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13、獣人たち
夜の風は静かで澄んでいて、襟足を掬って抜けていくのが心地良い。身の丈に合った衣服を着けている気分の良さもあり、相変わらず枷に戒められた足すら軽く感じる。
家々の間を抜ける川と、降るような星を見上げ、見比べて、集落を囲む木々を見渡す。
出掛けにアギレオから聞いた話によれば、この頃は、獣人たちは南東側によく集まるらしい。星の位置から方角を見定め、そちらへと歩き出す。
そこここの窓に点っていた灯りが減り始め、足を進めるだに闇が静かに降りてくる。
集落の外側に向かうにつれて低い草が密になり、その下の土を覆い隠していく。
草を踏んで木々の間へと踏み入れて行くたび、途切れる夜虫の声が道を開く。
足元に目を落とせば、草の生えない獣道がいくらか見え、辿るようにそこを歩いていく。虫の声以外に生き物の気配を知れぬまま進むのに、あまり離れると逃亡を疑われはしないかと少し神経が尖り。
「!」
髪に何か軽いものが当たって跳ねたような気配があり、咄嗟に目で追う。落ちたのは些細な小枝だ。傍の樹からか、と足を止め。
「やいエルフ、」
上の方から掛けられた声を追い、振り返って木を見上げる。暗いはずの空に黒い影絵を作るような葉と枝に紛れるものを探し。
すぐに闇慣れてくる目に、ほとんど同化しそうに、枝に寝そべっている影を見つけた。
「手紙は書き終わったんだろ?」
声と内容に、すぐに思い当たる。
「リューか」
「つまんねーやつだな、すぐ見つけやがって」
ガサガサ、と葉を揺らし、人間ともエルフとも違う身軽さで、少し低い枝に降りてくるのを感心して眺め。
「書いたら殺してもいいったよな? 言ったよな?」
星と月の僅かな明かりに、にんまりと笑う目が見得る。
「アギレオに確かめてみた方がいいだろうか?」
シンプルな要求の繰り返しに、そんな場合ではないのだろうが、少し笑ってしまう。
途端に、ハアーア!と盛大なため息をつかれて瞬く。
「なんだかんだ言って甘えーんだよなー、お頭は」
「そうなのか」
そうかもしれない、と口には出さず頬を緩め。
「そうだよ。拾ったエルフなんか、殺しちまえば楽だし楽しいのに」
そうか、と共感はできないながら、一貫しているリューの主張に相槌を打ち。
「私の名はハルカレンディアだ。先日は同行してくれてありがとう」
「ハレカルンデ、」
再現されそびれた音に、何が彼らに言いにくいのか分かったような気がして、ああと頷く。
「ハルというのが言いやすいようだ」
おー!と喜色の浮かぶ声に、つられるように和む。
「ハルは何してんだ。縄張りの見回りか?」
そう、と頷いてから、違うだろうか?と自分で首を傾げてしまう。
「俺らの縄張りはな、」
構わず続けられる声に目を上げれば、枝から伸びるようなしなやかな腕に指差され、元来た方を振り返る。樹と葉の影に遮られ、集落の灯りはずいぶん見えなくなっている。
「砦の明かりが見えるとこまでだ。そっから向こうは四足のモンだ」
「よつあし…」
「獣人じゃない獣のことだ」
別の方向から降ってきた声に、パッと顔を上げる。別の枝に、器用に腰掛けている影を見つけた。
「俺はデンメルンク、メルってのが言いやすいようだ」
ククッと喉笑いする声に瞬き、自分の言い方を真似たのだと遅れて気づく。
「祖霊は狐。今日は服を着てんだな、エルフ」
付け加えられた一言で、降りてくる気はなさそうな彼が、境の森へ同行したもう一人かと見当をつける。
「名はハルカレンディアだ。お下がりを、」
「俺はフリューリング! 祖霊は山猫!」
リューに元気よく割って入られ、振り返って思わず瞬く。ククッとまた笑っているメルといい、ペースが掴みにくい。
「そうか、フリューリングでリューか。教えてくれてありがとう」
「いいぜ! 四足とケンカになったら、ちゃんと殺して持ってこいよ!」
食えるやつな!と、言い足してまた枝を上ってしまうのに、ああ、と声で追うのが遅れる。
数秒立ち尽くして、もう用はないということか、と首を捻る。ではと言う代わりに手を上げれば、また小枝を投げられて、どう取るのが正解だろうかと悩みながら、また歩き出した。
教えられた通り、砦と呼ばれる彼らの集落の灯りが見えているよう気をつけながら、木々の間を歩く。
ほどなく、少し開けた場所に据わった大きな岩に腰掛けている二人組の影を見つけて、足を向ける。片膝を立てた少し大柄な影と、それよりは小柄に見える胡座を掻いた影が、声を掛けるより早く同時に振り返り、足を止める。
「やあ、リー」
片膝立ての方は見知った顔で、声を掛けてからもう少し距離を詰めて、声を張らなくても充分に届く距離で、もう一度足を止め。
「よお」
「へえええい、エルフゥゥゥ」
リーから返された声に頷いて、隣の胡座に視線を移したところで声を向けられ、人間達とは違う獣人達のペースというべきか個性というべきか、挨拶に瞬いて、一拍声が遅れる。
「名はハルカレンディアだ。やあ」
「ひっひ。俺はナハトだぁ、ヒトの姿でははじめましてだなあ? エルフのハルカレンディアァ」
「えっ」
「お前がこんなところまで歩き回るようになるとはな」
ナハトと名乗った胡座かきの、黒い髪に黒い瞳の男の言葉に取られる気を、リーの感心するような声に向ける。
