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「おい、なんだよお前。俺が何したっていうんだよ。やめてくれ! 殺さないでくれ!」
薄暗い路地裏を、血を滴らせた足を引きずりながら男は何かから逃げるように痛みを堪えて走っている。
だが土砂降りでぬかるんだ地面に足を取られ、顔から地面に転んで
「私はあんたに興味はない。けど、あんたを恨む奴のせいで迷惑してんだよ」
氷のように冷たい瞳に射抜かれ、ひいっと情けない悲鳴をあげで男は身を竦める。
「もしかして優香のことか?! だったら済まない。ほんの出来心だったんだ。それに主犯は俺じゃない。俺は誘われて仕方なっぎゃああああ」
男の話を最後まで聞かず、傷のないもう片方の足を包丁で突き刺す。
痛みで立てなくなった男に馬乗りになり、身体を何度も突き刺す。
小柄な少女のはずなのに、男が全力で突飛ばしてもビクともしない。
ああ、ウザイ。
あんたなんかどうでもいい。
相手している時間すらもったいない。
「クズは黙って死ね」
何度も突き刺している内に男は抵抗しなくなり、そして動かなくなった。
「やっと2人目……」
今しがた殺したばかりの男に興味を失い、黒のセーラー服に身を包んだ少女は男の血と肉片が付いた包丁を放り投げ、その場を後にした。
氷室刹那が人殺しを始めたのは7年前のことだ。
初めて殺したのは同じ学年の同級生。
一度も同じクラスになったことがない少女だったので、会話すらしたことない。
気の強そうな少女だったが、死を目前にして絶望で顔を涙でぐしょぐしょにしていたのを今でも覚えている。
だからと言って刹那が情けをかけて見逃すことはなかった。
小学生とはいえ、別の少女を精神的に追いつめて自殺に追い込んだのだ。
人を殺したという点では同じ穴の貉なのだから、同情する余地はない。
刹那は怯える少女を感情の籠らない眼差しで見下ろし、包丁で何度もめった刺しにした。
初めての殺しは要領よくできなくて時間がかかった。
身体中から血を溢れさせ、気づくと口から泡を吹いて絶命していた。
それから定期的に人殺しを続けた。
だいたい数日おきにターゲットを見つけ出し、人目のつかない場所で包丁で刺して殺す。
もうすぐ16歳になる誕生日を迎えるが、今まで数えきれないほどの人間を殺し続けた。
なのに一向に人間が少なくなったように思えないのは、刹那が今まで殺した人間の数が全人口に比べたら限りなく0に等しい数字だからだろう。
いっそ人間なんて全て滅んでしまえば楽でいいのにと、たまに辟易とした思いにかられてしまう。
昨夜人を殺したばかりの刹那だが、今日もいつもと変わらず学校に登校した。
一見どこにでもいるような女子高生で、誰も彼女が巷をにぎわせている連続殺人犯とは夢にも思わないだろう。
刹那はテレビを見ないので知らないが、今頃昨夜殺した男は殺人鬼に殺されたとニュースで報道されているはずだ。
うっすらとくまの浮いた目元を眠たそうに細め、あくびを噛みしめながら朝礼ぎりぎりに教室に入って席に着く。
今日も1日眠気を堪えながらつまらない学校生活を送るために、眠気で机に突っ伏していると、何やら女子の声が五月蠅くなってきた。
「やっと君を見つけることができたよ。探したんだからね。氷室刹那さん」
上から名前を呼ばれて見上げると、にこっと人懐っこそうな笑顔を浮かべている長身の少年がいた。
「誰?」
見ない顔なので多分同じクラスではない筈だ。
と言っても刹那は人の顔を覚えるのが苦手で、入学して3ヶ月経つのにクラスメイトの名前をほとんど覚えていない。
彼女のいう見覚えがないはただ興味がないから認識すらしていないということも多々あるので、記憶力は全く当てにできない。
「僕は七星聖司。僕を知らない人がいるなんてびっくりだけど、君みたいな人なら学校の有名人もその他大勢の内の1人ってことなのかな。まあ、僕はそんなこと気にしないよ。だってこれから僕のことをたくさん知ってもらえればいいからね」
「はあ」
聖司の話に全く興味がない刹那は適当に相槌を打ち、早くどっかに行ってくれないかなと視線を窓の外に向ける。
彼女の素っ気ない態度に怯む様子なく聖司は話を続けようとしたが、朝礼の始まる鐘がなったので会話は打ち切られることになった。
「もっと話がしたかったけどもう時間みたいだ。お昼は一緒に食べよう。教室まで迎えに行くから、待っててね」
返事も聞かずに聖司が教室を出て行くと、2人の話を見守っていたクラスの女子が怨念の籠った眼差しで刹那を睨み付けていた。
だが当の刹那はその視線に全く気づかず、我慢していたあくびがとうとう零れてしまった。
屋上に通じる扉の前の階段。
お昼休みになると刹那はここで昼食を取ることにしている。
天候が穏やかな日であれば昼食を取ろうと人が集まるが、梅雨に入って大雨が続く今の時期は誰も屋上に近づかない。
床が湿度でじめついているが、人が誰もいなくて静かに食事ができるので刹那はこの場所が気に入っていた。
階段の最上段に腰を下ろし、登校前にコンビニで買ったチョコクロワッサンを袋から取り出す。
大好きなチョコレートを前に少し目が覚め、口の中にミルクチョコの甘味が広がる期待に思いを馳せて袋を開けた。
「氷室さん、ちょっといいかしら」
声をかけられたが甘い香りに我慢できなくて一口クロワッサンをかじる。
見上げると、長い髪を縦に巻いて2つ結びにしている少女がいた。
唇にはピンクのグロスが塗られている。
いかにも気の強そうな目元に、初めて殺した少女の面影が重なった。
背後には友達なのだろうか。
似たような雰囲気の少女が2人傍で控えている。
「誰?」
全く見覚えがなくて首を傾げると、少女はピクリとこめかみを引くつかせた。
「私は武本花音よ。同じクラスなのにまだ名前を憶えていないのね。その記憶力のなさ、ほんと呆れるわ」
刹那にとって学校とは親を心配させないためにとりあえず行く場所だ。
同級生何ていうのは電車でたまたま乗り合わせた赤の他人と同じようなもの。
その程度の認識しかない刹那が同じクラスの同級生というだけで、何の関わり合いもないのに名前を覚えることはありえなかった。
「まあそんなことはどうでもいいわ。氷室さん、王子につきまとうのはやめなさい」
王子というのは王様の子供の王子のことだろうか。
身近にどこかの国の王子がいたとは初耳だし、まして自分が誰かに執着することはありえない。
殺しの標的はいるけれど、彼らがいるのはここからずっと遠い場所だ。
