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お昼になり、雪路さんが昼食を作ってくれたのだが、居間に光明さんは現れなかった。
ポン助曰く、屋敷内に光明さんの気配があるので、外へは出ていないらしい。
「光明さん、どこへ行っちゃったんでしょうか……」
ほやほやと湯気が立つお味噌汁を見つめて、私は箸を取れずにいた。
今、光明さんはひとりでいるのかな? ひとりで思い詰めてないといいけど……。
孤独は人を惨めにさせる。
物置小屋に閉じ込められたときも、『どうせ誰も、私を迎えになんて来ない』『私は化け物だから、誰からも必要とされてない』って、自分の存在がひどくちっぽけに思えた。
そうやって、光明さんも自分を傷つけていないといいんだけど……。
光明さんのことばかり考えていたら、タマくんが顔を覗き込んできた。
「美鈴、食べないの?」
「あ……なんか、食欲……わかなくて……」
苦い笑みを微かに頰に含ませて下を向けば、ポン助が「ならオラが~」と私の前にある煮物の皿に手を伸ばし、しいたけをつまんで、それはもう美味しそうに頬張っていた。
「ご飯大好きな美鈴が、お腹空いてないなんて……重症だね」
「私は食いしん坊キャラですか」
キレのないツッコミをして、私は静かにため息をつく。すると、見かねた様子で雪路さんが箸を置いた。
「……光明は、あそこにおるのかもしれまへん。息子たち……あの子の両親が亡くなったあと、光明をうちで引き取ってから、よう登ってましたさかい」
「登る?」
どこへ?と首を傾ければ、雪路さんは光明さんの居場所を教えてくれた。
私は昼食に手をつけずに席を立った。
雪路さんの説明を思い出しながら、屋根裏に行き、天井の小窓を開ける。そこから屋根に登ると、会いたかった人を見つけた。
光明さんは屋根に片膝を立てて座りながら、遠くを眺めている。その瞳は寂しそうで、胸がキュッとなった。
今、なにを考えてるんだろう?
背が高くて身体もがっしりしていて、私よりも大きいはずの光明さんの背中が、今は頼りなさげに丸まって小さく見える。
声をかけるのを躊躇っていたが、意を決して、わざとおどけるように「光明さん、見っけ!」と叫んだ。
この距離で、しかもこの声量で私に気づかないはずがない。……のだが、光明さんはこちらを見ない。
まさかの無視かとしゅんとしていたら、光明さんは鬱陶しそうにため息をついた。
「……ご近所迷惑や、なんの用や」
最近は世間話にも付き合ってくれるようになっていたのに、親密度がゼロに戻ったみたいにつれない態度。ちょっと心が折れそうだ。
そっちに……行ってもいい? そんなこと聞いても、今の光明さんはスルーするだろうな。
どうせ空気みたいに扱われるなら、勝手にさせてもらおうと、許可も取らずに光明さんのそばに寄る。
案の定、光明さんは私が近づいても我関せずで景色を見ていた。
私たちの間に会話はなく、 木々のざわめきだけが聞こえてくる。遮るものがないせいか、風が強く感じられて、昼間だというのに少しだけ肌寒い。
光明さんの心も、こんなふうに寒がっているかもしれない。
そう思って、光明さんにぴったりとくっついた。そこで初めて光明さんは、「お前は、ほんまに猫みたいやな」と呆れ気味に言葉を発した。
「ばあさんに聞いたのか?」
自分がここにいることを誰に聞いたのか、と尋ねているのだろう。
「うん、勝手に聞いちゃって、ごめんなさい」
でも、どうしてここなんだろう?
光明さんはこの家に引き取られてから、よく屋根に登るんだって雪路さんが言っていた。
その理由を知りたくて、私は光明さんの見ている世界を見つめる。
すると、視線の先にその答えを見つけた。見つけた途端、胸が押し潰されそうになり、涙が勝手に目尻からこぼれる。
「……そっか、光明さんは……帰りたいんだね。幸せだったあの頃に、思い出の詰まったあのおうちに」
遠くに、焼け焦げて黒くなった屋敷が見える。あれはきっと、光明さんがお父さんとお母さんと一緒に住んでいた家なんだろう。
「大事な居場所を奪われて、大好きだった場所が悲しくて苦しい場所に変わってしまって……。どう向き合っていいのか、わからなくなっちゃったんだね」
「……っ、お前……なんで……」
なんでわかるのかと、 そう問われているのがわかった。私はゆっくりと隣に視線を移して、光明さんに苦い笑みを返す。
「私も同じだから……。猫に化ける前は、両親も普通に私に接してくれてて、なにも知らずに、ちゃんと家族でいられた頃は……幸せだった」
話すのがつらくて、声が震えたのが情けなくて、私の目線はどんどん下がっていく。
「あの幸せな日々に帰りたい、でももう戻らない日々なんだって思うと、絶望して……。そんなことの繰り返しで、早く抜け出したいと思うのに、どう過去に決着をつければいいのかわからない……」
光明さんは静かに耳を傾けてくれていて、それが私を受け入れてくれている証のように思えた。
「……お前の言う通りだ。陰陽師としての力は、もう十分すぎるくらいある。すぐに親父とお袋を殺した土蜘蛛を探し出して、敵を打つことだってできたはずだ。やけど、俺はそうしいひんかった」
