一章 契約夫婦は命懸け

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 底なしの穴へと吸い込まれていく。ジェットコースターでもこんなに長くは落ちないだろう。  胃が浮き、涙と鼻水を垂らしながら失神しかけたとき、徐々に落下速度が落ちていく。そして気づいたときには、バッシャンッと水の中に背中から落ちていた。  ──溺れ死ぬ!  ぶはっと慌てて起き上がると、地面にお尻がついている。 「池……?」  私の周りを泳ぐのは、赤や金のまだら模様が美しい錦鯉。ぽかんとしながら、鯉たちを眺めていたら……。 「帰ったぞ」  ひとりだけ安全地帯──池の外にいる誘拐犯……じゃなくて京都弁の男が立派な屋敷に向かって声をかける。 「「おかえりなさいませ」」  中から出てきたのは、十歳くらいの子供がふたり。私と同じで切り揃えられたぱっつん前髪におかっぱ頭、着物までお揃いで、髪色が違わなければ見分けがつかなかっただろう双子。  着物は……確か、狩衣衣装。前にあやかしから教えてもらったことがある。  この子たちも雰囲気が少し人とは違う気が……でも、あやかしとも違うような……。  首を捻りながら双子を観察していると、ガクンッと男が片膝をついた。 「「光明(こうめい)様!」」  駆け寄る双子を手で制し、胸を押さえながら男は私に目をやる。 「……っ、俺のことはええ。それよりも……あそこでダシみたいに池に浸かってる女を着替えさせろ」 「ダシで悪かったですね! というか、ここどこですか! あの変な口みたいなのも、あやかし!? もう、わけわからない~っ」  頭を両手でガシガシ掻いていると、男が地を這うような声で言う。 「静かにせえ、頭に響くやろうが」 「すっ……スミマセン」  ……極道の人? 目つきが完全にそっち系の人だった。  即座に唇を引き結べば、双子たちはちらりと私を見たあと、「あの方が例の……?」と男を見上げた。 寸分違わないその動きには、思わず『おお~っ』と心の中で感動してしまう。 「俺は中で休んでる。終わったら、居間に連れてこい」  怠そうに屋敷に入っていく京都弁男を、お辞儀をしながら見送った双子がこちらにやってくる。 「お嫁様……私は、水珠(すいじゅ)と……申します」  先に口を開いたのは、青い髪に瞳をした子のほうだった。声を聞くまでわからなかったが、女の子のようだ。  引っ込み思案っぽい彼女──水珠は自己紹介しながら徐々に後ずさっていき、赤い髪と瞳をした双子の片割れの背に隠れる。  そんな水珠にため息をつき、今度は赤い髪の子が私を見たのだが、その目がすっと鋭く細められた。 「俺は水珠の双子の兄貴、赤珠(せきじゅ)。どこの馬の骨ともわからねえ女が光明様の嫁だなんて、俺は認めねえからな!」  話が、いろいろ飛翔している。さて、どこから突っ込むべきかと悩んでいたら、ふとふたりの額にある蓮の花の文様が気になった。 「その額の……」  私がじっと蓮の花の文様を凝視していると、赤珠がふんっと鼻を鳴らしながら、得意げにふんぞり返る。 「これはなあ、あの伝説の陰陽師と謳われる安倍(あべの)晴明様の子孫、安倍(あべ)光明様の〝最高傑作〟にして、〝最強〟の式神である証なんだぞ!」 「安倍晴明…………嘘!?」  その名前を知らない人間は、この日本にはいないのでは?  映画やドラマ、アニメや小説でも、よく題材にされてるし……。 でも、子孫がいたなんて初耳だ。 「嘘じゃねえ。お前だって、光明様の力を見ただろ。ここまで最速で飛んでこれたのは、光明様が使役してる悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)の力なんだぞ」 「そういえば……なんかあの人、ここに来る前によくわからない呪文唱えてた気が……。そしたら、人間の口みたいなのが地面に出てきたんだよね……」  思い出すだけで落下の恐怖が蘇ってきて、身震いする。それにあの口、夢に出てきそうだ。 「それが悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)のひとり、喰迷門。どんなに遠い場所でも、その口を通ればどこへでも行ける。ただ、心に迷いがあると、喰迷門の中で彷徨って、いつかは消化液で溶かされちまうぞ」  そんな危険なあやかしの口の中に入ったんだ、私……。  サーッと、今さらながら血の気が引く。 「悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)は過去に悪行をおこなったあやかしを打ち負かして、自分の使役神とした式神のことだからな。そういうやつらは力が強い。