見た感じ美人ではあるが、どこにでもいそうな普通の高校生である少女が彼らと知り合いだというのも考えにくい。
「王子は優しいから、ストーカーに対しても話し合いで解決しようとお昼ご飯を誘ったのよ。それなのにあろうことかあなたは王子の親切を逆手に取って気を引くために無視をした。王子はみんなのもの。身勝手に1人だけ抜け駆けする権利はあなたにはないのよ!」
それならばただの勘違いなのだろう。
誤解を解けばこの場を立ち去ってくれるだろうが、彼女の怒りに満ちた形相を見れば敵と認識している人間の話など聞く耳を持たないのはいくら鈍感な刹那にもわかった。
彼女が目の前から立ち去らないのなら、昼休憩の間にクロワッサンを完食できないかもしれない。
空腹なのに目の前の好物を我慢するのはとても辛い。
目の前の少女は特別大切な話をしているわけではないのでクロワッサンを食べながらでもいいだろう。
我慢できずにクロワッサンをもう一口咀嚼する。
口の中にミルクチョコの甘味が広がり、至福の瞬間が訪れる。
「私が大事な話をしているのに、何で食べているのよ?! 自分がどれだけ人として悪いことをしているのか自覚がないのね。恥を知りなさい!」
パシンとクロワッサンをを叩かれ、刹那の手からポトンと床に落ちてしまう。
拾おうとしたが、少女がくちゅっと袋の上から踏み潰してしまった。
「これで少しは反省する気になったかしら」
勝ち誇った笑みに、後ろの2人は嘲笑で答える。
落ちても3秒ルールを適用すれば食べられるけど、ここまで無残に踏み潰されれば食べる気もなくなるというもの。
学校での唯一の楽しみであるチョコクロワッサンを失い、喪失感にしゅんと落ち込んでしまう。
お腹が減ってはいるが放課後まで耐えられないというわけではない。
帰りにコンビニで同じものを購入すればいいし、今からでも購買に行けばチョコパンが残っているかもしれない。
そう考えると胸に浮かんだもやもやも多少は晴れ、空腹よりも眠気が先行してあくびが零れてしまい手を当てる。
罵倒しても嘲笑しても表情1つ変えず、挙句の果てにあくびまでされた花音は怒りで顔を赤くする。
美人な上に気の強い少女はこんな風に馬鹿にされたのははじめての経験だ。
プライドが高い花音は侮られることが許せず、手をあげる。
「馬鹿にするのもいい加減にしなさい!」
振り下ろした手は力強い手に捕まれ止められる。
「何してんの?」
その声は花音にとって憧れの存在である少年のものだった。
普段温厚な彼からは想像もできないほど冷たい目で睨まれ、花音含め少女3人は体を強張らせる。
「王子、何でここに……」
「そんなことはどうでもいい。それより、不快だから早く消えてくれない?」
「お、王子、これには訳があって……」
「2度も言わせないでよ。僕の視界からその醜い姿を消さないと、2度と学校に通えないようにするよ?」
絶対零度の瞳に身を竦ませ、3人は逃げるようにその場を後にした。
「もう、酷いじゃないか。教室で待っててって言ったのに」
先程のすごみのある表情から一転して、人懐っこい笑みで刹那の隣に座る。
「誰?」
首を傾げる刹那を笑みの形を保ったまま、聖司は一瞬固まった。
だがすぐに気を取り直して、彼女の記憶を取り戻すところから始める。
「やだなあ、朝礼前に会いに来たじゃないか。七星聖司ってちゃんと自己紹介もしたよ」
しばらく考えるように宙を見つめ、あっと小さく呟いて刹那は拳を叩く。
「そう言えば会ったかも」
「あはは、刹那はマイペースなんだね。寂しいからもう僕のこと忘れないでよ」
数時間前に会ったばかりで忘れるという失礼なことをしたのに、聖司は気した様子を見せずにおおらかに笑ってみせた。
刹那は踏み潰されたパンを名残惜しそうに拾い上げ、買い物袋にしまう。
「なんか僕のせいでごめんね。みんな普段は大人しいんだけど、たまに勘違いしてる子が暴走しちゃうんだ。お詫びというにはあれだけど、僕の弁当よかったら食べてよ」
手に持っていた袋から大き目の2段弁当を取り出す。
1段目は鳥そぼろと卵が乗ったご飯、2段目は卵焼きにから揚げ、パプリカの炒め物にミニトマトと色鮮やかだ。
から揚げの量が多めなのは男子高生だからだろう。
「これね、僕が作ったんだよ。刹那にも食べて欲しくて今日は大目につくったんだ。全部美味しいよ。ねね、どれから食べる?」
ぐいぐい来る押しの強さに若干引いていると、聖司はから揚げを箸でつまみ刹那の口元に持って行く。
「から揚げ、美味しいよ」
にこっと邪気の感じられない笑顔を向けられ、刹那はどうしたらいいのか戸惑う。
彼の手から直接食べていいのかと逡巡したが、揚げ物特有の食欲を誘う香りに釣られてきゅるりとお腹が小さくなる。
自身が空腹であることを思い出して我慢できずにパクリとから揚げを食べた。
「美味しい……」
そう呟くと、「でしょでしょ」と聖司は満足そうに笑った。
結局彼の箸から、親鳥から餌もらうように次々とおかずを与えられるがままに食べた。
小食で普段昼食はチョコクロワッサン1つだけの刹那は、お弁当の4分の1ほど食べて満足してしまった。
これ以上食べられないというと聖司は少し不満そうにしたが、無理強いせずに残りを自分で完食した。
「刹那は細すぎると思ったけど、成長期なんだからもっと食べなきゃダメだよ。これから毎日僕が愛を込めてお弁当を作ってくるから、たくさん食べて大きくなってね」
口の端についたご飯粒を指で掬って舐め、彼は片目を瞑ってウインクしてみせる。
「別に、いらない」
「ダーメ。成長期なんだからパン1つじゃ体に悪いよ。顔色悪いけど、やっぱりちゃんとご飯食べてないからじゃないの?」
「大きなお世話」
心配して言っているのかもしれないが、パーソナルスペースを無視してずかずかと踏み込んでくる聖司が鬱陶しい。
確かに食事に気を使っていないが、顔色が悪いのは悪夢で満足に眠ることができないせいだ。
これ以上弱みを見せると更に踏み込まれそうで、刹那は話題を変えることにした。
「それより、お昼誘ったのって何か話があるからじゃないの?」
「そうだった。ご飯を食べる刹那が可愛くてつい忘れちゃってたよ。実はお願いがあるんだ」
どんなことを頼まれるのだろうか。
簡単に解決できることなら、さっさと終わらせて2度と自分の目の前に現れないで欲しい。
だが彼はニコニコと、まるで子供のような純粋な笑顔で突拍子もないことを口にした。
「刹那、僕を君の犬にして欲しいんだ」
「は?」
彼が何を言っているのか理解できなかった。
今確かに犬って言ったよね。
いぬ、居ぬ?
