32人が本棚に入れています
本棚に追加
紺と白の絞り染めの暖簾をくぐった先に広がっていた光景は広々とした台所だった。
外から見たこの古民家の土地は猫の額ほどしかないと思われたがこの台所はそれを感じさせないほど広々としている。
「──台所だ」
すぐに出なければと思ったのだが食欲をそそるお味噌汁の香りに誘われ一歩また一歩と前へ進んでしまう。四口コンロの1つに湯気をたてるアルミの片手鍋が置かれていた。鍋の中を覗くと出来立てのお味噌汁が入っており思わず生唾を飲み込んでしまう。
「良い香り……」
四口コンロの横にあるのは大きめの調理スペースと水回り。蛇口からは滝のように水が出ており真っ赤なトマトを冷水で冷やしている最中だった。どうやら店主は水を出しっぱなしのままどこかに行ってしまったようだ。水が勿体無いと思いその蛇口を捻り水を止めた。
「ふぅ……わっ、美味しそうなトマト」
ぐるりと台所全体を見渡してみると業務用の冷蔵庫が3つも備えられている。台所の真ん中にある正方形のテーブルには見たこともない調味料が所狭しと並べられていた。
私がぼんやり調味料を眺めていると廊下からパタパタという足音が聞こえてきた。まずいと思ったがそんなに長い廊下でもないので足音の主はすぐに台所へとやってきた。
「おや?」
暖簾をくぐって台所に入ってきたのは白い割烹着に身を包んだ男性。
灰色に近い黒髪をポニーテールに結っていおり、それは尻尾のように揺れている。私よりも年上──20代後半くらいだろうか。
手に持った竹篭の中には色とりどりの緑黄色野菜が入っていることから店主は野菜を取りに行っていたようだ。
「あ、あの──」
割烹着姿の男性は一瞬目を丸くして驚いた表情を見せたがすぐにニッコリと優しく微笑み私の来店を歓迎してくれた。
「いらっしゃい。記念すべき1人目のお客さんだ」
「え……? 1人目?」
「うん。1人目。おっと、ここは台所だから客席に案内しよう。申し訳ないね、如何せん僕ひとりだからまだ準備が完璧じゃないんだ」
「私こそ、勝手に台所に入っちゃってすみません。あの、ここは今日開店したお店なんですか? 私、毎日ここを通るんですけど──」
私が質問を言い切る前に襖の前に到着してしまい質問の答えを得る事は出来なかった。
「どうぞ、お入りください」
最初のコメントを投稿しよう!