14、野盗の砦1

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14、野盗の砦1

「ヒトの姿で会うのは初めてだなぁ。山犬の姿じゃ、何度も会ったけどよォ」  告げられた言葉で、全身に震えが満ちていく。自分の歯が鳴る音が微かに聞こえる。ナハトの唇が、ゆっくりと開いて、音無く象るのを読み取って。口を押さえ、歯の音を止めようと奥歯を噛む。 "地下で"  そう、思い浮かべたことを違いなく示す言葉に、頭が真っ白になる。屈辱より、嫌悪感より、誰も見ていなかったそれを知っている者がいるという、愕然が身を震わせる。 「……誰かが、放ったのかと……」  誰の手も借りずいつも一匹で階段を下り、扉を開いてやってきた犬を、おかしいと思ったことはあった。最初の交戦で獣人を見たのだ、何故気づかなかったかと己に問い、どの男も"その時"に獣に変じはしなかったからだと、詮無い結論を虚しくつける。 「…ナハト……お前…」  額を覆うリーの姿は、見えているようで、見えていない気がする。震えを押さえるために口に当てた手すら震え。 「ヒヒッ。獣の姿でやらせてくれるやつは商売女でもホントにいなくてよぉぉ。アギレオの野郎もたまにはいいことするッて思ってたのに、結局自分で持ってっちまいやがってよぉぉ」 「お前にだけは、ほんとに宛がう相手も思いつかん…」 「ィヒッ、娼館もほぼ出禁だしよぉ。まったくゥ、獣人への冷遇たるやだぜぇぇ」 「お前みたいなのがいるから、獣人は冷遇されるんだと痛感するよ…」  二人の交わしている言葉は、耳に入り理解もしているのに、どこにも入ってこない。力の抜ける足を緩めて座り込み、目眩のしそうな額を押さえる。 「…大丈夫か、ハル」 「おっ、ハルか。ハルはいいな、ハル。よかったなぁぁ? 犬とやっちまったんじゃなくってよぉぉ」  笑う悪辣な声に、今度は、ありがたくも混乱を吹き飛ばし純然たる屈辱で血が上る。 「良くはない…!」  顔を上げて向き合うナハトの顔はものともしない歪んだ笑みで、リーから向けられる同情の目線に再び頭を抱える。済んだ、というより、取り戻せないことだと、己に言い聞かせ、繰り返し息をついて動揺を宥める。最後に大きく息を吐ききって、なんとか背を伸ばし。切り替えようと、少し額を擦ってから顔を上げる。 「リー、尋ねようと思っていたことがある」 「ああ」  なんだ?と向けられる琥珀の瞳に、立ち上がって少し草を払い。 「他のエルフ達はどうなっただろうか」  琥珀の瞳と見つめ合ったまま、短い間沈黙が満ちる。 「聞かない方がいいだろうな」  表情を変えぬまま告げられた言葉に、分かっていると言う代わりに頭を振ってみせ。 「何も期待を抱いたりはしていない。教えてくれ」  スッと、こちらを見ていた視線を外して森の深くなる方へと向けられる目に、つられるよう、満ちる闇に溶ける木立の群れを見る。視界の端で、ひとまず棚に上げたナハトも同じ方向を見るのが分かる。 「死んだ者は、敵も味方も四足、獣たちに渡す」  ああ、と、頷こうとした声が出ない。そうかと、大きく息をついて、少し目を伏せ。 「俺らは四足を食ってぇ、四足は俺らを食うのさぁ。肉を食うやつぁ美味かねえが、そいつらの腹が膨れてりゃ、草を食うやつらは増えっからなぁ」  ほんの少し悪辣の色を失い、煙ったような声になるナハトを振り返り、また森を見る。 「…ああ。…そうか」 「そういうことだ。食い切れなかったやつは腐って土になって、獣じゃなく森を育てる」 「……。…そうか。…教えてくれてありがとう…」  言葉は、言い表すには足りない。良い訳ではなく、けれど理解はできる。  草に片膝を着いて、額に指を置き、捧げるべきものに礼を捧げる。