なぜア行上一段活用で言ったのか。
もしかして自分の存在を消せということだろうか。
それなら得意だが、頼まれても刹那は標的以外は殺すつもりはない。
いやいや、少し現実逃避してしまって思考が明後日の方向に向いてしまった。
「犬にして欲しいんだ。わんわん」
頭の上で両手を丸めて、犬の真似をする。
わざわざ物真似をしてわかりやすく伝えてくれた。
これはもう間違いなく動物の犬のことだ。
彼の考えていることがさっぱりわからなくて困惑する。
「犬の方がマイルドになって可愛いかなと思ったんけど、わかりづらかったかな。言い方を変えれば、僕は刹那の奴隷になりたいんだ。優しくて料理もできるイケメンが何でもいうことを聞いてくれるシチュエーション、女の子なら誰でも憧れると思うんだけどな。刹那、自分で言うのもなんだけど、僕って綺麗な顔をしているよね」
手を握られ、ぐっと顔を近づけられる。
いきなりのことで驚き、思わず身を引いた。
そのまま立ち上がろうとしたけど、彼は刹那の頭の両側から壁に手をつき、逃げられないようにする。
息がかかりそうなほど間近に聖司の顔が接近する。
ここまで近づくと、彼の瞳の色は純粋な黒ではなく、黄味がかった暗いブラウンだということがわかった。
東洋人にしては高い鼻梁とキメの細かい滑らかな肌。
アーモンド形の瞳を細め、薄い唇が弧を描く。
まあ、確かに普通よりも綺麗な顔立ちをしているのだろう。
ハーフなのか、日本人にしては堀が深いし。
「僕に興味湧いた?」
「別に」
そっけなく呟くと、彼はくっくっと手で口を押えて笑った。
刹那の失礼な態度に怒りこそすれ、笑う要素は1つもないはず。
首を傾げていると、聖司は目に浮かんだ涙を指で拭う。
「あはは、刹那といると自信なくなっちゃうよ。女の子は僕を一目見たらすぐに好きになってくれるのに。でも、普通じゃないところが君の魅力なんだろうね」
自覚はあるが、普通ではないのは聖司も同じなのではないだろうか。
常識のある人間は同級生の少女に向かって奴隷にしてくださいなんて言わない。
そんな言葉は己の趣味を受け入れてくれる友達か夜の店で吐くべきだ。
「それで、どうなの? 僕を奴隷にしてくれるのかな?」
期待の籠った眼差しで見つめられるが、答えは決まっている。
態度で察してほしいところだが、ハッキリと言葉にしないと理解できないタイプなのかもしれない。
「無理。全力で却下」
「あー、とても残念だよ。僕の魅力で落とす自身、あったんだけどな!」
手を広げて大袈裟にがっかりする。
嘘臭い動きに彼は何か企んでいるのだろうか疑ってしまうが、もしかしたらただ単に頭の可笑しな人かもしれない。
「ねえ、刹那」
グイっと身体を強引に抱き寄せられる。
彼はズボンのポケットからスマホを取り出した。
確か学校の校則にスマホの持ち込み禁止という項目があったけれど、彼はそんな決まりは気にしていないようだ。
「君が美男子の魅力に落ちない稀有な人種ということを考慮して、切り札を用意していたんだ。本当はこんなことしたくなかったんだけど、僕はどうしても刹那の犬になりたいんだよね。あったあった、これだよこれ」
スマホを片手で操作し、画像アプリから『刹那の秘密』という名前のフォルダーを開く。
開かれた画像の一覧に思わず息を呑む。
「初めて会った日からずっと君のことを探していたんだよ。君は隠れるのが上手いから見つけ出すのに苦労したんだ」
スマホの画像を聖司は親指で1枚1枚見せつけるようにめくっていく。
それは刹那が人を殺している姿をハッキリと映し出していた。
今まで写真を撮られていることに全く気づいていなかった。
自分と対象が人に認識されない能力を刹那は有しているので、第三者に気づかれることを気にする必要すらない。
それでも画像を撮られていたということは、彼自身のものなのか、それとも知り合いか、どちらにしろ特別な能力を持つ者が刹那の能力を打ち破って画像を撮影したようだ。
「そっか」
はあ、と刹那は小さくため息を吐いた。
「あれ? あんまり動揺しないんだね。僕の予想では激情してスマホを奪い取るか、最悪殺されると思っていたのに」
そういう割に、無防備に殺人鬼に近寄る聖司は図太い神経をしている。
「こんなこと続けていたら誰かに見つかるのは当然。予想よりも大分遅かったから、少し油断していたけれど」
「ふーん、じゃあ捕まって死刑になることも覚悟できているの?」
死刑、か。
当然証拠が見つかって捕まれば死刑は免れないだろう。
人を何人も殺しておきながら身勝手な話だが、正直刑務所には入りたくない。
けど、必死になって逃げるのは疲れるから、とりあえず楽な方に流されればいいと思っている。
その先が死刑でも、刹那にとってはどうでもよかった。
「覚悟、っていうよりも諦めに近い、かな。どうしようもなくなったら大人しく捕まるよ」
「けど、できれば捕まりたくないということだよね」
「まあ」
彼が言いたいことは何となく理解できた。
この画像で揺すって自分の目的を果たそうとしているのだろう。
「じゃあ、この画像を消す代わりに、僕を君の犬にしてね」
予想通りの言葉だったが、一見善良そうな笑顔の裏で彼が何を企んでいるのか全く想像がつかない。
「で、君の回答は?」
「その前に何が目的か教えて」
「僕の目的はもう言ったじゃないか。刹那の犬になることだよ」
「嘘」
「もう、信用ないなぁ」
不満そうに聖司は唇を尖らせる。
だがすぐに唇を笑みの形に戻した。
聖司が何か言おうと口を開いた時、昼休憩が終わるチャイムが鳴り遮られる。
スマホをポケットに戻し、彼は立ち上がる。
