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9、ルーの訪問
口を開けて寝息を立てている唇に指を突っ込んで、犬歯の位置にある牙に触れてみる。
やや内側に反っていて、当然といえば当然だろうが、手を切るほど鋭くはない。下の歯列にも触れてみれば、しっかりと口を閉じても上手く噛み合うのだろう、おうとつも合っている。こんなに長いと歯茎に刺さらないだろうかと指を当てて長さを測り、辛うじて突き刺さりはしなさそうなのに感心してしまう。
「…ぅおい、やめろ…」
口ばかり注視していた目を上げて、向けられる半眼を見る。室内にあふれる朝陽の光のせいか、ふと気づき。片肘を突っ張って身を起こし、半眼の瞼を指でこじ開ける。
「…にやってんだお前は…」
「変わった瞳の色だ」
鈍い緑の系統だと思っていた虹彩は、中心近くの砂色が、広がる途中で天色に入れ替わる複雑な模様を持っている。
うっとうしい、と手を押し退けられ、大人しく引っ込んで、眉を詰める顔がまた目を閉じてしまうのを見る。
「その牙は邪魔に感じることはないのか」
一拍の間を置いたとはいえ、思いがけない素早さで伸びる手に、反応しそびれる。耳の先を摘ままれて、思わずそちらの目を眇め。
「…お前は自分の耳が邪魔になんのかよ…」
つまんだ手をそのままに、声を出してからまた億劫そうに開く目を見る。勝手に離れて戻る手を少し目で追い。
「ならないな」
「…手前ェの身体で邪魔、…に、なんのは金玉くれえじゃねえか…」
着地しかけて方向転換したような言葉に瞬き、睾丸か、と頷く。
「確かに。もう少しどこかいい場所はなかったかと思うことはあるな」
ぶほ、と、聞き慣れたような噴き出し笑いも、正面から浴びると眉が寄る。唾液が掛かった気がする額や頬を少し拭い。
「…どこだよ…他のとこのが邪魔だわ…」
少し思案の間を取り、唇を擦る。
「機能からいえば明らかに内臓なのだから、体内に収まっているのが順当じゃないか?」
アーと気怠い声を垂らしながら、身を転じて天井を向くのを見守り。伸びをする手の先が寝台の支柱に当たって、いて、なんぞという声を漏らしているのを見る。
「暑いのがダメだっていうからな。腹ン中じゃ種が腐っちまうんだろ」
うーん、と、知らずにつられて背腕を伸ばしながら、首を捻る。
「身体の一部なのに体内の温度に耐えきれないというのも、多少納得がいかないとは思う」
なんなんだよ、と表情を崩す眦に皺が寄るのに気づいて、目を留める。
「納得ったって…。…ンー…、冷やせねえからってより、アー、体温って、下げる機能より上げる機能のが強いんじゃね」
うん?と、うろうろする理屈に耳を傾け、首を捻る。
「病気の時とか、熱が出るだろ。けど、逆上せた時とかに体温が急に下がるってあんまねえ気がする。つーことは、普段はよくても、熱が出た時に冷やすのが間に合わなくて全滅する可能性があっから、普段から外に出しとくことにしたんじゃねえか、つう」
「ああ」
納得できるかはともかく言わんとするところは伝わって、頷いて示す。
「…冷やす…冷やす、ね……、アー、汗か…。だから玉の裏って汗掻くんだなあ…」
話の発端になった牙が欠伸で剥き出されるのを見ながら、目を瞠る。
「そんなところまで汗を掻くのか!」
えっと振り返る混色の瞳も瞠られている。
「エルフって玉の裏に汗掻かねえの!?」
「気づいたことはないな…」
お互いを珍しいもののように、思わずまじまじと見つめ合ってしまう。
「…どんだけ便利なんだよ…エルフは汚れねえとは聞くが…」
稀に他の種族と話す機会があれば耳にする、便利との単語に頷く。
「他の種に比べると、そもそも温度変化に強いのもあるかもな」
ああーとおざなりな相槌を打っていたアギレオが、急にガバと身を起こして、瞬く。
「それで思い出した。今日こそ洗濯してやろうと思ってたんだわ」