失った一人ひとりの顔と名を思い浮かべてから、立ち上がり。  最初に目にした時と同じ姿勢で、けれど黙って森の方を見つめている二人に、ほんの少し、僅かだけ胸を緩める。 「寂しくなっちまったなぁ」  ナハトの声は、笑っているようにも聞こえる。顔が見えず、それを確かめる術はないが。 「…エルフの魂は、肉体が滅びても死ぬわけではない。時の無い館に到り、世界の終わりを待つか、また新しい肉体を満たしに戻る」  振り返る二人を見て、それから、また目を伏せ。 「だからエルフは、死を恐れるという感情は持たないが。肉体の滅びるのは同じように苦痛を伴い、…置いて行かれる者も、同じようにつらい」  沈黙が満ちて顔を上げれば、二人が顔を見合わせているのに、瞬いてしまう。 「リーぃぃぃ…、分かったかよ今のぉぉぉ…」  歪んだ笑みに苦みを混ぜるナハトに、リーが額を押さえる。 「……最後だけは、…なんとか…」  ふ、と、頬が緩む。 「そうか」  そろそろ戻る、と、告げる辞意に、二人から短い言葉を寄越され、踵を返す。  背にした、闇の満ちる森に後ろ髪引かれるような思いをそのままに、木立を抜け、草を踏んで歩く。夜虫の声が道を開き、静かで澄んだ風が襟足を掬うように抜けていく。近付く砦の僅かな灯りに目を伏せながら、ゆっくりと、来た道を逆に戻った。  足音を忍ばせるように寝室に踏み入れて、寝台の上に横たわる褐色の肩を見下ろせば、単純に、寝る時に衣服を身に着けないのだなと、妙な感心をしてしまう。  着ていたものを脱いで隅に畳み、自分とて必要もないのに、けれど、何かを剥がして下ろすように裸身になる。  起こさないようにそっと、足を跨いで、空けられている壁側の隙間に身を置き。手を伸ばして、指のほんの先だけでその唇を薄く撫でる。 「…なあ。…躾けてくれ、……鬼、」  口に出してみて、その馬鹿馬鹿しさに遣る背ない笑いが乾いて零れる。指を引く先で、閉じていた瞼が開いて、目を剥き。 「……今か」 「ッ」  声が、喉に詰まる。 「……いや、……今じゃない……」  自分で、何を答えているのか解らない。ン、と、短い声を返してまた閉じてしまう目を、目を剥いたまま見守り。早鐘を打ったままの鼓動に、まるで口から出るのを恐れでもするよう唇を引き結ぶ。  また立ち始める寝息を、息を潜め、どのくらい聞いていたか分からない。手で口を覆い、覆ったまま、動揺を宥めるように大きく息を吸って吐く。  今、自分は何を言ったのかと。  それなりに酷い気分に、これまで知ることのなかった、全てが掻き消えるような感覚を求めて。けれど。  眠るアギレオの顔を見つめ、眉を寄せる。  忘れたことはない。悲惨の全てをもたらしたのは、この男だ。それから、そこから引き上げたのも。他の者達が、この男が引いた一線を感心するほど守っているのが、今の自分を危うくさせずにいることも。何もかも。  ギリと歯の軋るほど奥歯を噛んで、静かな寝顔を睨みつける。 「……畜生が……」  声を抑えてはいるが、アギレオがまた目を覚ましても構わない。人前でといわず、口にしたことのない汚い言葉で短く罵る。  けれど、分かっている。敗けたからだ。指揮官は、己だった。  穏やかな寝息に背を向け、壁に懐くようにして身を縮める。訪れそうにない眠りに構わぬよう、無理に目を閉じた。  起きて出掛けていくアギレオを寝たふりでやり過ごし、身を起こす。  まだ少し、気分が重い。  一日室内で過ごそうかとしばらく考えて、余計に気が塞ぎそうだと思い直す。寝台から降りて衣服を身に着け、家を後にしてブラブラ歩く。夜とはまた表情の違う砦を歩きながら、家々の数に比べて住む人数は少ないのかもと気づき、寂しくなったというナハトの言葉を思い出す。その理由に思い当たり、少し息を抜いて。  