三章 水珠と赤珠

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 陰陽寮から小一時間ほどで、例の誘拐疑惑のある陰陽師の屋敷に着いた。 「あなたの噂はかねがね……まさか陰陽寮から、あの安倍晴明の子孫であらせられる安倍光明様がいらっしゃるとは。力が弱まり廃業した私に、一体なんの御用でしょう?」  案内された居間で向かい合っているのは、七十代くらいの白髪の男性。 湯佐茂(ゆさ しげる)さんというらしく、垂れた目尻や笑みを絶やさない口元は、とても朗らかなおじいさんという印象だった。 「最近、この近辺で十歳前後の女児が行方不明になっているのは知ってますか」  安倍さんの眼光が鋭くなるが、湯佐さんは動じることなく「ええ」と笑みを浮かべたまま相槌を打つ。 「不安にさせへんように、住民に聞き回るより先に、湯佐さんからなんか気づいたことはあらへんか情報を聞ければと思たんや。廃業しとっても、陰陽師やったあなたの視点や勘はそう簡単に鈍らへんやろ」  湯佐さんはそれを聞くと、困ったように笑った。 「どうでしょう? 私も現場を離れて、かれこれ五年近く経っておりますから……」  探り合うような問答に緊張が走り、さっきから背筋が勝手に伸びる。 お腹がぐるぐると音を立てて下り始め、耐えきれなくなった私は……申し訳なく思いながらも、挙手をした。 「すみません、お手洗いをお借りしてもいいですか?」 「ああ、生きた心地がしない……」  お腹をさすりながら、お手洗いを出る。 「にしても、広い家だなー」  先ほどいた居間からお手洗いまで、何度廊下の角を曲がったかわからない。むしろ、ちゃんとあの部屋に戻れるのかが怪しい。  出迎えてくれたのは湯佐さんだけだったけど、奥さんやお子さんはいないのだろうか。 式神の姿も見かけないし、こんなに広い家でひとり暮らし? 「寂しいだろな……」  私もおばあちゃんが死んじゃってからは、ひとりで家にいると嫌でも静けさを感じてしまって、寂しくてたまらなかったっけ。  タマくんはほとんど毎日家に来てくれたけど、今日みたいにご両親が揃って家に帰ってくるときは家族と過ごしていた。 それは当然のことだし、むしろうちに入り浸っていることのほうがおかしいのだけれど、家が広ければ広いほど自分がひとりぼっちなのだと思い知らされて、私はこのままずっと孤独で生きる運命なのかな?とか、悪い妄想ばかり膨らんで……。 「って、ひとんちで考え事してる場合じゃない! 早く安倍さんのところに戻らないと……」  そう思って居間の扉を開けた……つもりだったのだが、そこは薄暗かった。 部屋の奥には仏壇があり、遺影にはランドセルを背負った女の子と年老いた女性が映っている。  そして、その仏壇の前には──。 「んーっ、んーっ」  口に布を咥えさせられ、手足を後ろで縛られた女の子が三人も転がっている。 彼女たちは私を見上げながら、涙があふれそうになっている目で『助けて!』と訴えていた。 「こ、これって……え、どういう……」  頭には、安倍さんの声がこだまする。 『廃業したはずの元陰陽師が、式神を使うて女児を誘拐してるって疑惑があってな』  まさか、湯佐さんは本当に女の子を誘拐してた?  その結論に至ったとき、ゴンッと頭の後ろに強い衝撃を受けた。受け身を取ることもできず地面に倒れ込むと、頭に鈍い痛みが襲ってくる。  床に頬をつけながら、必死に私を殴った犯人を見上げた。 「だ、誰……?」  先に視界に捉えたのは三つ編みに結われた長い灰色の髪。次に、無機質に私を見下ろす……着物姿の男だった。  でも、その濡れ羽色の黒い瞳はどこか悲しげで、意識を失う寸前まで目を離せなかった。 「いっ……」  ズキズキとした痛みで、意識が浮上してくる。  私、どうしたんだっけ。部屋で女の子を見つけて、そのあと男の人に後ろから殴られて……そうだ、安倍さんにこのことを知らせないと!  そう思って瞼を持ち上げれば、私を待っていたのは闇だった。 「え……なんで、なに……ここ……」  震えが止まらない。昔から、ううん……お父さんとお母さんに物置小屋に閉じ込められた日から、暗闇は苦手だった。  少しして、薄っすらとホウキやちりとりなどの掃除道具が壁に立てかけられているのが見えた。私がいるのは、物置小屋のようだ。  早く、ここから出なきゃっ。  慌てて起き上がると、頭に鋭い痛みが走る。 悲鳴が喉まで出かかったが、そんなことよりもここから出るほうが大事だ。  構わず立ち上がった私は、両手を伸ばして出口を探した。  しかし、なにも見えないせいで、先ほどからいろんなものにぶつかってしまう。 「あっ……」  なにかに躓いて、思いっきり転んだ。 肘と膝を擦りむいたのか、ヒリヒリする。地面を這うように前に進むと、ようやく扉に辿り着いた。 