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一章 契約夫婦は命懸け
誰かの指がそっと目尻を拭う感覚で、目が覚めた。
「嫌な夢でも見た?」
縁側に寝そべっていた私の顔を、幼馴染のタマくんこと、七歳年上の魚谷玉貴(うおたに たまき)が覗き込んでいる。
柔らかな焦げ茶色の短髪、真ん中で分けられた前髪から覗く金の瞳。顔が整っているので、黒のハイネックセーターにジーパンというラフな格好ながらも妙に大人の色気がある。これまでタマくん以上のイケメンには出会ったことがない。
「んー……嫌な夢だったような、懐かしかったような?」
ゆっくり上半身を起こして頬に触れると、涙の跡がある。
二十三年生きてきて、夢を見て泣いたのは初めてかもしれない。
濡れた自分の指先を見つめていたら、ぽんぽんと優しく肩を叩かれた。
「とりあえず、昼ご飯でも食べよう。あったかいし、縁側で」
「それは妙案ですな! 賛成賛成、大賛成!」
両手を上げてはしゃいでいると、タマくんが苦笑いする。
だが、わかってほしい。タマくんは巷で有名な料理男子なのだ。縁側に運ばれてくるレモンが添えられた唐揚げは見るからにカリカリしていて、よだれが溢れそう。しいたけと花の形にカットされたにんじん、そして鶏肉が入った炊き込みご飯のおにぎりなんて、ひと手間どころかふた手間も三手間もかかっている。
ぷかぷか浮いているお麩(ふ)と三つ葉のお吸い物も炊き込みご飯に絶対に合うし、小皿に盛られたぬか漬けなんてタマくんお手製のものだ。ぬか床から自分で作れる男は、そういない。というか、私も作れない。
「いただきまーすっ」
タマくんと縁側に並んで座り、倍速で手を合わせた私は大口でおにぎりにかぶりつく。
「んん~っ、しあわへ~」
野菜やしいたけ、鶏肉の旨味をたっぷり吸い込んだご飯に感激していたら、ぴょこんっと頭から猫の耳が、お尻から二股に分かれた尻尾が飛び出した。それらは紅みがかった、私の長い髪と同じ毛色をしている。
「美鈴(みすず)、耳と尻尾が出てるよ。家だからいいものの、会社だったらまずいからな?」
困ったように笑うタマくんは、決して驚いていない。
それはタマくんが私と同じで、人ならざる者──彼らが言うにはあやかしと呼ぶらしいのだが、そういう類のものが見えるから。それに加え、私──猫井(ねこい)美鈴の〝体質〟を知っているからだ。
おばあちゃんが私を霊能者的な人に見せたとき、私は生まれたときから猫憑き=猫又という尾がふたつに分かれたあやかしに憑かれているのだと言われたらしい。
本当かはわからないけれど、実際問題、驚いたりドキドキしたり、興奮するとこうして耳や尻尾が出たり、ひどいときは猫そのものに変化してしまうこともある。それにプラスして、もうひとつ長年の悩みがあるのだが、考えると憂鬱になるだけなので、今はご飯に集中しよう。
「それにしても、悪いね、タマくん。休みの日まで、うちでご飯作ってもらっちゃって」
私とタマくんは全国展開しているペット用品専門店、『スマイルペット』の本社で働いている。
タマくんは営業部、私は商品企画部なので部署は違うけれど、家がお隣さんなので行き帰りも一緒。ついでだからと朝晩のご飯だけでなく、お昼のお弁当までお世話になっている。
「だって美鈴、ほっておくとコンビニ弁当かカップ麺ばっかり食べるし、栄養偏るぞ。いつまでも高カロリーなものをサクサク消化できると思ったら、大間違いだからな」
「それ、経験談?」
ちょうど三十歳のタマくんがしみじみ言うものだから、唐揚げに伸ばしかけた箸をぴたりと止めてしまう。
高カロリーよ、お前さんは敵なのかい……?