あ、と短い声を上げ、寝台から降りるアギレオの後を追い身を起こす。
「それなら、私もローブを洗いたい。…、」
それより身体を拭きたいな、と、ローブを拾って上げた顔に、下衣に足を通しながら振り返るアギレオが眉を上げるのを見る。
「素っ裸でか?」
「……」
衣服は与えられないらしい、と、浅く口角を下げる。
「着せんのも脱がせんのも面倒なんだよ」
顎で示される先を辿って、片方の足首に繋がれた足枷と鎖に、嘆息する。確かに足が通せないな、と、足の先で少し鎖をいじった。
大人しくしとけと言い置いて行ってしまう背を見送り、もう一度ため息をつきながら寝台に腰を下ろす。
全裸でローブを洗うべきか、何か別の方法はないか、組み上げる足の膝に頬杖をついて思案する。上から被るだけで済むもの、自体は色々ある筈だが。
よれたシーツの皺を手遊びに伸ばし、そのくたびれた薄さにはたと目を留める。
「うお、ビックリした」
「相変わらず凄いな…!」
寝室の窓から顔を出すハルカレンディアと、外を回ってそこへ現れたアギレオは、お互いに気づいた途端に互いに声を上げる。
「なんだそれ、精霊ごっこか」
「力もあるがバランスがいいんだな…」
器用にシーツを巻きつけて身にまとうハルカレンディアを見ながら、抱えるほどの盥を2つ重ねるアギレオが、よ、と短い声一つでそれを下ろす。それぞれの盥から跳ねて水がこぼれ、2つの盥がどちらも満たされているのが判る。
「全裸ではなくなったから、私もローブを洗いたい」
「へいへい」
好きにしろと言わんばかりに、軒下に立て掛けた小さめの盥と洗濯板を取りに行くアギレオに、ハルカレンディアは眉を下げる。
「…玄関の外まで鎖が届かないんだ…」
ああ、と、顔を上げ、衣服をいくらか探ってから、鍵がねえわ、と逞しい肩を竦められるのに、口角も下げる。
「取りに行くのが面倒だ。出たきゃそっから出ろよ」
手をついた窓枠を示され、瞬く。
「! 分かった」
いそいそ跳び上がろうとして、足枷の重さに妨げられ、窓に乗り上げてから跨いで外に降りる。
裸足の足の裏に土と草を踏む感触が心地良い。
同じ盥に屈めば、積んだ衣服を洗っているアギレオが洗濯板を寄せて場所を空けるのに、礼を言ってローブを洗い始める。
「何かと思ったらシーツかそれ」
「ああ、借りたぞ。ローブが乾いたらこれも洗いたい」
「アー、そっちのが汚れてんだろ。お前がビッチャビチャにすっから、冷てえッ!」
思わず跳ね上げて掛けてやった水を、けれど腕で拭いながらやはり笑っているのに震える。
「私の体液だけなはずがない…!」
「大体お前のエルフ汁だな〜」
「そんなことはない! お前だって何度も射精していた!」
バシャバシャと、机を叩く要領で叩く水面から水が飛び散る。やーめーろなどと笑いながら前に上げる腕で水を避けるアギレオが、顔を上げる。
「お? 何かあったか?」
「盛り上がってるところ邪魔して悪いな…」
聞き覚えのある声に振り返ってみれば、額を押さえている灰髪の男と目が合い、そっと顔を背けてローブの洗濯を続ける。
処分と修繕がどうのと交わされる会話を聞くとなし耳に入れながら、機嫌良く、手枷の重さで捗らない洗濯が水遊びじみてくる。見た方が早いと決まったらしく立ち上がるのを見上げ。
「出掛けるなら、ついでに終わらせておこうか」
「ああー…。おう、悪いな、助かる」
足拭いて上がれよ、と、洗濯物の中から寄越される布巾を受け取る。分かった、と頷いて大して見送らず、久々の洗濯と水の感触をたっぷりと楽しみ。水を節約して余らせると、一度洗濯物を干してから、シーツを取ってついでに簡単に水を浴びてしまう。
身体を拭いてシーツを洗いながら、はたと、危惧された通り全裸で洗濯しているなと少し唸る。シーツも干して爽快な心地で、草に寝転びたいのは我慢して、足を拭いてまた窓から寝室へと戻った。