「誰かっ、誰かーっ、ここから出して!」  どんどんと扉を叩いても、叫んでも助けはこない。 真っ暗で埃臭くて寒くて……私は世界にひとりぼっちなのだと、そう思わせるこの場所から一刻も早く逃げ出したかった。 「誰かっ、助けてーっ」  外から鍵をかけられているのか、扉は押しても横にスライドさせようとしても、びくともしなかった。  何度も何度も扉を叩きながら、どこかで失望している自分がいた。  どんなに足掻いても、私を助けに来る人なんていない。わかってた……だって、あのときもそうだった。  私を【化け物】と呼び、【気味が悪い】と恐れ罵倒したふたりが、私を助けになんてくるはずがなかったのだ。  今回も同じだ。安倍さんはあやかしを従わせられる私を、人間にとっての脅威だと、そう言っていた。 もし【呪約書】のことがなければ、ご両親の敵であるあやかしに憑かれた私なんて、死んだほうがいいと思っているかもしれない。  ああ、やっぱり暗闇は、私の心に絶望しか連れてこない。  がっくりと、崩れ落ちるように地べたに座り込む。膝を抱えて、その間に顔を埋めた。  どれくらい、ここにいたんだろう、あとどれくらい、ここにいなきゃいけないんだろう。  窓がひとつもないので、時間も確かめられない。本当の本当に、世界から切り離されたみたいだ。 「助けて……」  願ったって無駄だと、諦めたような私の声がする。 「助けて……」  散々、化け物だと罵られてきたのに、それでもまだ信じてる。 私をこの暗闇から救い出してくれる誰かが現れるって。それは、きっと──。  「助けて、安倍さん!」  声が届いたのだろうか。バタンッと勢いよく開いた扉から、光が差し込む。 「無事か! 美鈴!」  初めて名前を呼ばれた。私は眩しさに目を細める間もなく、彼へと抱きつく。 「安倍さん!」  ひしっとしがみつけば、安倍さんは突き放すことなく抱き留めてくれた。 「安倍さんっ、安倍さんっ、安倍さんっ……ううっ、ふうっ……」  人間って、ほっとしたらこんなに涙が出るんだ。  助けにきてくれたことが、自分で思うよりもずっとうれしかった。 「落ち着け、もう大丈夫や。俺がおるやろ」 「怖……くてっ……暗いの、ダメなんです……」  安倍さんのジャケットを握る手が震える。それに気づいたのか、安倍さんはぎこちない手つきで頭を撫でてくれた。 「なんで、暗いのがあかんのや?」 「昔……閉じ込められた、から……。お父さんとお母さんが猫憑きの私を気味悪がって、物置小屋に……」  私を抱きしめる安倍さんの腕に、力が込もった気がした。 「また……」  ぽつりと安倍さんがこぼした言葉に、私は「え?」とか細い声を返しながら、顔を上げる。 「また、お前が暗闇に閉じ込められたときは、俺が見つけたるさかい、もう泣きやめ。見とって鬱陶しい」  つっけんどんな物言いなのに、どうして労わってくれているように聞こえるのだろう。  本気で心配してくれている安倍さんに、私はようやく笑みを浮かべた。 「さすが、光明さん」 「んなっ──、なんや、急に名前で呼んだりして」 「光と明……名前の漢字、どっちも明るいから……私を照らしてくれそうだなって。私を見つけてくれた、今の光明さんみたいに」  甘えるように、安倍さんの胸に頬を擦り寄せる。  安倍さんは一瞬、身を固くしたけれど、 「なんか、猫に懐かれたみたいや」  と言い、脱力していた。  するとそこへ、足音が近づいてくる。 安倍さんと一緒に振り向けば、湯佐さんともうひとり、私を後ろから殴って気絶させた男の人がいた。 「長い御手洗ですね、おふたりとも」  底知れない笑みを浮かべている湯佐さんに、ぶるりと震えてしまう。そんな私を、安倍さんはそっと抱き寄せた。 「わかってるやろ。俺が席を立ったのは、御手洗目的ちゃう。帰ってきいひん連れを探すためや」  そこまで言って、安倍さんは物置小屋をちらりと見やり、鼻で笑う。 「まさか、物置小屋に閉じ込められてるとは思わへんかったけどな」 「あ、安倍さん。私、湯佐さんの後ろにいる人に殴られて、それで気絶しちゃったんです。それで気づいたら物置小屋に……」  安倍さんは、湯佐さんの後ろに控えている男性を一瞥した。 「あら式神や。あんた、式神になにをさせてる」  なにも言わない湯佐さんに、安倍さんはため息をつく。 「おんなじ年齢、性別の子供を誘拐してるんは、亡くなった娘さんのためですか」  亡くなった娘さん……?  それは初耳だった。じゃあもしかして、女の子たちがいたあの部屋の仏壇に映ってた女の子が亡くなった娘さんだったのだろうか。  「はは、あなたがここに来たときから、もう隠し通せないと思っておりました。私の式神も撒いてしまわれましたし」  湯佐さんの笑みが自嘲的なものへと変わる。その表情は、初めて湯佐さんが見せた本心のような気がした。 