「…本当だな」
前回会った時に交わした同感の続きのようで、少し苦笑いしながら頷いて。それで、と、またナハトに目を向ける。
「リー! ナハト! ウサギ獲ったぜ!」
「ウサギがいたんだ」
ザッと荒く草を踏み分ける音をさせて現れた声に遮られて、思わずそちらに目を取られてしまう。言葉通り捕らえたらしきウサギをいくつか手にした三人は、それぞれ覚えのある顔だ。
「エルフ!」
「あーあ…ホントに出てきちまったのか…」
思わず。予想も覚悟もしていたが、目の前にすると天を仰がずにおれない。ため息をついてから気を取り直し、地下の石牢で散々見た顔に目を戻して、肩を竦める。
「ご覧の通りだ。名はハルカレンディアという」
それぞれに頭を振ったり肩を竦める三人に、顔を背けて堪えたつもりの、再びのため息が鼻から抜ける。
「構わねえだろ、また楽しもうぜ、エルフ」
声に向ける顔は遅れてもおらず、飛び掛かるように詰められる距離と伸びてくる腕が、見えているのに、足と腕の重さに遮られて防ぎきれない。
「っ」
ダン!と傍の樹に押しつけられ、顎の裏と手首を掴まれて、白んだ目で男を見下ろす。
「お断りだ」
「お前がどうかなんて興味ねーんだよ」
距離が近い。これなら、速度で負けても。押さえるのが片手だけとは、舐めてもらえているのを幸いに、空いた逆手を伸ばし、喉に掛かる手を退けようとすると見せかけ、その腕に絡める。
「同感だな」
腕を取って、身体ごとで押し退けるように軽く身を屈め、思わず向こうの手が緩んだ隙に一気に腕の下をくぐる。
「いッ、て…!」
関節を逆に向けられる痛みを庇おうと低くなる身体を、その背にのしかかるように押さえ込みながら、絡めたままの腕を捩り上げ地面に引き倒す。
おお、というリーの声と、口笛なんぞ吹いたのは方向からいえばナハトか。チラと目線をやり、リーがどちらにつくという気もなさそうなのを確認してから、腕を押さえつけ、背中に膝をついて体重を乗せ、ねじ伏せる。
「そうだ。いい考えがある」
「いッて…! クソ、離せ…!」
なんとか逃れようと足掻く腕も、痛みを避けるせいで、逃がしてしまうような強さではない。腕を押さえ直してから、おもむろに逆の手を足掻く脚の間に伸ばし。股座の膨らみを強く掴むと、悲鳴が上がる。まだそれほど痛くはないだろうが、本能的な恐怖を感じるだろうことは、よく分かる。
「こいつを潰してしまえばいい。そうすれば、私もお前も、お前の性欲に煩わされることがなくなる」
握る手を少し、強くしてやる。
「なッ!! やめッ、やめろッ! やめろ!」
「分かるか? 陰嚢の中にあるこれだ。自分でも触れたことくらいあるだろう。この玉を潰してしまえば、オスは性欲が無くなって性格も穏やかになるそうだ」
「いッ!! 痛えッ、痛ッ! やめッ、やめッ…!」
警告には、嘘ではないという確信が必要だ。言葉に従い、ゆっくりと掌を縮めていく。既に、膝の下にした背に脂汗を掻く程度には、痛みがあるだろう。
「心配するな、死にはしない。潰すのは泡を吹くような恐ろしい痛みで、しばらくは腫れ上がり、夜も眠れないほど酷い苦痛を味わうだろうが、それが過ぎてしまえばきっと爽快だろう。お前も、私もな」
「いいいッ、いテエッ!! ヒィッ! いてッやめッいて、やめる! やめろッ! やめるやめるやめる!! やめるから!! やめるからやめろォォッッ!!」
「もう一度はない」
「ないッ!! ないからッ!! ないからやめろォッ!!」
「誓うか?」
「誓う! ちかうちかうちかう、誓うから離せェッ!!」
「分かった。では、それで手を打とう」
手を両方とも離して、立ち上がる足に男の震えが少し伝わるのを感じながら、その上から退く。
振り返るリーが、まだ起き上がれず息を上げている男に眉を上げているのが見え、溜飲を下げる。身と尊厳を守る自由はあるらしい。
「エルフの中でも軍人だと言っといただろう」
「こッわッッ、えげつねええ~」
呆れた声のリーと大笑いのナハトに、仇を討ってくれと訴え、まだ玉は潰されたくない、俺もぉぉなどと軽口で切り捨てられている男を、少し眺め。
「立てないのか?」
差し出す手を、うるせえッと避けて立ち上がられ、ひそめた声を賑やかにまだやいやいと交わしながら砦に戻っていく三人を、手を引っ込め、息をついて見送る。
「…名を尋ねるのを忘れてしまった」
「その内機会もあるかもな」
少し笑っているような緩んだリーの声に、改めて二人の方へと向き直る。そうだな、と、頷き。
「そういえば、ナハトもリーと同じ人狼なのか?」
普段が人間達と区別がつかないせいなのか、彼らの多様さのせいなのか、名を名乗った獣人達がみなその祖霊を教えてくれたのを思い出して、どこか質の悪さを感じさせる片笑みを浮かべているナハトに水を向ける。
その顔が、ニヤとばかりに一層笑みを深くするのに、瞬き。
「祖霊は山犬ゥ。俺の祖霊姿はなぁ、真っ黒な犬だぜ、エルフゥ。黒くて、耳と毛は短え、図体は今とそう変わんねえかなぁ」
「……」
そうか、と言おうとした口が、開いたままで止まってしまう。教えられた姿の犬を、見たことがある。
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