ここは一体どういうところなのだろうと、見渡す中に、ダイナと名乗った女性が畑にいるのが目について、知りたいことを聞き出す腹づもりでそちらへと足を運んだ。  チシャの収穫をしている傍で足を止め、膝に手を着いて身を屈める。 「何か手伝うことはあるだろうか、ダイナ」  うん?と、身を起こし、籠を片手に腰を叩く彼女に合わせて、自分も身体を起こす。 「ああ。そうだねえ、採る分はこんなもんだから、落ちてるクズ葉を拾ってヤギにやってくれる?」  あそこ、と、先ほどは建物の陰で見えなかったささやかな囲いを指し示され、畑と見比べる。余分な葉を退けて落としたものが、そこここに落ちている。  分かったと頷いて、クズ葉を拾い集めながら畦の間を歩く。それほど大量の収穫ではなく、すぐに拾い終わって、ヤギの囲いの中のエサ箱らしきところに入れておく。  食堂へ運ぶのだろう、ここには植わっていないキュウリの籠をもう一声掛けて請け負い、並んで歩く。 「ダイナは、どうしてこの砦に?」  尋ねた途端に、ははは!と声を立てて笑われ、眉を上げる。 「それを訊きたくて手伝ってくれたのかい?」  瞬き、正直に頷く。 「実はそうだ。想像していた野盗の砦と違うから、ここはどんなところなのだろうと思って」  なるほどねえ、と相槌を打つダイナの声は穏やかで、気を悪くした風ではないことにひとまず胸を撫で下ろす。 「あたしはね、ここよりもう少し北の村で生まれて育って、そこで結婚したんだ」  へえ、と、少し意外で声を落とす。 「けど、何年か前に、亭主と姑を殺しちまった。…わけは訊かないでよね」  何故と思うより早く釘を刺されて、言葉に詰まる。ただ頷いて、続きに耳を傾け。 「そのまま村に残りゃ袋叩きか吊されるだけだ。死んだっていいが、村のやつらに殺されるんじゃ腹の虫が治まんないからさ。鬼にでも食われてやるかって、やけっぱちで峠をのぼったんだ」  思いがけないほど、口を挟む余地のない話で。そうか、と、ただ間の抜けたような相槌を打つしかない。 「食い物も水も持たずに山ン中さまよい歩いて、いよいよ歩けなくなってさ。あたしを迎えに来たのは、鬼じゃなく狼だった」  なるほど、と、思い当たる二人の顔を浮かべながら、頷き。ふふ、と、そこでダイナが笑うのに、眉を上げる。 「ルーだったのさ。あんたの言う通り、ここのやつらはちょっと変わってるよね。盗るもんもなさそうで、見るからに死にに来たようなあたしが、女だったから、女のルーに迎えに来させたんだってさ」 「それは…確かに…」  おぼろげに知れる彼らの役割を考えれば、アギレオでもリーでもいいはずだ。それを、女性を迎えに行くならルーがいいだろうと判断する基準を、彼らは持っているらしい。 「ここにいる連中は、大体そんな感じだね。あたしみたいな人殺しとは限らないが、食い詰めたやつとか、親に捨てられたガキとか、他よりはここの方がマシってやつらだ」 「そうか…」  ヒトがどんな理由で野盗に身を落とすというのか、その詳細な理由までは思い及ばないなりに。そうなって、そうであり続ける経緯は理解した気がして、頷きを重ねる。  食堂の扉を開いて先にダイナを通し、厨房で籠を下ろす。 「したくない話をさせてしまったのなら、すまなかった。だが、まさに聞きたい話を聞けたようだ。ありがとう、ダイナ」 「どういたしまして。キュウリとチシャは晩飯だよ」  踵を返そうとするところに声を掛けられ、思わず頬が緩む。 「分かった。ぜひ寄ってみるとしよう」  ではまた後で、と短く声を交わして、食堂を後にする。  歩き出しながら、ふと、彼はどうだろうかと思いついて、川沿いへと歩みを向けた。
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