1、鬼の出る峠

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1、鬼の出る峠

「お頭ァ!! 馬の足音はエルフだ! エルフの騎馬軍が来る!!」  飛び込んできたしなやかな体つきの男の声に、テーブルを囲んでいた面々がどよめく。  この国は、クリッペンヴァルトと呼ばれている。元々は数千年よりも前、言葉が存在し始めた頃から、その名を冠していたのは国の中央にある広大な森だった。  「言葉を話すもの」と分類される、いわゆる人類の中でも最も古い、エルフ達がその森に住まい、また国の中心となっている。  他の国、あるいは他の大陸でも知られる通り、尖った耳に長身痩躯、魔術をはじめとした不思議な術に長けたこの種族は、基本的に他の「言葉を話すもの」との交流をあまり好まず、森や谷、あるいは平野部に自分たちだけの領域を持っていることがほとんどである。  その中で、クリッペンヴァルトは例外的な国といえる。先代の王はエルフの中では変わり者であり、森をエルフの領域として保ちはしたものの、人間を始めとした他種族がエルフとその森の恩恵に与ろうと周囲に集落や街を築くのを許し、森を侵さぬためのいくつかの約束の代わりに、彼らを守ることすらした。  その結果、個々には卓越した力を持ちながらも、守護地と呼ばれるそれぞれの領域から出ることのないエルフ達の中で、クリッペンヴァルトは際立って強大な国となった。  これは周辺のエルフ国から見れば、他種族と交わる奇妙なエルフ達が力をつけ、いたずらに領土を拡げていく様となり、その心中を騒がせた。  だが、寿命の長いエルフの王の長い統治にも終わりが訪れる。退いた先代王に代わり国を治める、当代のクリッペンヴァルト王が"エルフらしい"エルフであったことで隆盛も落ち着き、この数百年では周辺の国との緊張感も和らぎをみせていた。  このクリッペンヴァルトの西の端近く、もうひとつふたつ、森と山とを越えれば隣国ベスシャッテテスタルのエルフの領域が見えてくるという辺りに、周辺の街と集落から「鬼の出る峠」と恐れられる場所があった。  この鬼の出る峠へと騎馬を歩ませながら、一人の青年が、先を行く同じような背に声を掛ける。 「リナラゴス殿、北の街道を回りましょう」  リナラゴスと呼びかけられた男が、青年の方を振り返りもせず鼻で笑う。 「怖じ気づいたか、ハルカレンディア。鬼が出るなどと、夜を恐れる人間達の迷妄に過ぎぬ。それとも、魔大戦後の生まれには悪鬼魔物の類が恐ろしいか!」  ハッハ!と、呆れるほど快活に笑い飛ばす声に、ハルカレンディアと呼ばれた青年は口をつぐみ、顔を背けてため息をついた。  リナラゴスとハルカレンディアがそれぞれ率いる分隊からなる、この小隊は人数にしておよそ30足らず。戦闘に備えて甲冑を装備してはいるが、内情は偵察未満の現状確認程度だ。物々しく国内を騒がせぬよう上からローブを羽織り、大半の者が砂避けにフードで顔を隠す一団は、一見すれば旅の一行と言い張れなくもないかもしれない。  重要ながら穏やかな類の任務であるには違いない。  だからこそ、と、ハルカレンディアはもう一度、今度は面に出さぬよう腹の内でため息を零す。  己とリナラゴスの連隊からわざわざ分隊を割いて出たこの程度の任務で、つまらぬ損害は避けたい。ここへ至るまでの街と集落の者達が口を揃えて、鬼が出る、誰も生きて帰れないと釘を刺す場所を、近いからとわざわざ通る神経が理解できない。  人々の口に上るからには、鬼でなくとも何かがあるのだろうに。  だが、保守的なエルフの国軍の中でも封建極まる騎士隊にあって、同じ連隊長といえど、若年のハルカレンディアの意見など、リナラゴスが却下すればそれまでだ。  やれやれと肩を落としながら、件の峠が見えてくるのに、自分の部下達に「有事に備えおくように」と伝達だけさせ、不平の一つも零さぬ愛馬の首を撫でて労った。  ハルカレンディアが杞憂を願えども、嫌な予感もこれだけの条件が揃えば当たるに相応しく、切り立った崖の上から騎馬の群れを確認したしなやかな影は、峠へと取って返す。 「お頭ァ!! 馬の足音はエルフだ! エルフの騎馬軍が来る!!」  