、公爵位剥奪の上、一男爵に降格せらるる。稀に見る大醜聞のため、貴顕緑を紐解けば確認は易し。アウエルバッハ公爵家自体は当時の三男が継ぎ、現在も健在(次男はウィーン会議の翌年にメキシコにて頓死)。  父ヨハンはヴァイオリニスト。遊蕩の果て、肺病にて夭逝。母ヤドヴィガはポーランド貴族の出。夫の死より五年のちに死去。  フェルダー家の現当主は長兄ヴィルヘルム42歳。オペラ俳優として成功。現在夫人との間に三児をもうけ、ウィーン郊外に住まいを構える。夫人の民族的欠陥は領土内貴族階級では周知の醜聞、暗黙のうちに一般の上流社会からは爪弾きにされている。  マクシミリアン(開祖から数えてⅣ世)は母の死後、法学者の伯父コンラッドを後見人に育てられた。オーストリア首都ウィーン『神よ助けたまえ』通りにて法律事務所を構え、弁護士を生業とする。  その人柄は温厚篤実ながら賤民貧民を救う活動を是としており、兄同様貴族社会の規範からは逸脱している。  結婚歴なし。特に親しい友人、恋愛関係においては別紙を参照されたし。 二枚目 イアン=アグラム 階級…帝国領内居住権所持、アシュケナディム(東方ユダヤ人) 出身…ドゥブロクニク、ダルマチア 年齢…25歳 学歴…パリ・ソルボンヌ大学法学部首席卒 信教…ユダヤ教  アグラム家はダルマチア随一の資産家。現家長サムエルの代にドイツへの同化をせんものと姓を旧名アレイヘムより改定。以後長女インゲ・次女マルガリータ・三女サーニャ・長男イアン・四女ヤスナと子供達をドイツまたはダルマチア風に名付ける。母アンキッツァはダルマチア尼僧の庶子。  フランス留学のさい、多種の言語と武術・馬術を身に付ける。博覧強記、武芸達者。性格は冷酷無情であるとパリでは受け止められていたが、オーストリアへの帰国後は打って変わったように実直穏健であるという。留学中の決闘事件の顛末については彼の介添人に口を割らせし。別紙参照のこと。 三枚目 ブレーズ 階級…帝国臣民 出身…ローヌ村、フォアアルルベルク 年齢…18歳 学歴…特になし 信教…カソリック  交遊はきわめて奔放。自由民(ロマ)に近い思想を持つ。素行は問題がないとは言いがたく、近年の内に五回留置場を経験している。一度激すると手がつけられない。ドイツ語の他にマジャール語とロマ語を解す。  この他、フェルダー法律事務所に身許不明の外国人一名あり。調査及ばず。 (以下、速記文)  春は美しい。ヨーロッパ中部から東部、冬の間は青白い野菜をかじり、憩うは暖炉のそば、楽しみはビールという国々の食卓に鮮やかな色彩の作物を届ける。  勿論それだけではない。人々の気分が高まり、より移り気になり、鳥が伴侶を探すように人々は互いの愛を求め合う。  そしてこの時期、一年で最も自殺の多い季節というのは偶然ではない。  美しくメランコリックな季節。 4月4日  彫刻家のリッツェン=ゴルドベルグとの付き合いにも飽きてきた。彼の芸術は素晴らしく前衛的、なおかつ知的でベッド(ときに床の上)で肌を合わせる筋肉も好みなのだが、ただどうにも息が臭い。耐えられない。  原因は(にら)や玉葱だ。あの生野菜の辛い息で愛を囁かれても途端に興醒めしてしまう。  午後イアンのアパルトマンに寄る(住所はとうにブレーズから聞いてある)。私がドアを開けざま「帰れ」と一喝された。そのまま閉めようとするので爪先を隙間に突っ込み、「来訪者を無下に追い返すのがオーストリア式かい。それともユダヤの教義に則っているのかな?」と迫ると渋々といった様子で中へ入れてくれた。  厳つい高身の熊人の部屋は、その内面の精神を反映したかのような実務一辺倒の家具の少なさだった。余分な(私にとってみれば気持ちを和ますような)絵画や凝ったランプといったインテリアの類いは一切無く、剥ぎ取られた空間に最低限の装いをあてがったという風な調度。