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ある薄暗い小路の奥の方を、辰夫は呆然と眺めていた。何かに取り憑かれたように歩道に立ち尽くす彼の後ろを、一台の車が走り抜ける。そのエンジン音は、やがて夜の闇に吸い込まれるように消えていく。
こんなところに道があっただろうか、と辰夫は思った。駅と会社を往復する通勤ルートは、新入社員だった頃から一度も変えたことはない。だから辰夫は、間違いなくこんなところに道などなかったと、確信を持って言える。昨日も、先週も、去年も、いつだってこんな道は見たことがなかった。
しかし、確かに今辰夫の目の前には、怪しげな一本の細い道が、底抜けの真っ暗闇に向かって真っ直ぐ伸びている。道の両側には古びた小さな一軒家がずらりと立ち並び、地面はひび割れたアスファルトに覆われ、一台の傷だらけの自転車が手前の灰色の塀にもたれかかっている。その様子はまるで、何年も前からこの道はずっとここにありました、とでも言っているかのようだ。
自分の記憶と目の前の光景との奇妙な差に、辰夫は思わず首を傾げた。もしや自分の頭がおかしくなってしまったのだろうかとも考えた。だが、その小路に潜む闇をまじまじと見つめれば見つめるほど、それに妙な生々しさを感じてしまう。
辰夫は再び視線をいつもの町並みに向け、高まる心臓の鼓動を抑えようとした。コンビニやマンションから放たれた光が、闇夜を照らす。どちらかと言えば田舎なこの町にしては文明的で、どこか暖かい光の世界。昨日と何も変わらない、平和で何もない世界である。
辰夫は再びその小路に目をやった。誰もいない、静かで暗い道。突如として現れた非日常。あの闇の向こうには、何があるのだろう。辰夫はいつの間にか、そういう思考に導かれていた。
遠くから微かに電車の音が聞こえる。辰夫は左手の銀色に輝く腕時計を覗いた。おそらくこの時間だと、あれはただの通過列車だろう。だが、辰夫がいつも乗る電車が来る時間までは、あと5分もない。
こんなことをしている場合じゃない、この小路のことは忘れて駅に向かおう、と辰夫は思った。そしてそれと同時に、自分の足が小路へ向かって数歩踏み出されていることに気がついた。辰夫は思わず立ち止まり、その小路のはるか先に潜む闇に、目を奪われた。
辰夫の後ろをまた、車が通り抜けていった。闇を照らしてくれる光に溢れた世界を背に、辰夫はいつの間にか目を瞑っていた。どこかから、何かの足音がする………………いや、これは多分、自分の足音だ。自分は今、退屈な日常を捨て、非日常へと足を進めているのだ。夜の静けさに響くのは、自分の乾いた足音だけなのだ。車の音も、電車の音も、もう聞こえない。
頭の中が、ゆっくりと闇に染まっていく。ふと、生暖かい風が、頬をかすめた。辰夫は何となく、ゆっくりと目を開けた。家々に挟まれた暗がりの中の小路に、ぽつんと立っていた。
その瞬間、我に返った辰夫は息を呑んだ。いったいどうしてしまったのだろう。自分はなぜ、こんな所に足を踏み入れようと思ったのだろう。ついさっきまでの自分を、今の自分が理解出来ない。まるで夢を見ていたかのような気分だ。
辰夫は困惑しながら、自分が歩いてきたであろう道を振り返った。そこで辰夫は更に驚いた。
さっき電車の音を聞いたときから今まで、まだ一分も経っていないはずだ。体感では、ほんの一瞬だったと言ってもいい。しかしどういうわけか、小路の入り口は、ここから数十メートルは離れているように見える。そしてその入り口から微かに、さっきまで辰夫が居たはずの外の世界の光が漏れているのだ。
あの一瞬で、こんなに奥まで歩いてこれるわけがない。いやそもそも、この小路はどこまで続いているのだろう。そうだ、これだけ進んでも出口が見えないなんて、普通ならありえないではないか。
辰夫は全身から血の気が引いていくのを感じた。心臓が狂ったように拍動する音が、頭の芯まで響いてくる。息が乱れ、今にも倒れてしまいそうになる。
引き返さなければいけない。正体不明の危険を察知した辰夫の脳は、体中にそんな信号を送った。それと同時に、辰夫は地面を蹴って、光の漏れてくる方向めがけて走り出そうとした。
しかしその瞬間、すぐ近くから、何かがちぎれるような、引き裂かれるような、ねじ切れるような、そんな嫌な音がした。それから足元で、何かがぼとりと落ちるような音がした。それらの音は、動き出した辰夫の足が咄嗟に止まってしまうほどの、異常なものだった。
辰夫は思わず、自分の足元に目をやった。今の状況以上に恐ろしいことが起きてしまったのではないかという予感を胸に、辰夫はそこにあるものを見た。
何かがある、というのは分かった。足元が一段と暗かったのと、それがそれであると信じられなかったので、それが何であるか判断できるまで数秒の時間を要した。
それは間違いなく、血にまみれた人間の■だった。
辰夫は情けない悲鳴を上げながら、腰を抜かして地面に倒れこんだ。頭の中が一瞬にして、おそろしい激痛で埋め尽くされた。辰夫はかつて自分の■があった場所を抱え込むようにして、痛みに喘いでいた。背中に冷たい汗が染みる。身体は細かく震え、起き上がることすらできない。
辰夫は地面に転がり悶えながら、顔を光の方へ向けようとした。そして、這いつくばってでも、外の世界に戻ろうとした。しかし、小路の入り口があったはずの場所は、いつのまにか闇に閉ざされてしまっていた。それだけではない。道の両側にあったはずの家々もどこかに消え失せており、底抜けの闇と、どこまでも続く細長いアスファルト以外のものは何もなくなっていた。
辰夫はもう、これがただの悪夢であることを信じて、ひたすら祈ることしか出来なかった。早く目が覚めてくれと、ただそれだけを思いながら、痛みに耐え続けていた。そして、現実の世界で再び自分の■の感覚を取り戻せる時を待っていた。
するとふと、何者かの気配を頭上に感じた。”それ”は何もせず、何も喋らず、ただじっと自分の目の前に居座っている。辰夫が恐る恐る顔を上げると、そこには一人の、正確には一人の人の形をした化け物がいた。化け物の体は血だらけで、全て人間の■だけで作られているようだった。
「■■■■■■■■■■■■■■」
化け物は獣のような低く掠れた声で、そう呟き続けている。やがて化け物は、地面に落ちた辰夫の■を見つけると、突然その■めがけて飛び込んだ。そしてそれに覆いかぶさるように倒れこむと、そのまましばらく、もぞもぞと蠢き続けていた。
辰夫はただ、その様子をひたすら眺めていた。自分はこいつに誘われたんだな、と思いながら、同時に、自分はもうここから出られないんだな、とも思っていた。
しばらくすると、化け物はむくりと起き上がり、再びこちらに近づいてきた。そしておもむろに、辰夫のもうひとつの■をもぎ取り、自分の体の中に取り入れてしまった。
辰夫は悲鳴を上げようとしたが、それはか細く掠れたつぶやき声のような声にしかならなかった。■がもぎ取られた跡は、痛くない。ただ、頭がずきずきと痛む。世界が暗い。自分の血の温かさが、冷たくなっていく自分の体に染みる。
化け物の気配が遠ざかっていく。辰夫はただ一人、闇の中でいつまでも横たわっていた。
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