ぽつりぽつりと、光明さんは心の内を曝け出していく。
「怖かってん。俺の生きる目的は、土蜘蛛への憎しみだ。敵を討ってもうたら、俺はなにを生きる糧にしたらええ?」
迷子のように心細そうな面持ちで尋ねられ、喉になにかがつかえたみたいに苦しくなった。
光明さんが無表情なのも、口調が冷たくてきついのも、きっと……自分を惨めにさせる感情を隠したいからだ。
私はそうだった。化け物と嫌われて傷ついているのを知られてしまったら、自分が惨めになるから……それを悟られないように、つらいときこそ笑うのが癖になった。
「あの家を立て直さへんのも、黒う焼けた柱を見れば、焦げ臭い匂いを嗅げば、忘れへんでいられたさかい。生きる意味やった憎しみを……」
生きる意味が憎しみなんて……光明さんは暗いトンネルを歩き続けるみたいな気持ちで、生きてきたんだろうな。
終わりもない、出口もない、光も見えない道を、ただ復讐するという目的のためだけに進み続けてきたんだ。
「そやさかい俺は、その憎しみの対象であるあやかしを認めることができひんかったんや。やけど、お前と会うてから……」
じっと見つめられ、わずかに心臓が跳ねる。
「お前があやかしを人と同じように扱うのを見とったら、あやかしも悪いやつばっかりちゃうかもしれへんって、そう思うようになって……」
「光明さん……」
「そないな自分を認めてもうたら、あやかしを憎めへんくなる。俺はなにを糧に生きていったらええのか、わからへんくなる……」
苦悶の表情で俯く光明さんの手を、そっと握った。少しだけ冷たくなっているその手を、私の体温で温めてあげられたらいい。
「生きる糧なんて、生きていればいくらでも湧いてくるものなんじゃないかな」
「お前な、軽う言いなや」
「光明さんが難しく考えすぎなんです。ほら、家の前を歩いてるあのスーツの人とか、びわの木を見上げてるあの子供たちとか、見てみて」
私は屋根から少しだけ身を乗り出して、地上を歩く人たちを指差す。
「あの人はきっと、これから仕事に行くんだよね。それであの子供たちは、あのびわ美味しそうだなあって、お腹を空かせてる」
「それがなんやって言うんや」
「みんな、自分の生きる糧がなんなのかなんて考えて、生きてないんだよ。だって人間は、生きるために働いて、生きるために食べて……つまり、生きるために生きてるんだから、生きることこそが、生きる目的でしょう?」
光明さんは「お前は……」と目を丸くしたあと、なにがツボに入ったのか、ぷっと吹き出した。
「ぷっくく……能天気すぎるやろ。俺が悩んでるのが、アホらしなってくる」
「もう、ここ笑うところじゃないからね? でも、光明さんが笑ってくれたから、いいや」
つられて笑えば、光明さんは眩しそうに目を細めた。
「……不思議なやっちゃな。お前だって、しんどい人生を送ってきたんやろ? そやのにやさぐれへんで、なんで悲観せずにいられるんや?」
「うーん……私だって、心の中はそれはもう真っ黒でドロドロで、荒野のように荒れてるよ。だけど、無理してでも前を向いていたいんだ。私も幸せになれるって、希望を捨てたくないから」
「……強いやっちゃな」
「雑草の如くね」
「調子に乗るんやない」
ピシッとおでこを指で弾かれたが、私はそんなやり取りすらも光明さんに近づけた気がして、へへっとうれしさに笑ってしまう。
「光明さん、これは傷に向き合うチャンスなんだよ。ちゃんと傷に向き合って手当てすれば、完全には塞がらなくても、思い返して血が流れることはない。かさぶたになる」
見たくない傷から目を逸らし続ければ続けるほど、傷は膿んで悪化する。悪化した傷は心を蝕んで、人を信じたり、生きる活力を奪っていく。
「だから、真実から目を逸らさないで、これからどうすればいいのか考えよう? 私も一緒に答えを探すから」
「……ありがとう。さっきは感情的になって、なにが正しいのかを見失うとったけど、今ならちゃんとわかる。これからどないすんかを決めるためには、まず十年前の真実を知らなあかん」
「そうだね、陰陽師側だけじゃなくて、あやかし側の話も聞いてみよう? お互いにわかり合える部分があるかもしれない」
「ああ、憎しみを断ち切れるかはわからへんけど、俺の子供や孫……その先の命が幸せに生きていけるような選択、できる思うんや」
光明さんの言葉に、もう迷いはなかった。
過去に囚われて憎しみに縋るんではなく、これからの未来を見据えて、幸せを思い描いていくために、まず知ることから始めよう。
「そうと決まれば、土蜘蛛に会いに行かないと。おじいさんも心配だし……」
「そうだな、あまり時間がない。親父とお袋のときは子供でなにもできなかったけど、今は違う。じいさんを助けてみせる、必ず」
繋いでいた手を、お互いに強く握り合う。
向き合うのが怖くて、崩れ落ちそうになりながらも自分の足で踏ん張っている光明さんを支えたい。
そんな強い感情が、胸の奥から突き上げてくるのを感じていた。
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