「ふふ、続きは放課後だね。美味しいチョコクロワッサンの店を知っているから、一緒に行こう。じゃあ、またね」
彼は階段を途中まで降り、何か思い出したように振り返る。
「あ、勝手に帰ったらダメだからね! そのときはこの画像ネットに流すから、ちゃんと教室で待っているんだよ!」
そう言い残して、先に自分の教室に帰っていった。
いつもは1人で静かに過ごしていたのに、今日の昼休憩は騒がしくてどっと疲れた。
寝不足で身体が怠い刹那は億劫そうに立ち上がり、もうサボって帰りたいと溜息を吐く。
「よかったー! ちゃんと待っててくれたんだね。えらいえらい」
「はあ」
「相変わらず反応薄いね。それじゃあ行こうか!」
約束通り(というよりは一方的なものだが)放課後、チャイムが鳴ってすぐに彼は教室にやってきた。
教室中にいる生徒の視線を集める中、刹那の手を引いて聖司は何食わぬ顔で刹那を連れ去る。
教室にいる数人の女子がその様子に悲鳴をあげたが、刹那は全く気づかなかった。
「眠そうだね。どっかで休憩する?」
「いい」
道中けだるげに何度もあくびをするので聖司は気を使うが、刹那は素っ気なく返事をする。
「目の下にくまができてるし、もしかしてちゃんと寝てないの?」
「別に」
「不眠症なの? 寝れないのは辛いよね。何か悩みでもあるの?」
「さあ」
「ふふ、僕が添い寝してあげようか。人の温もりを感じると安心して気持ちよく眠れるんだよ」
「いらない」
何度話しかけても変わらない態度に聖司は諦めて肩を竦める。
商店街の一角、小さいがクロワッサンの専門店があった。
ショーケースには色々な種類の味のクロワッサンが並んでいる。
どれも美味しそうだが、真っ先に好物のチョコクロワッサンに目がいく。
普段寄り道をせずにまっすぐ帰宅する刹那は、学校の近くにこんなお店があるとは知らなかった。
同じ学校の制服の少女が何人かこの店に立ち寄るところを見ると、小さい割に学生達の間では流行っているのかもしれない。
「すいません。全種類2つずつと、チョコクロワッサンだけ5個ください」
店員が先に会計をしていた少女の対応が終わると、聖司は何のためらいもなく言った。
「チョコクロワッサンも食べてみたいから、1つはもらうよ」
どうやら刹那の分も購入するつもりのようだ。
「いらない」
「遠慮しなくていいよ。いくら育ち盛りの僕でもこんなにたくさん食べられないから、刹那が一緒に食べてくれないと捨てちゃうよ」
どうやら拒否権はないようだ。
犬になりたいといいながらも全く言うことを聞ず、自分の思い通りにことを運ぼうとしている。
いつもの癖で流れに身を任せていいのか、それとも彼を拒絶した方がいいのか、知り合って間もないため刹那には判断がつかない。
「ねえ、刹那の家ってここから近くだよね」
「何で知ってるの?」
「刹那のことは一通り調べさせてもらったよ。やっぱり好きな子のことは何でも知りたいって思うからね」
悪びれもせず、彼はそう言ってのける。
犬の前にストーカーになるつもりなのかもしれない。
「これから雨が酷くなりそうだから、刹那の家によりたいな」
一時的に止んでいても、どんより重たい雲はいつ大粒の雨を落とすかわからない。
近くに持ち込んだ食べ物を食べることのできる施設はない。
今更学校に戻るのも億劫だが、知らない男を家に上げるのも気が引ける。
「いやだ」
「写真の件、忘れてないよね」
にっこりと純粋そうな笑顔で拒否権はないよと暗に脅迫した。
「わかったよ」
面倒だなと1つあくびをし、断るのも面倒になって刹那はけだるげに自宅への道を歩いて行った。
刹那の自宅は駅から歩いて10分程度の10階建てマンションだ。
築10年は経つが管理が行き届いているので、新築には劣るが一見綺麗だ。
オートロックを鍵で開け、エレベーターで7階まで登る。
エレベーターを降りて右に進み、3つ目の部屋の表札には氷室と記載されている。
ここが母親1人娘1人の氷室家住む自宅だ。
「小さいマンションだと思ったけど、部屋の中は意外と広いんだね」
開口一番失礼なことを言った聖司は、断りもなく部屋の中に入っていく。
真っ直ぐにリビングに進み、ダイニングテーブルにクロワッサンが入っている箱を置くと、まるで台所を熟知しているかのように勝手に紅茶を入れ出した。
ストーカーの行動に今更驚くつもりのない刹那は彼を放っておき、自室で部屋着に着替えた。
リビングに戻ると紅茶を用意して聖司はダイニングテーブルの席についている。
わざわざ箱から取り出されているクロワッサンは綺麗に大皿に並べられていた。
無言で席につき、チョコクロワッサンを口に運ぶとコンビニのよりも濃厚なチョコの甘味が口の中に広がる。
鼻を抜ける香りが心地よく、小さいお店だったが繁盛している理由がわかった。
「あれ、もう食べないの? まだこんなにあるのに」
「いらない」
元々小食の刹那はチョコクロワッサンを2つ食べるとお腹がいっぱいになった。
甘党なのか、聖司は3つめのイチゴのクロワッサンをぺろりと平らげ、続いて抹茶味のクロワッサンを手に取る。
「じゃあ僕がもらうよ。ここのクロワッサン、生地がサクサクですごく美味しいんだよね」
ほっぺたに手を当て、幸せそうにクロワッサンを頬張る。
殺人鬼の前でなんでこんなに無防備でいられるのか理解できない。
「僕がこうしてクロワッサンを食べられるのは、刹那のお陰なんだ。君はね、僕を悪魔から2度も救ってくれたんだよ」
唐突に語り出した彼の瞳には、今まで感じられなかった仄暗い何かが姿を現したように思えた。
「何?」
聖司は唇の端についたクロワッサンのカスを指で掬い、ペロリと舐める。