窓を開けたまま、カウチソファに一応遠慮して腰掛け、通る風で髪と身体が乾くのを待つ。運動したいな、と、重い手足のまま室内でできる鍛錬のメニューをあれやこれやと思い浮かべる、少しうとうとした意識に、ノックの音が刺さる。
もう一度繰り返された音に、気のせいではない、と立ち上がり。
「全部洗ってしまった…」
せめて留守を告げた方がいいだろう、いや、よくないのだろうか、と考える間に、探そうと思っていた替えのシーツの探索を急ぎに、収納をあちこち開ける。
「お留守かしら? エルフちゃん?」
ちゃん!?いや、私のことか!?と、玄関からだろう、扉越しの少し遠い声に目を瞠りながら、見つけたシーツを慌てて身に着ける。
「すまない! すぐに!」
少なからぬ動揺で途切れがちになりそうな息を宥めながら、早足に玄関へと向かい、扉を開く。
「すまない、お待たせした…」
「あら、どういたしまして」
ニコリと向けられる笑みに、瞬く。予想に違わぬ見知らぬ女性を、思わずマジマジと見つめてしまう。
「突然ごめんなさいね。野菜が少し多く採れたの。よければいかが?」
手入れされ、まとめられた灰色の髪。微笑む琥珀の瞳。見知らぬ、だが既視感のあるその色から、声に示されて目を外し、木で出来た少し小さなボウルを見下ろす。
「キレイな野菜だ、ありがとう。…ありがたいん、だが、」
再び彼女の顔を見ながら、咄嗟に次の言葉が出ない。彼女は誰で、一体自分のことを知っているのか、どう知っているのか、アギレオは把握しているのか、受け取ってもいいものなのか、アギレオの代わりに受け取るものなのか。
渋滞する情報に言葉が詰まり、ええと、と間を取る。
「あら、ごめんなさい」
ふふ、とくすぐられたように笑い、彼女が振り返って、少し離れたところに建つ別の家を目線で示す。寝室の外の庭からは丁度見えない位置だ。
「お隣に住んでいるの。私の名前はモーントブルーメ。ルーと呼んでくれればいいわ。リーの妻よ」
笑みを絶やさぬまま、言ったことのどこまでを理解できるかを図るような聡い目に、瞬き、それから頷く。
「こちらこそ、失礼した。私の名はハルカレンディアだ。…ええと。…、…今はアギレオの世話になっている」
名乗り合うだけで少し落ち着く。辞儀を捧げ、はいと差し出されるボウルを、今度は礼を言って受け取り。
「リー、…という名は、聞いたことがある気がする…」
そうなのね、と柔らかな相槌を打ち、ルーが見上げてくる。琥珀の瞳。
「会ったことはあると思うわ。あなたの話をしていたから。リーは、私と同じ髪と目の色をしてるのよ」
「ああ…! 分かった、彼がリーか…! そうか…」
なるほど、と、もう一つ繋がった顔と名前に、大きく頷きを繰り返す。灰髪の男のことだ。
「そう、彼がリーよ。やっと顔を見られてよかったわ、ハル。…ハルと呼んでも構わないかしら?」
詰められた名前の聞き覚えに瞬いてから、もちろんと頷いて。
「野菜をありがとう、ルー。アギレオに伝えておく」
間を置かず、あら、と返されて、うん?とその顔を見つめ。
「嫌でなければあなたが食べてちょうだい。その方がいいわ」
そうか。ええそうよ。と淡い相槌を交わして、もう一度礼を告げる。それじゃあ、と背を向ける彼女を見送り、手の中のボウルに目を落として、瑞々しいチシャと赤カブを見つめる。大いにウキウキと玄関を入ろうとしたところで聞こえた声に、パッと顔を上げた。
「なんだ、上がってけよ、ルー」
「あら、おかえりなさい。いいの?」
「酒か水の二択だけどな」
戻ってきたアギレオとルーがすぐ先で交わす遣り取りを瞬きながら見守り、二人がこちらに向かうのに気づいて扉を押さえておく。
「ああ、洗濯助かった」
「どういたしまして…」
「ふふ、お邪魔するわね、ハル」
「ああ、いらっしゃい…」
想定外の展開にどんな顔をしてどこにいるべきなのか首を捻りながら、二人が通り終えた扉を閉じた。
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