そして何か焦がしたような、香ばしいような男臭さが漂っている。  棚に並ぶ酒瓶はシードル、スリヴォヴィツェ(スモモ酒)、スコッチ、ラム酒にウオッカと強いものばかり。台所に料理の痕跡は無い。普段の食事は多分、外食か惣菜を買ってきて済ませているのだろう。  「春の宵の外気で凍えているんだが、お茶かコーヒーは頼めないかな」私は何やら靴が何足か転がるテーブルについた。  イアンは飾り彫りも素っ気もないグラスに、どぼりと適当な酒を注いで「飲んだら帰れ」と天板に叩きつける。  靴を磨いていたのだろう、よくよく観察すれば袖まくりしたシャツは墨で汚れ、爪の先には油が固まっている。そのまま自分も度数の高そうなどこかの地酒をコップで呑み始めた。  あまり愛想がない応対なので、からかってやるつもりで「君、マクシミリアン=フォン=フェルダーに恋をしているだろう」と言ったら「ぶしゅっ!」と自分の飲み物を噴き出した。アルコールがテーブル中に飛び散り、靴は無論のこと書きかけのノートやら書物にまでかかった。 「その様子だと言わずもがなだね」と必死に誤魔化そうと考えを巡らすイアンに通告を突きつけた。 「君が同性に惹かれたのは、やはりパリでの一件が関わっているのかい?」  イアンは背筋がヒヤリとするような眼差しで「…誰から聞いた」とテーブルを拭き始めた。 「覗き、告げ口は陰謀、策略の産みの親。すなわち我ら古き()(かた)の門閥のお家芸だよ」  それだけ言い残して、私はホテルへ帰ってきた。チョッキに酒が飛んで染みができたから。そんな格好のままで話しても滑稽だろう。  イアンは私が何の目的で訪ね、またなぜ早々と立ち去ることにしたか分からないだろうが。  だが、そんなものはどうでもいいのだ。楽しめれば何だって良い。  何が楽しいか、それを決定するのは私の魂。暑い夏の冷たいランチ、冬の夜の温かいフルコースが許せぬなどと誰が言うのか?  恋人同士の語らい、気軽なピクニック。婀娜(あだ)な女のため息と、くるくる変わる男の振る舞い。  なべて浮世は楽しからずや、遊ぶべし。  目下は楽しみの下準備をしているところだ。  リッツェンが逢瀬を求めてくる。それはもう矢の催促だ。郵便は山をなし、電話は鳴りやまない。  冷たくあしらうのに飽きたら、もう二三度寝てもいいだろう。  今夜はとても良い気分だ。  小柄で愛嬌に溢れた紳士のマクシミリアンは、どこか栗鼠のジャンを彷彿とさせる。そして彼の後ろには、いつもイアンがいて、近寄る人間に目を光らせている。己に鋼鉄の意志の枷をはめ、愛欲に焦がれながら…  大樹の枝に翼を休める一羽の(はいたか)─────…猛禽類の王…が、両足の間に栗鼠を守っているようだ。  愛しき小さな者に北風が当たらぬように、他の獣達に襲われぬように。鷂は、それと気付かれないほど優しく大きな羽で覆い庇っている。  しかし。  栗鼠が振り向いたら…  まともに猛禽の凶暴な肉欲を秘めた顔と向き合えるのだろうか?  小弓を上角に構え、弦を引き絞った瞬間をまざまざと脳裏に描くことができる。  やがて、ヒョウと空を切り小さく丸いジャンが落ちてくる。受け止めた両手の中でもがき苦しむ様子は、幼い私に目も眩むようなセクシーな感覚を与えた。  だが私は知らなかった。そうして傷付けた栗鼠が、物言わぬ虚ろな亡骸になることなど…そんなことは望んではいなかったのだ。  あれ以来、目前の死、流血には人一倍敏感になった。  だがそれらも、視野の外であれば何ら問題は無い。  ここはオモチャの多い街だ。単純でないものほど面白い。  栗鼠と鷂。栗鼠と鷂…………
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