遠い過去を思い出すかのように、彼の視線は机へと向かった。
だがすぐににこっと明るい笑みを刹那に向ける。
「僕の父親はクズのアル中だったんだ。酔うたびに母と僕に暴行を加えてたんだけど、そんなことを続けてたから誤って母を殺しちゃった。そして隠すのが上手な友人に手伝ってもらって、殺人をなかったことにしたんだ。それからは母が受けていた分も暴行を加えられた。満足にご飯も食べさせて貰えなかったから毎日死ぬんじゃないかって怯えてたよ。だけど雪が降ったあの日、奇跡が起こったんだ。僕と同じくらいの少女が、泥酔して寝ている父親を包丁で滅多刺しにして殺してくれたんだ。ああ、あのときの君は本当にかっこよくて、悪鬼を退治してくれるヒーローのようだった。そして2回目。美しい容姿で人目を引く僕は、悪い大人に誘拐されちゃったんだ。毎日辛くて苦しくて、死んだ方がマシだと思ったんだけど、またしても僕の前に奇跡の女神が舞い降りた。僕を襲おうとした悪い大人を背中から包丁で刺して殺してくれた。君は1度も僕を見てくれなかったから覚えていないんだろうけれど、だからこそ運命を感じたんだ。それからは毎日君のことが忘れられなくて、また会うにはどうしたらいいか考え続け行動した。そのお陰で今こうして向かい合って刹那と一緒にクロワッサンを食べられるんだ。いやー、必死に頑張ったかいがあったよ」
一気に話し終え、彼は興奮したように頬を赤らめた。
刹那は全く聖司の顔に見覚えはなかった。
いや、今まで殺してきた人間の顔すら覚えていないのだから、対象以外の人間を記憶していないのは当たり前のことだ。
「犬になりたいって、恩返しのつもりなの?」
「違うよ。僕は刹那の役に立って、ペットとしてずっと側にいたいだけなんだ。従順で何でも肯定してくれる犬は可愛くて手放したくないだろ? そんな存在に僕はなりたいんだ」
どうやら彼の元に訪れた不幸のせいで、人格が歪んでしまったらしい。
「いらない」
今までペットを飼いたいなんて思ったことない。
世話をするのは大変だし、特に犬は散歩をする手間がかかる分他の動物よりもたちが悪い。
「そんなこと言わないでよ。寂しいじゃないか」
「どうせ画像で脅して強制的になるんてしょ」
「それは最終手段。できれば君が自分から僕を必要として欲しいんだ」
「私にどんなメリットがあるの?」
「お昼にも話したけど、イケメンで料理ができて、ついでにお金持ちの僕が何でもいうことを聞いてくれる。それだけでもすごくメリットになると思うんだけどな。あとは……、そうだな、殺しの効率がぐっと上がる」
連続殺人犯だとわかっているのに警戒すらしない。
その上自分が戦力になると主張するのはそれ相応の自信を持っているからということか。
「あんたも能力者なの?」
「ご明答! 僕の能力は隷属。奴隷になる代わりに主人の能力を自由に使えるようになるんだ」
なるほど。
複数の稀有な能力を有するからこそ刹那に近づいたのか。
「本当の目的は私の能力をつかえるようになること」
「違うよ。さっきも言ったとおり僕は君に運命を感じ、同時に崇拝している。神にも等しい君の役に立って側にいることが僕の願いなんだ。僕の能力がたまたま目的に合致していただけで、他意は全くないんだよ」
嘘くさい。
彼の言葉を信じることができない。
けれど今よりも早く標的を全て殺せるなら、彼がいた方が自分にとって都合がいいのかもしれない。
人を殺すのはとても疲れる作業で、それを頻繁に行わなければならないのはとても辛い。
それに今回の対象はまだ5人もいる。
今日で全て殺し終える予定だが、今までの経験から今後も殺し続けなければならない。
彼がいればもっと早く楽に終わらせられるかもしれない。
理性では彼を信用するなとわかってはいたが、疲労と眠気が刹那を投げやりな気持ちにさせる。
「わかった」
「本当に! すごく嬉しいよ! 今日は君の犬になった記念日だね!」
どんな記念日だよ。
内心突っ込みつつ小さくため息をつく。
すごく体が怠い。
体の中に鉛が詰まっているように重たいし、ズキズキと片頭痛もしてきた。
「その代わり、役にたってよね」
「もちろんそのつもりだよ! さて、そうと決まれば契約をしなきゃね」
席を立つと聖司は刹那の隣に来て跪いた。
両手を取り、刹那の掌を自分の首に当てる。
すると手の内側の温度がどんどん下がり、氷のように冷たくなる。
触っていることが耐えきれなくなり、聖司の手を振り払って彼の首から手を離した。
彼の首には先程までなかった黒い模様が描かれていた。
首を一周するその複雑な模様はまるで犬が逃げられないように嵌められる首輪のようだ。
再び刹那は手を取られ、今度は左手の薬指の爪にキスを落とされた。
すると今度はほのかな熱を感じ、爪に彼の模様に似た小さな円形のマークが記されている。
「はい、契約完了だよ。これで僕は刹那の犬になった。何か命令したいときは爪の印に意識を集中して口に出して命じるんだ。そうしたら僕の身体は自分の意思に関係なく刹那の命令を実行する。盗みでも人殺しでもなんでもだよ。あ、そうだ。せっかく犬になったんだから、刹那のことこれからご主人様って呼ぶことにするよ。ご主人様、すごくいい響きだね! ご主人様、さっそく命令してみてよ。なんでもいいよ。添い寝して、でも。一緒にお風呂入ろ、でも。痛いことでも何でもできるよ」
満面の笑みで強請る聖司は、何を命令しても嬉しそうにやりそうだから能力で強制する必要があるのかと疑問に思う。
命令することを考えるのも億劫だが、彼の能力が本当かどうかわからないので何でもいいから試した方がいいだろう。
とりあえず鬱陶しいご主人様呼びを矯正することにした。