陰陽師の能力と心根しだいでは飲み込まれる可能性もある」  自分のことのように自慢する赤珠の後ろから、水珠がひょこっと顔を出した。 「でも……安倍晴明様同様、光明様も類い稀なる才能の持ち主。多くの悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)を使役している……すごいお方なんです」  遠慮気味に話す水珠に対して、赤珠はややガキ大将のよう。双子の式神だけど、こんなに違うものなんだ。 「じゃあ、あなたたちも悪さをしたあやかし……その、悪行なんちゃらって式神なの?」 「一緒にするなよ! 俺たちは思業(しぎょう)式神。悪業罰示式神(あくぎょうばっししきがみ)と同じで上位式神だけどな、光明様の『思念』から作り出されてるから、式神は本来は人間には見えないけど、姿を現せるくらい力が強いんだぞ」  赤珠は、ムッとした顔でそう訂正した。 「私たちは、光明様の身の回りのお世話をしたり……情報収集、術の手伝いもします」  兄をひやひやした様子で見つつ、捕捉する水珠。なんでそんなことになったかはわからないが、私が主の嫁だと思っているらしい彼女は、ズケズケものを言う兄の態度が気が気でないようだ。 「あの、教えてほしいんだけど、私が嫁っていうのは……くしゅんっ」  大事な質問の途中で、くしゃみをしてしまった。  今の今まで忘れてたけど、私……池でダシ取られてるんだった。いくら春だからって、水浴びにはまだ早すぎる。 「……兄さん、話はあとにして、お嫁様を中に」 「そうだな。おら、さっさと立て!」  その前にこの状況を説明してほしいところだれど、このままでは風邪をひきそう。明日は仕事だし、身体は資本だ。ひとまず、お言葉に甘えて着替えさせてもらおう。 *** 「やっと来たか……」  浴衣を借りて、水珠と赤珠に案内されるまま居間にやってくると、横になっていた男──安倍光明さんが上半身を起こす。 身体の【呪】という文字と関係があるのか、顔色も悪いし、呼吸も苦しそうで、まだ体調はよくないみたいだ。 「あの……横になっていたほうがいいのでは?」  見ていられず、私は彼に近づいて、その肩を押す。すると、安倍さんは力なく畳の上に倒れ、恨めしそうに私を見上げた。 「……これ見てわかる思うが、俺は呪われとる」 「そう……でしょうね」  【呪】って、身体中に書いてあるし。逆に呪いじゃなくて、なんなの?と問いたい。 「俺を呪ったんは、先祖の安倍晴明や」 「……子孫を? それまた、どうして……」 「安倍晴明は相当な変わりもんやったらしゅうてな、猫又……あやかしの女と結婚したんや」  猫又……? 偶然か必然か、私も猫憑きなので心臓がトクンッと音を立てる。 「そやさかい、生まれ変わってもまた結ばれたい思たんやろうが、三十までにその妻の生まれ変わりと結婚せな、死ぬちゅう呪いをかけてきたんや。まったくもって、はた迷惑な話や」  さっきから、胸騒ぎが止まらない。信じられないが、ここに連れてこられたワケを掴みかけている自分がいた。 「なぜ、そんな話を私に……?」 「察しの悪いやっちゃな。俺の前世が安倍晴明で、お前がその妻の生まれ変わりやからに決まっとるやろう」  私が……安倍晴明さんの妻の……生まれ変わり?  さらっと、とんでもない単語が耳に入ってきて、私は慌てて安倍さんを制止する。 「ちょ、ちょっと待ってください! ということは、ということはっ」  私が騒ぐと、頭に響いたのか、安倍さんは青い顔で眉間を押さえた。 「やかましいやっちゃな……俺たちは前世で夫婦やったんや」  【夫】【婦】の二文字が、脳天にガンッガンッと落ちてきたような衝撃だった。 「信じられない……私が猫憑きなのも、それが関係してるとか……?」 「そうやろうな。お前からはあやかし特有の気配──妖気を感じる。ほんまなら、呪いがこないに身体に回る前に、そん気配を辿ってお前を見つけられたはずやったんやけど……くっ」  話すのもつらいのか、小さくうめいて顔をしかめる安倍さん。こんな呪いをかけるなんて、安倍晴明さん、変わり者どころかひどすぎる。 「光明様の術をもってすれば……お嫁様を見つけるのは容易いはずなのですが……」  主を気遣って代わりに説明する水珠の言葉を、今度は赤珠が引き継いだ。 「お前が東京にいるってことはわかってたんだ。でも、いざ東京に来てみると、妖気が散漫して、どこにいるのかまではわからなかったんだよ」 「陰陽師は、あやかしを退治してきた側の人間やさかい。どっからか俺の呪いのこと聞きつけたあやかしが、お前と合わせへんように術を使い、俺が呪いに蝕まれて死ぬのを待っとったのか、それとも別の理由があるんか……。わからへんけど、あてもなくお前を探しとったら、今日急に気配がはっきりしたんや」  なんで、急に? 