「……もう、三十年も前になります。妻と娘をあやかしに殺されたのは」  あやかし……それにどきりと心臓が跳ねた。あやかし憑きだからだろうか、私も他人事ではないように思えたのだ。 「あやかしを滅する立場にいる陰陽師を継いだときから、あやかしに討たれる未来は常に想像していました。ですが……あやかしは私を殺すのではなく、私の大事な者を奪うことで復讐を果たしたのです」 「そら……自分が殺されるよりもしんどかったやろうな」  感傷のこもった響きが、安倍さんの呟きにはあった。  安倍さんはご両親をあやかしに殺されたときのことを思い出しているんだろうな。 湯佐さんの気持ちがわかるだけに、今回の依頼はつらいはず。  だけど、あやかし憑きの私が慰めたところで、安倍さんを励ませるとは思えない。 むしろ、お前にはわからないと、また怒らせてしまうかも……。  それでもなにかせずにはいられなくて、私は安倍さんの腕に手を添えた。 こんな私の手でも、安倍さんの心を温めてあげられたらいいと、そう願って。  安倍さんは私をちらりと見て、 「お前が気にすることやない」 と、小声で言った。  お前に関係ないと突き放されたようにもとれるけれど、柔らかい声音がそうではないのだと教えてくれる。 「私の家族を殺したあやかしは、私が仕事で滅したあやかしの仲間だったのでしょう。それから定年まで、あの子と妻を生き返らせる術を探して、ようやく見つけたのです」 「死者蘇生の禁術に手ぇ出すつもりやったんやな。正確には別の肉体に死者の魂を入れる術やけど、それには生き返らせたい人間に近い器が必要や。そやさかい、娘さんとおんなじ年齢、性別の子供を誘拐して、娘さんの魂を入れる器にしようとしとった」 「そうです。いずれ、妻の魂を入れる肉体も探すつもりです」 「探すつもり……そらまだ、諦めてへんってことやな」 「諦めるわけにはいかないんです。──風切(カザキリ)」  風切は湯佐さんの式神の名前だったらしい。彼は前に出てくると、すっと大きな鎌を出して構える。  やっぱり、その眼差しには悲壮がこもっていた。 「やれ」  湯佐さんに命令された風切は、一瞬だけ躊躇うようにぐっと鎌の取っ手を握った。それでも命には逆らえないのか、強く地面を蹴って襲いかかってくる。 「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。結界、急急如律令!」  安倍さんは素早く印を切り、結界を張って攻撃を弾いた。 後ろに飛ばされた風切は、宙で一回転して着地すると、すぐに鎌を振り上げながら結界を壊しにかかる。 「式神の力は主に比例する。俺の力はお前の主の何倍も上や。つまり、俺の結界はお前には壊せへん。……まあ、そう言うたところで主の命には逆らえへんか。酷い命令をするもんだな」  壊せない結界に鎌を振り下ろす風切を、安倍さんは憐れむように見つめている。 「本当は……従いたくないの?」  そう問えば、風切の肩がピクリと跳ねた。  風切は私を気絶させたときも、悲しげな目をしていた。今だって、苦しみを押し殺すみたいに無表情を貫いて攻撃してくる。 「言いにくい?」 「いや、発言すらも許されてへんのや」 「そんな……」  娘さんと奥さんを亡くした湯佐さんには同情できる。だけど、自分の目的のために式神に罪を背負わせるのは理解できない。 「安倍さんは、自分の式神を我が子みたいに大切に見つめてた。式神って、陰陽師にとって子供みたいなものじゃないの?」 「子供……そう思っていた時期もありましたがね、でも……あの子の代わりにはならないのですよ。本当の娘の代わりには」  湯佐さんの言葉に、風切が傷ついた表情を浮かべた。その瞬間、私の中のなにかが勢いよくぶち切れた。 「式神は親を……主を選べないでしょう? それを利用して縛り付けるなんて、ダメだよ」 「同感や。式神は道具ちゃうんやで。心がある」 「風切、あなたはどうしたいの? 教えて」  私が、あなたを自由にしてあげるから。  その思いに反応するように、ドクンッと心臓が音を立て、熱が全身を巡る。 今までは勝手に発動していた魔性の瞳の力が、初めて自分の意志で呼び覚まされていく。 「お前、またあの力を使う気か? 昨日の今日で無茶するな!」 「安倍さん、でも……こういうときのために、私の力ってあるんじゃないかなって。誰かを従わせるんじゃなくて、勇気をあげるんです」  私は結界の外に出て、風切に向かって歩き出す。 「なにしてんねん、危ないやろうが! 早う戻れ!」  安倍さんの呼び止める声が聞こえるけれど、たぶん大丈夫だ。だって、風切が私を傷つけようとしても──。 「──動けない」
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