うわ、わたしの年収、食器……?

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闇夜に包まれた町の中を逃げ回る男がいる。 男は顔面を蒼白にして、息をぜーぜー言わせながら雑居ビルの隙間に走りこんでいく。それから少し遅れて、同じ隙間にひとつの影が吸い込まれていった。 男の姿が闇夜の中でも街灯に照らされてぼんやり見えるのとは対照的に、その影は黒いということ以外なにも見えない。影は街灯の光を上手く避けて、おそろしい速度で移動しているがゆえに闇と同化しているのだった。 影は逃げる男への距離をぐんぐん詰めていき、そのたびに男は目を剥いて、呼吸の周期を早める。腕をあらん限り大きく振って、地面を震える足で蹴って、前へ、前へ。 しかし、前が行き止まりになっていることに気付き、男はぴたりと足を止めた。限界を超えて走り続けた代償と、後ろから迫る影への恐怖で足がすくんで、そのままへたり込んでしまう。 「くそ……俺は運がねえ……!」 男は地面を手で叩き、嘆く。その背中にナイフが突き刺さる。そのままナイフは肩甲骨の隙間をぬって、心筋周辺を切り裂いた。トマトを握りつぶすみたいに血液が溢れ出して、男は糸の切れたマリオネットのように地面に倒れ伏した。 「私がこの方角に誘導しただけで、運は関係ないから安心していいよ。それにほら、今日おとめ座一位だったし。いや、お前がおとめ座かは知らないけど」 男を殺したのは、ワイシャツの上からレインコートを着た女だった。年のころは20代前半。女は男の首に手を当てて死亡を確認すると、返り血を浴びたレインコートを脱ぎ捨てた。そしてズボンのポケットからスマホを取り出すと、電話をかける。 かける相手はスイカという女だ。人の頭をかち割って殺していたからそう呼ばれるようになったらしい。事実かどうかは知らないが、そういうことをやりそうな女だとは思う。 が、スイカは10コール鳴らしても出ない。女は軽く舌打ちをする。 20コール目になると、イライラして貧乏ゆすりを始めた。 30コール目になるころにはワイシャツの内ポケットからライターを取り出していた。だが、33コール目にして電話がつながる。 「スイカさん遅いです」 「あー、ごめん。君の仕事と速度を揃えようと思ってね」 「なんですか、喧嘩売ってるんですか? ぶっ殺しますよ」 女は地面を足でぐりぐりする。こいつは誰が仕事をしてやってると思ってるんだ。いくら上司だからといって言っていいことと悪いことがあるはずだ。女にはまともな社会経験がないから本当のところはわからないが、きっとそう。 「私がいないでどうやって仕事をとってくるつもりなのかな。字もまともに読めないくせに」 「ナイフを首に当てたらみんな親切に教えてくれるので問題ないです」 「そうかい、日本社会の暖かさに感謝だね」 とはいえ、そんなことをしていれば元々多い敵を余計に増やすだけだと、学のない女でも流石に理解はしていた。 女も一応小学校ぐらいは出ているが、結局読み書きも計算もできるようにはならなかった。文字を見ていてもそこに線の集合体があるとしか捉えられなくて、どうにも意味が掴めないのだ。計算は繰り上がりのある足し算と引き算と九九ぐらいなら暗算でできるが、数字を紙面に書く必要がある計算になるととてもできはしなかった。 別に勉強ができなくても親に殴られるだけなので、悲しくなったことはないが、そのせいでスイカの下にいつまでもつかなければいけないのだと考えると腹立たしくなってくるのだった。 「あ、言い忘れてたけど今日も仕事お疲れ様。処理は手配しておくからもう帰ってきて大丈夫だよ」 「了解です。あ、今日のごはんはなんですか」 「オムライスだよ。好きでしょ。今日で君と働きだしてに七年になるから、ご褒美だ」 「わーい」 お腹がすいていたので女は素直に喜んだ。感情はストレートに表現する主義だった。感情というやつは表現しないと奥に溜まっていって、そのうち爆発するものだからだ。その場その場でガス抜きしたほうが、少ない振れ幅で楽しく生きていられる。 そういうわけで、女は今しがた浮かんだ疑問をスイカにぶつけることにした。 「七年といえば、世の中には年収というものがあるらしいじゃないですか。昨日殺した男がなんか自慢してました」 「年収かあ。人によってはあるね」 スイカの煮え切れない言い方に疑問を抱く。 「人によっては? 働く人みんなにあるものじゃないんですか?」 「いいや、働いた業績が大きいともらえるものなんだ。感謝の菓子折りみたいなものだね。謝礼、って聞いたことないかい。同じ意味だよ」 「へええ、なるほど。七周年なわけだし、私も欲しいです」 素直に気持ちを表現しただけだったのだが、電話の向こう側から帰ってきたのは沈黙だった。女も負けじと黙っていたら、スイカは根負けしたのか口を開いた。 「君はわたしの代わりに殺しをやって、わたしはその代価として食事を与えているね。それで充分だとは思わないかい?」 「えー、でも、私頑張ってるので年収欲しいです」 「ふむ、確かにそれはそうだ。では、食事と一緒に用意しておくよ。寄り道はせずに、まっすぐ帰ってくるんだよ」 「くれるんですか! あざっす!」 女は両手を振り上げて飛び跳ねる。年収がどういうものかはよく知らないが、自慢に使われるのだからいいものではあるのだろう。期待に胸を膨らませて、全力疾走で路地裏を抜けた。 「それで、年収はどこですか?」 ダイニングに入るなり、女はスイカにそう訊いた。目の前のテーブルには、オムライスとポテトサラダ、それにスプーンと箸があるだけで、それらしきものは見当たらない。 「あるじゃないか。ほら、君のお皿を見てごらん」 女のオムライスが載っているのは、見覚えのない皿だった。愛らしいヒヨコのキャラクターが印刷されている。たぶんスイカの趣味だと予想されるが、こういうのは女も別に嫌いではなかった。 「これがわたしの年収ですか?」 「そ、かわいいでしょ。それは君のものだから好きに使ってくれていい」 「私のもの……」 わたしのもの、わたしのものと女は頭の中で反芻する。 思えばスイカと働くようになってから、女に自分だけの所有物というものはなにひとつなかった。ワイシャツはスイカのものだからタオルみたいに扱われる。煙草も買い与えられたものなので勝手に抜かれても文句は言わせてもらえなかった。 でも、これは自分のものなのだ。 女は嬉しくなって、皿を持ち上げて上下左右から惚れ惚れ眺めた。 「こらこら、まだ食べてないんだから遊んじゃダメだよ」 「もー、固いこと言わないでくださいよー」 そう言いつつも、女は満面の笑みで食器をテーブルに下ろす。 その顔を見て、スイカはうんうんとうなづき、そして手を合わせた。 「それじゃ頂こうか。いただきます」 「いただきまーす!」 卵が口の中でとろけてご飯と絡み合い、ケチャップの酸味が舌を刺激し、それぞれが絶妙なハーモニーを奏でる。つまるところオムライスは非常に美味しい。実家にいたころはカップラーメンがいちばん上等な食事で、それ以外は胃袋を満たすためだけに口に押し込んでいたけれど、スイカが作る料理はどれも最高で、女はすっかり食べることが好きになっていた。 かなり人遣いは荒いし、性格も最悪だけれど、こんな料理を作れるのだからきっとスイカは良い人なのだろう。 ――それに、年収に食器をくれるし。 女はスプーンを口に運び、また舌鼓を打った。
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