言われた通りに左手の薬指の印に意識を集中する。
「ご主人様って呼ぶの禁止」
爪の印と聖司の首の模様が赤くなる。
命令すると視覚的に分かりやすく反応するようだ。
「そんなぁ、酷いよ、――。うう、もっと刹那のことそう呼びたかったのにな」
肩を落として聖司はわかりやすく落ち込んで見せた。
ご主人様と言おうとしのか、途中声を出せずに聖司は口だけ動かした。
本当に自分の命令が彼の意思に反して行動させているのだろうか。
刹那に従っているふりをしてをしているだけかもしれない。
腕を切り落とすという命令を彼が実行すれば隷属という能力が本物であるという証拠になるだろうか。
本当にやったら出血多量で死ぬだろうか。
そういえば、何でも命令を聞く代わりに主人の能力を使えるようになると言っていた。
刹那の能力を使えるのなら、大概のことでは死なないだろう。
今日はずっと彼に振り回されっぱなしだった。
彼の苦しむ姿を見れば少しは気が晴れるだろうか。
そこまで考えて、頭が痛くて机に額を擦りつける。
木製のダイニングテーブルの表面はひんやりとして気持ちいいが、すぐに額の熱が伝わってぬるくなる。
頭痛薬はちょうど切れいているし、氷嚢を用意するのも面倒だ。
「刹那、どうしたの? やっぱり具合悪いの?」
あ、そうか。
こういうときに彼を使えばいいんだ。
犬の使用用途を思い付き、1年の大半が体調不良な刹那にとっては便利な小間使いがいるのはいいことだという考えに至った。
本格的に振り出した雨は激しさを増し、マンションの外壁を叩く水音が五月蠅いほどに室内に響く。
日暮れ前なのだが、外から差し込む光が少なく薄暗いため、灯りをつけて刹那は浴室の中を観察している。
バスタブには裸の綺麗な少年が長い睫毛を伏せて縁に寄りかかっていた。
縁の外にだらんと力なく垂れている腕は、二の腕から先が刃物で切断されて先がない。
浴室の隅に置かれた両足の下敷きとなっていた。
浴室の床や壁、バスタブは赤い液体で汚れている。
それは全て聖司の血であり、バスタブの中は万が一肉片が詰まらないように栓をしているので下半身が浸かるほどの血が溜まっている。
彫刻のように整った顔立ちの少年が血塗れで眠る姿は、薬で気がふれた画家が生み出した絵画のように猟奇的な美しさが心を引き付ける。
意識があるときは彼に対して何の感動も抱かなかった刹那だが、身体を切断され血に塗れて死んでいる方が神秘的で綺麗に思えた。
ピクリと睫毛が震えた。
瞼がゆっくり開くと、浴槽の隅に転がっていた彼の一部と浴室を染めていた血が灰になって消え、欠けた部位が再生された。
「あ、もう起きたんだ」
残念とばかりに呟かれた刹那の言葉は、意識を取り戻したばかりの彼には届かなかったようだ。
しばらく虚ろな眼差しで床を見ていた後、思い出したかのように浴室の入口の段差に座る刹那に視線を向けた。
「刹那のお仕置きはちょっと過激だね。まあ、僕にとって君からの命令は全てご褒美のようなものだから嬉しいんだけど、次からはもう少し刺激の少ないものにしてもらえると嬉しいかな」
あれだけのことをされたのに軽口を叩ける精神力を持つ彼は、馬鹿なのか頭がおかしいのか。
きっと両方なのだろう。
呆れて半眼で彼を見据える刹那だが、生身の人間に対して行ったことを考えると彼女の方がよっぽど頭が狂っているだろう。
氷嚢で頭の痛みが和らいだ後、彼が本当に自分の命令に服従するのか試してみたのだ。
部屋が汚れるのが嫌だったので風呂場に移動し、彼の言葉が本当であれば自宅に返さなければならないので衣服が汚れないように着ている物は全て脱いもらった。
聖司に命令し、包丁を使って自らの身体を切断させてみた。
我ながら安直だとは思ったが、どんな人間も身体の一部を失うことには恐怖を感じるはず。
もし命令すれば何でもいうことを聞かせられるというのが嘘であれば、刹那が命じても行動に移さないだろう。
だが彼は腕を切り落とすように命令すると躊躇うことなく包丁で腕を切り落とした。
いや、表情には明らかに恐怖が浮かんでいた。
それなのに身体が勝手に動いて自らの腕を包丁で切りつけ、骨は歯が通らないとわかると壁に打ち付けてまで折っていた。
痛みを感じていないのではとも思ったが、顔を歪ませ涙を流して叫んでいたところを見ると人並に苦痛は感じるようだ。
近所迷惑なので叫ぶことを禁止すると、途端に声を出さなくなったのは面白かった。
痛みで集中できないのか、腕を切り落とした後中々身体が再生されなかったのでついでに両足も切断させると気を失ってしまった。
身体を再生させることができるとはいえ、慣れない内は集中力がいる力だ。
血をドバドバと大量に流したまま動かなくなったので、死ぬかなと思い刹那は目の前の死体をどこに捨てようかと思考を巡らせた。
とりあえず人が足を踏み込まない樹海にでも捨てようかと死体の処理を計画したが、その思考は無駄に終わったようだ。
意外にしぶといようで、大量の血を流したにも関わらず彼は意識を取り戻して身体を再生させた。
捨てる手間が省け、能力が彼の説明通りと証明された。
とりあえず何でもいうことを聞かせられる小間使いは便利だと思って刹那は彼を傍に置くことに決めた。
「ねえ、せっかく服脱いだんだからこのまま一緒にお風呂入らない? 僕が身体の隅々まで洗ってあげるよ――って待って、行かないでよ!」
「服着て」
裸のままついて来る気配に振り返らず、服を着るように命令する。
渋々といった表情で、だが身体は命令に従って素早く聖司は制服を身につけた。