思い当たるとしたら、家を覆っていたあの謎の透明なドームが消えたことと、私にしか聞こえない男の人の声のことだ。 私と安倍さんを引き合わせたあの声は、誰のものだったのだろう。 「そやさかい、こうしてお前をここに連れてきたんや。俺の呪いを解くため、【呪約書(じゅやくしょ)】に指印をしろ」 「なんですか、その【呪約書】って……。変な宗教の案内とか、詐欺とか、そういうんじゃないですよね?」 「呪いを解くため、言うたやろ。赤珠、実物を持ってこい」  赤珠は頼まれ事をされたのがうれしかったのか、「はい!」と声を張り、走りだす。 少しして、お札の貼られた木箱を手に戻ってきたのだが、箱の外からでもわかる。禍々しい紫の炎のようなものが、赤珠の持っているものから出ていた。  安倍さんは右手の人差し指と中指を立て、横と縦に切っていく。 「臨(りん)・兵(ぴょう)・闘(とう)・者(しゃ)・皆(かい)・陣(ちん)・列(れつ)・在(ざい)・前(ぜん)。解封(かいふう)、急急如律令」  呪文を唱え終わると、箱の札がすっと消えた。ゆっくりと宙に浮きながら蓋が開き、中から黒い巻物が出てくる。それは勝手にしゅるしゅると開いていく。 「これは自分たちの生まれ変わりが結ばれるために、安倍晴明が作った呪いの契約書だ。中にはこう書いてある」  そう言って、安倍さんは達筆すぎて私には読めない 【呪約書】の内容を読み上げていく。   【呪約書】  一、俺、安倍晴明の生まれ変わりは猫又である妻の生まれ変わりを守らねばならない  二、俺の生まれ変わりは、三十歳までに妻の生まれ変わりと夫婦にならなければならない  三、破れば死ぬから覚えとけよ。  四、あ、毎日一緒の布団で眠ること。 「……三項目目からの内容おかしくないですか? 『覚えとけよ』とか、『あ、』って……もう項目じゃなくて、セリフみたいになってますし。さすがは変わり者、キャラがなかなか強烈ですね」 「頭が沸いてるんがわかるやろ。前世なんて過ぎ去った過去や。俺には関係あらへん。そやさかい、お前を守ったる義理もあらへんし、他人と……しかも猫憑きの女とおんなじ布団で寝るなんて不愉快極まりあらへんが、こっちは命がかかっとる」  安倍さんは三十歳までに私と夫婦にならなければ、死んでしまう。迷うまでもない、でも……。 「いきなり夫婦になれとか……無茶苦茶すぎるよ、清明さん」 「安心しろ」  安倍さんは手を前に出す。すると、宙に浮いていた【呪約書】が下りてきて、その手のひらに載った。 「ずっと夫婦でいる気はあらへん。こっちも願い下げやからな。必ず解呪法(かいじゅほう)を見つけて、夫婦契約を解消する。そやけど、この身体ではまともに動けへん。そやさかい、それまでお前には俺の妻でいてもらう」  随分な言い方だけど、私もよく知らない人と添い遂げなきゃいけないのはちょっと……いや、かなり困る。だからといって、死にかけてる人を放置できるほど、神経図太くもない。 「わかりました。契約しましょう」 「えらい物分かりがええな」 「だって、人の命がかかってますし。悩むことでもないかなと」  肩をすくめて笑って見せれば、安倍さんは目を見張っていたが、すぐに咳ばらいをして【呪約書】を畳の上に広げる。 「朱肉をここに」  すでに用意していたのか、水珠がすっと私と安倍さんの間に朱肉を置いた。私は安倍さんを真似て親指を朱肉スポンジに押しつけると、【呪約書】の最後列の項目の下に指印する。  すると【呪約書】がパアアアッと光り、あの禍々しい炎が消えていく。それと同時に、安倍さんの身体から【呪】の文字がなくなった。 「安倍さん! 呪いの文字が消えてます! 少しは身体、楽になりましたか?」 「少しどころちゃう、元通りや。これで動きやすなった」  安倍さんの表情が少しだけ緩み、威圧感が柔らいだ、そのときだった。  ドカーンッと隕石でも落下したかのような大きな音がして、屋敷がグラグラと揺れる。 「きゃあああっ」  とっさに頭を抱えれば、安倍さんが覆い被さるように私を引き寄せた。それに場違いにも、ドキッとしてしまう。 「どうやら、命知らずの来客みたいやな」  来客って?と問おうとしたら、ニャオオーンッと鳴き声がした。 居間の縁側の向こうにある庭に目を向けると、そこには焦げ茶色の猫がいる。それもオオカミかと見間違えるほど大きく、目尻には朱い刺青のようなものが入っている。二股に分かれた尻尾は、あやかしの猫又である証。 毛を逆立てて、鋭い牙を見せているのに、少しも怖いと感じないのは、私もまた猫又に憑かれているからだろうか。 『……その子をどうするつもりだ、陰陽師』  喋った猫。私にはその声に聞き覚えがあった。
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