唐揚げを睨みつけていると、縁側の下からひょこっと一つ目小僧が顔を出した。大きな瞳をキラキラさせ、唐揚げを見つめている。
「なにが悲しいかな、一つ目小僧くん。私の摂取カロリーを減らすため、タマくんの絶品唐揚げを一緒に食べてくれるかい?」
私は取り皿に唐揚げをいくつか載せ、一つ目小僧にお裾分けした。一つ目小僧はペコリとお辞儀をして、姿を消す。
見える人間が珍しいのか、タマくんの料理が目当てなのか、こうやってうちの庭にはときどきあやかしが入ってくるのだ。
タマくんも見慣れた光景だからか、平然としている。
「俺のは植物油で揚げたヘルシー唐揚げだから、たんと食べなよ」
「一家に一台、万能幼馴染」
「人を家政婦ロボットみたいに……。そうだ、そろそろばあちゃんの命日だろ? お墓参り、〝おばさんたち〟とはずらして行くか?」
タマくんは気遣わしげな視線を私に注ぐ。
〝おばさんたち〟というのは、私の両親のことだ。
「そっか、もうおばあちゃんの命日なんだ……」
例の体質のせいで両親から気味悪がられ、おばあちゃんに育てられた私。愛されるというのがどれだけ心を満たしてくれることなのか、他人の体温がどれだけ不安を和らげてくれるものなのか、教えてくれたのはおばあちゃんだった。
私が二十歳のときに亡くなってしまったけれど、この立派な日本家屋を、帰る場所を残してくれた人。
この家に引っ越してきたからこそ、タマくんとも出会えた。ひとりぼっちの私が、こうして笑っていられるのも幼馴染であるタマくんのおかげ。
タマくんとは十年以上の付き合いになるので、兄のような存在だ。逆にタマくんも私を妹のように思っているからこそ、こうして半ば同棲状態でうちにいるのだろう。
「親とうっかり会っちゃったら気まずいし、早めに行っとこうかな」
両親のことを思い出すと、決まって蘇ってくる記憶がある。
猫に変化する娘を恐れ、『この、【化け物】が』『【気味が悪い】のよ!』と罵倒し、私を物置小屋に閉じ込めたふたりのこと。物置小屋は真っ暗で埃臭くて寒くて、私は家族がいるのに世界にひとりぼっちなのだと絶望した。
何度扉を叩いても助けなんて来なくて、初めて『いっそ消えてしまいたい』と、そう思って……。
「……美鈴、大丈夫か?」
心配そうに眉を下げるタマくんにハッとした私は、すぐ笑顔を作った。
「ごめん、なんかお腹いっぱいになってきたら、眠くなっちゃって。ほんと、子供みたいだよね」
タマくんはなにか言いたげだったけれど、私が突っ込まれたくないのを悟ってくれる。
「……それならいいんだけど。そうだ、お墓参りの話。今年も一緒にいくよ、俺にとってもばあちゃんは本当のばあちゃんみたいな存在だし」
話題をさりげなく変えてくれるタマくんの優しさが、胸に染みるようだった。
「じゃ、おばあちゃんが好きだった豆大福持ってかないと!」
「なら、俺作ろうかな」
「豆大福まで作れるの!?」
私たちがあれやこれや話していたときだった。
『──ここにいたか、愛しい妻よ』
頭の中で聞いたことがない男の声が響き、「うわっ」と耳を押さえながら立ち上がる。
『──このような小細工を……どうりでなかなか見つからなかいはずだ』
「誰なの!?」
辺りを見回すも、私たち以外に人影はない。猫耳が出ている状態の私は、遠くの音を拾うことができるし、動物の本能なのか気配にも敏感だ。
でも、なにも感じられないなんて……今日は調子が悪いとか? いや、それが人間としては普通なんだろうけど。
「美鈴、急にどうしたんだ」
タマくんは何事だとばかりに目を瞬かせて、私を見上げている。
「タマくんには聞こえてないの?」
私だけに聞こえる声なのだと理解したとき、パリッとなにかが割れるような音がした。家の周りの景色がぐわんっと歪み、私は草履を足に引っかけながら縁側に出る。
「なにあれ……」
上を見れば、家を透明なドームのようなものが覆っている。そのてっぺんにひびが入り、亀裂が広がっていくと──パリンッと砕け散って、ドームは完全に消えた。
「ねえ、タマくん! 今の見た!?」
縁側に座ったままのタマくんを見れば、鋭い眼差しを空に向けていた。
タマくん……?