「それにしても、見た目は人畜無害そうな普通の女子高生なのに、やっぱり刹那は極悪非道な殺人鬼だってわかって関心したよ。目の前で自分の手足を切り落としている男がいるのに、感情の籠らない冷ややかな眼差しで見てたからすごく興奮しちゃった。痛いのは嫌いなんだけど、刹那があんな目で僕を見つめてくれるんだったら悪くないかも。というか癖になりそう」
「変態」
「僕は至って普通だよ。変態に見えるのは刹那に対する愛情が大きいからだね。ほら、恋は盲目って言うじゃないか。僕の信仰心も似たようなものなんだよ」
彼の屁理屈を無視し、刹那は1人自室へと戻った。
その後、夕食を作る為に聖司はわざわざ近所のスーパーで買い物をした。
とても美味しそうな料理がダイニングテーブルに並んだが、結局刹那はお腹が減っていないということで食べなかった。
部屋に運ぼうかと聖司が気を使ったが、自室に引きこもったまま断った。
刹那は深夜過ぎに残りの人間を殺すつもりだ。
それまで寝ないために暇つぶしで小説を読んでみたが、それにも飽きてきた。
あくびを噛み殺すが、寝不足に伴う頭痛と眩暈が襲い、同時に吐き気もしてくる。
頭に水でも被れば少しはよくなるのではと思い、洗面所へ向かうため立ち上がったところで、視界がぐるりと回転して意識が闇色に染まっていった。
「た、助けてください! お、お願い、します!」
男の掠れた声が聞こえる。
地面に額を擦りつけ、必死に懇願するがそんな姿を嘲笑うかのように頭上からゲラゲラと若い男の笑い声が降ってくる。
「くっせーんだよ! てめーみてぇな生ごみが命乞いしてんじゃねぇぞばぁーか! どうせろくな努力してないからホームレスになったんだろ。社会のゴミはさっさとくたばってゴミ箱に収まっとけばいいんだよ!」
後頭部を踏みつけられ、地面に顔面をギリギリと強い力で擦りつけられる。
呼吸が苦しくて必死に頭をあげようとしたら、今度は手を踏みつけられバッドで何度も体を殴られる。
骨が折れた痛みに悲鳴を上げると男達の楽し気な笑いが巻き起こり、繰り返し何度も暴行を加えられる。
憎い憎い、殺してやりたい!
俺が何をしたんだ。
たまたま仕事を失っただけでそれまで真面目にやってきたんだ。
こんなクズよりもよっぽどまともに生きてきた。
死んだらこいつらを呪い殺してやる!
地獄の底に引きずり込んで永遠に苦しめてやる!
息が止まるような苦しさに刹那は飛び起きる。
体中の毛穴から汗が吹き出し、引きつったような呼吸を何度も繰り返してようやく落ち着いた。
いつの間にか寝てしまっていた。
いや、徐々に蘇ってきた記憶から体力が持たなくて気絶したことを思い出した。
刹那は他人が殺される追体験を夢で見る能力を持つ。
そのときに感じる痛みや苦しみ、心の奥底から湧き上がるどろどろとした感情は夢とは思えない程リアルな恐怖心を刹那に与える。
そんな悪夢から逃れるために寝ないようにしているが、睡眠をとらないと体がもつわけがない。
現に今回も体力が持たずに意識がなくなった。
悪夢を打ち消し、心安らかに眠る方法は1つだけ。
それは夢に出てくる被害者を殺した人間を全て殺すこと。
殺された人間の恨みが晴れるのか、全員殺せば刹那は悪夢を見なくなり安心して眠ることができる。
ただ、悪夢を見なくなってもまた次の悪夢が襲ってくる。
今回も4日前に悪夢に登場する加害者を全て殺したのにも関わらず、またすぐに次の悪夢を見たため1週間まともに寝られていない。
悪夢を見る間隔はその時々で代わり、1ヶ月まるまる見ないこともあれば、今回のように連続して訪れることもある。
今回はたまたま運悪く悪夢が続いたが、多分今日で肩が付くだろう。
残りの対象5人が刹那を恐れてリーダー格の男の家に集まるようだ。
そこを纏めて叩ければ、明日は悪夢で飛び起きることなく眠り続けることができるはずだ。
気づくとあんなに激しく響いていた雨音がいつの間にか止んでいた。
多少雨が降っていてもいいから外の空気を吸いたいと思った刹那が立ち上がろうとすると、腰に回された聖司の腕で阻まれた。
床に倒れていた筈だが、いつの間にか自分のベッドで後ろから彼に抱きつかれる形で横になっていたようだ。
ベッドに運ばれるのはいいが、密着した状態で一緒に寝るのはどうなのだろうか。
心地よさそうに眠る彼の腕は少し力を入れると簡単に外すことができた。
熟睡しているのか起きる気配のない聖司を部屋に置いて、刹那はベランダへと出た。
ベランダの柵の外に手を伸ばすと、夜の闇に紛れて見えなかった雨の細かな感触が肌にかかる。
空は星も月も全く見えず、まだ分厚い雲がかかっているのかもしれない。
どうせ殺しは室内でやるし、土砂降りになってくれれば外に音が漏れる心配が薄れるのでまた雨が降ってくれないだろうか。
「雨まだ降っているんだ」
背後から呑気な声でやってきて、刹那の隣で聖司は柵に寄りかかった。
「早く止まないかな。雨が降るとじめじめして嫌いだから、早く梅雨が終わってほしいよ」
刹那とは真逆の感想を述べ、彼はあくびを隠さず口を開ける。
んーと1つ伸びをし、柵に上半身を預ける。
「夢、見たよ。チープな映画のワンシーンみたいで退屈だったけど、刹那と同じ夢を共有できてると思ったらちょっと興奮しちゃった。でも初心な刹那には刺激が強いんだろうね。体調不良の原因は悪夢のせいで寝不足になっているからかな。普通の善良な人間は人が目の前で殺される姿を目の当たりにしてのんびり寝ていられるわけないよね」
ふふ、と何か含んだ笑みを漏らし、聖司は横目で刹那を見つめる。
刹那は彼の視線に気づかないふりをした。
「昨晩と2日前に殺した人間を除外すると、残りは5人かな。その様子だと彼らがどこにいるのか目星はついているようだね。調子悪そうだから、場所を教えてくれたら僕が全員殺してきてあげようか? 刹那のためなら何でもするよ」