こんなに険しい顔をするタマくんを初めて見た。そのせいか声をかけられずにいると、私の視線に気づいたタマくんがパッといつもの爽やかな笑みを浮かべる。
「ごめん、黙り込んで。最近、難しいクライアントが多くて、ときどき偏頭痛がするんだ」
「ああ、だから怖い顔してたんだ」
大袈裟なくらい眉を寄せ、指で目尻を引っ張り、つり目にして見せれば、タマくんが「そんなにひどくはないだろう?」と笑う。
タマくん、さっきの透明なドームみたいなの、見えてなかったっぽいな。私も仕事で疲れてたのかも。疲れ目に幻聴だと、そう思おう。
「ううん、結構いかつい顔だっ──」
『さあ、こっちへおいで』
まただ、と私は口を閉じた。なんでなのか、胸がざわざわと騒ぎだす。
得体の知れない声の誘いに乗るなんて、正気とは思えないけど……気になってしょうがない。行かなきゃいけないような、そんな感情に駆り立てられていた。
「……ごめん、タマくん。ご飯、帰ってきたら完食するから!」
それだけ言って、目的地もわからないままに駆け出した。後ろで「美鈴!?」とタマくんが驚いていたけれど、私は耳と尻尾をしまって家を飛び出す。
ここは東京の郊外。どこかに引き寄せられるように、畑や山に囲まれた田舎の道を走る。
すると後ろから、ニャーッ、ニャーッと猫の大合唱が。振り向けば、猫が行列になってあとをついてくる。私が猫憑きだからなのか、昔からよく猫を引き寄せてしまい、こうして目立ってしまうのも悩みのひとつだ。
「あれ、美鈴ちゃん、そんなに急いでどうしたんだい?」
近所のおばさんが手を振ってくれたので、「ちょっと野暮用です!」と手を振り返した。続けて畑仕事をしていたおじいさんが「これ持ってけー」と、にんじんをどっさり渡してくれる。
「おじさーん、いつもおいしい野菜をありがとう~っ」
足は止めずにお礼を言えば、おじいさんはそばにいた奥さんと顔を見合わせ、「なんや嵐みたいだのう」とびっくりしていた。
たぶん、こっちのほうから呼ばれてる気がする。
ほとんど勘だった。小山を見上げ、私は足をそちらに向ける。
さほど高くないので、みんなのお散歩コースでもある山の斜面を上りきると──。
町を一望できる頂上に着いた。その中央には、大きな桜の木がひとつ立っている。
「はあっ、はあっ……」
この桜の元に行け、と言われているような気がしていた。自然と立ち止まった私は、息を整える。
そこでふと、桜の木の下に今どき珍しい着物姿の男が蹲っているのに気づいた。
「大丈夫ですか!?」
慌てて駆け寄ると、紺の着物の衿から見えた男のうなじや手の甲に黒い染みのようなものが浮かんでいるのに気づいた。目を凝らすと、墨で書かれたような【呪】という文字が身体中に浮き出ていて、私は思わずひいっと悲鳴をあげる。
すると男はゆっくりとこちらを振り向いた。その頬や喉元も【呪】の文字でびっしりと埋め尽くされている。
「……っく、はあ……」
男は目を伏せながら、苦しげに荒い息をこぼした。
「具合が……悪いんですか?」
本当に聞きたいのは肌に浮き出ている染みのことだったが、もしまた私にしか見えていないものだったとしたら? さすがに突っ込む勇気はない。
「……っ、誰だ、お前……は……」
視線を上げた彼と、ようやく目が合う。その瞬間、心臓がドクンッと大きな音を立て、早足で鼓動を刻み始めた。
な、に……この感覚。懐かしくて、切なくて、悲しくて、悔しくて、そして──愛しくて……。
ぶわっと、両目から涙が溢れた。同時に彼の深い青の瞳からも涙がこぼれ、その頬を伝っていく。
時が止まったみたいに、私たちは見つめ合っていた。
彼の夜空色の髪に、勝手に手が伸びる。さらさらとした毛の一本一本を感じるように、指先で優しく梳いた。どうしてか、そうしたくてたまらなかったのだ。
いつまでも彼の瞳を眺めていたい。初めて会ったばかりなのに、こんな感情になるなんて、私はどうしちゃったんだろう。
ややあって、先に我に返った彼がパシッと私の手を払う。
「お前か」
イントネーションが関西っぽいな……なんて、呑気な感想を抱いてすぐ、彼の冷ややかな双眼から絶対零度の視線が放たれているのに気づき戦慄した。美形だからなおさら、その無表情が醸し出す威圧感が末恐ろしい。
「やっと見つけた。逃がさへんから覚悟しろよ」
「……え、なんの覚悟ですか?」
彼につられて、私まで訛ってしまった。
「私、大阪に知り合いなんていないはずなんだけどな……」
年齢はたぶん、私より年上。こんな高身長なイケメン、タマくん以外に存在したんだ……。
「大阪じゃあらへん、京都出身や。いや、そないなことどないやていい」
謎の京都弁の男は、私の腕をガシッと掴む。それも言葉通り逃がすまいと、強い力で。
「──悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)、喰迷門(くめいもん)、急急如律令(きゅうきゅうにょりつりょう)!」
二本の指で空を切り、男は呪文を唱える。
すると、地面に血色の悪い大きな唇が現れ、ぐわっと口を開けた。ギザギザとした細く尖った歯が顔を覗かせ、身の危険を感じた私は後ずさる。
「なんなの、これ……!」
「来い」
私の腕を掴み、男は少しのためらいもなく口の中に飛び込む。
「へ──ぎゃあああああああっ!?」
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