聖司の言葉を無視し、刹那は部屋に戻る。
自室の姿見に手を触れると、鏡面が波紋のように波打ち、自分の部屋とは違う室内が映し出される。
「5分で終わらせる」
「いいね、今夜は楽しくなりそうだ!」
鏡を抜けると、窓から突然現れた少女に男達は目を丸くした。
散らかった部屋にはタバコと何か別の甘い香りが充満している。
机にはビールが詰まれ、床には酒の瓶が転がっていた。
それらを無感動で一瞥した刹那は、何もない空間から包丁を出して部屋の入口付近にいる男の頭に向けて投げ飛ばした。
右目に包丁が刺さった男はバタリと倒れる。
「おみごと」
後からやってきた聖司が関心したように口笛を吹く。
突然のことで身動きが取れないでいた男達がハッとして各々の武器を取り、襲い掛かってきた。
ひょいっと金属バットで攻撃をしかけてきた男を聖司は、どこからか日本刀を出現させて交わしざまに切り捨てた。
その場に倒れたが、傷が浅かったのか男は恐怖に顔を歪ませて地を這って逃げようとする。
だが背中を踏みつけ、日本刀を突き刺すと大量の血を流して痙攣した後動かなくなった。
その姿に悲鳴をあげて逃げようとする男の足を刹那が包丁を投擲し、男がうつ伏せに倒れたところを聖司が首を切り落とす。
「誰だお前ら! 俺らに何の恨みがあるんだよ!」
腰を抜かして叫んでいるが、刹那は無感情に男の頭を掴み、首の動脈を包丁で切りつける。噴水のように血が噴き出し、刹那は頭から血を浴びた
パァンと乾いた音がして、刹那の視界の半分が欠けた。
「な、なんで頭撃ったのに生きてんだよ……」
振り返ると、絶望の表情で顔を涙に濡らしている男がいた。
最初から使えばいいのにと思ったが、急に現れた殺人鬼に頭が真っ白になって使う余裕がなかったのかもしれない。
撃たれた部分が再生しているのか、徐々に視界が元に戻る。
男を両目で捉え、彼のお腹に包丁を突き刺す。
また銃声が鳴ったが、玉は刹那の背後の壁に突き刺さる。
男を押し倒して馬乗りになった刹那は何度も包丁で刺し貫き、彼は大量の血と共に泡を噴いて絶命した。
「うん、ちょうど5分だね。やっぱり長年殺しを続けているから手慣れてるね。僕は初めて人を殺したけど、やっぱり刹那みたいに要領よくできないや」
時間を図っていたのか、聖司は腕時計を見て感心したように頷く。
人殺しが初めてという割には恐怖心も戸惑いも見せずにやってのける彼の道徳心はかなりねじ曲がっているようだ。
「帰る」
包丁を投げ捨て、窓に手をつくとガラス面が揺れて刹那の部屋が映し出される。
部屋に戻ると血で濡れていた身体は、元の綺麗な状態に戻った。
「しかし、便利な能力だよね。鏡を通り抜ければ、指紋に毛髪、血痕、全ての証拠が消えるなんてさ。これじゃあ、捕まらないわけだよ」
聖司の存在を無視し、服を脱ぎ捨てるとタンスから寝巻を取り出して着替える。
ベッドに潜り込み、久々に何の気兼ねもなく布団の中で丸くなって、ことりと眠りについた。
何の夢も見ることなく眠り続け、気がついたら日が暮れていた。
学校をサボった形になったので母親に連絡が入っているかもしれないが、子供の成績が維持されていれば学校生活にまで口を出されることはないので気にする必要はないだろう。
トイレに行こうと階下に降りると、とても美味しそうな香りが忘れていた空腹を思い出させた。
「おはよう。と言ってももう夜なんだけどね。ハンバーグ作ったから食べよう。たくさん寝たからお腹減ってるでしょ」
リビングに入るとエプロン姿の聖司が出迎えた。
ダイニングテーブルには2人分の食事が並べられている。
デミグラスハンバーグの上に目玉焼きが乗せられ、ポテトとトマト、パセリが添えられている。
副菜にポトフとサラダもついていた。
「刹那の好みがわからなかったけど、ハンバーグなら菜食主義じゃない限り食べられると思ったんだ。食後のデザートもあるから楽しみにしてて」
ウィンクをする聖司を無視し、ダイニングテーブルの椅子に座る。
刹那が起きる時間を予知していたかのように、ハンバーグはできたてのような熱を持っていた。
「卵嫌い」
ハンバーグの上に乗る目玉焼きを箸でつまみ、ぺいっと彼のハンバーグの上に乗せた。
アレルギーではないのだが、卵の臭みがどうしても好きになれない。
箸に付着した卵のカスすら嫌い、ティッシュで拭う。
「僕は卵好きだから得しちゃったな。他に嫌いな食べ物はある? 全部僕が食べるよ」
湯気が昇るご飯を2人分持ってきた聖司が、向かいの椅子に座る。
箸で器用にハンバーグを一口大の大きさに切り、口に運ぶ。
コンビニ弁当にはない、手作り特有の美味しさに刹那は目を見開き、淀んでいた瞳が嘘のように輝きを取り戻す。
次々とハンバーグを口に運ぶ刹那を満足そうな笑顔で聖司は観察した。
「何ごとにも興味ないって顔してたのに、好きなものを食べる時は目をキラキラさせるよね。たくさん寝て顔色もよくなったし、こうして見ると刹那は普通の女の子って感じで可愛いな」
聞こえていないふりをして、刹那はハンバーグの合間にポトフを口に運ぶ。
全く料理ができない刹那と同じ年齢のはずなのに、完璧な料理を作れる聖司は本当に同じ高校生なのかと疑問に思う。
人それぞれ特技は持っており、刹那が人殺しなら彼は料理ということなのだろう。
これから毎日美味しいご飯を食べられるのなら、料理上手な犬をペットにするのも悪くないのかもしれない。
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