扉を叩きつけそうに開いて飛び込んできた斥候役の声に、テーブルを囲んでいた面々がどよめく。 「エルフ…!」 「珍しいな。こんな辺鄙なところにエルフか」  クリッペンヴァルトが他国よりもエルフと近しい国であるとはいえ、他種族にとって、しかも森から離れた場所ではその姿を見かけることも珍しい。まさかとざわつく面々の中、一際背の高い男が立ち上がり、牙を剥くよう口角を吊り上げて笑う。 「そいつァいい。おうお前ら! 今日は儲かるぜェッ!」  長身の男の声ひとつで全員が席を立ち上がり、昂然と応じると、めいめいに武器を担いで斥候役が開いた扉へと向かった。  両側を切り立った崖が遮る道へと至り、まさか飛び降りる者もなかろうと見上げるまさにその矢先、ピィッ!と、甲高い音が微かに響き渡り、ハルカレンディアは息を飲む。 「馬を速めろ!」  隊の速度は先を行くリナラゴスの手綱だが、後続のハルカレンディア達が足を早めれば、必然的に、押されるようにして彼らの馬も急がざるを得ない。  文句でも言おうとしたか、リナラゴスが振り返るのが見える視界に細い影が斜めに降って、風を切る音に目を剥く。聞き慣れた音だ、確認するまでもない。 「矢だ! 盾を掲げろ! 一気に抜ける!」  己の声に一斉に盾を掲げて甲冑の鳴る音が響き、その間を縫うようリナラゴスの怒鳴り声が飛ぶ。既に馬は駆け足だ。 「武器を取れ!」  リナラゴスの声に、己も弓を抜いて矢を指に絡め構えた。バラバラと屋根に落ちる雨のような音を立て、矢が降る。そのおおよその出処へと向け己が放つ一矢に、前後の弓手が次々に後へと続き、崖の上からは遠く悲鳴が聞こえる。  だが、次がどこから来るか分からんぞ!と、続けて警戒を促す声に、別の声が重なる。 「杖と武器無しからだ!」  咄嗟に辺りを見回すが、山と崖に反響して、声の出所が判じにくい。どこから来る、と、今何を言ったと、頭を巡らす先にはもう、後方から悲鳴が聞こえている。 「魔術師を狙ってる!!」  どちらの隊でも後方へ据える、数は少ないが火力と距離の要になる魔術師の武器を示した声に、こちらの戦力を把握しているのか、と、背にゾクリと悪寒が走る。魔物の中でも仇敵といえるオークでも出るかと案じた、予想の最悪をすら越えている。  切れ目でもあるのか、前方を塞ぐように騎馬の人影が数人躍り出るのを見たと同時に、視界の端を過ぎった影に迷う間もなく矢を放つ。矢筋を逃れた先に、後に、ほとんど垂直の崖の僅かな段差を頼りに壁駆けるようにして馬より低く走り込む幾つかの影を見る。 「下だ! 小型の影!」  馬の立てる砂煙にちらつく影に向けて矢を放つ己や、恐らく前方で交戦しているリナラゴスの声に兵達は抜かりなく反応しているが、影が過ぎるたび悲鳴が上がり馬から落とされる者がある。 「ッ!!」  いななきと共に馬が後ろ足で立ち上がり、手綱を取り直すのに一瞬目が離れる。前衛が次々に崩され、馬の列が淀む。  押し込むしかない、と、前後の交戦と残っている者を確かめ、道の先を振り返る。 「馬を止めるなッ!! ギリギリまで崖に寄せて挟み撃ちを避けろッ! グウェニアッ、リネイセルッ、二手に分かれて崖の両側へ! 道を作れッ!!」  己が中州となる形で二手に分かれて先を目指す兵達を、後ろから追う影に次々と矢を放つ。恐ろしく素早い、が、最高速度を保ち続けるものには目が慣れる。壁を駆け上がって馬上の兵に飛び掛かろうとした四足の影を射抜き、己の矢が影を宙に縫い止め、それが瞬く間に姿を変えてヒト型を取るのに目を剥く。敵が、握る刃で空を切りながら地に落ちるのにとどめの矢を放ち、だがその行く先を見守る間はない。 「獣人…!」  時を競うように味方の矢と剣が敵を、敵の牙と刃が味方を削っていく。 「弓のある者は私に背を向けて矢を番えよッ! 円陣小さく! くるぞ! ――放てッ!!」  獣人らしき幾つかの影が怯んだ隙を狙って弓手をまとめ、飛び掛かるのに間合いを合わせて打ち落とす。何人いるんだ、と、背に嫌な汗が伝う。 「交戦粘るな! 打った者は先へ! はし、」  挟み撃ちを避けるため、後方へ取り付いた敵と戦う兵達へと怒鳴る、声も半ばで背後から上がる悲鳴に振り返り、そこに広がる光景に言葉通り総毛立つ。  向かう道の先に、立っている者はいない。ただ一人、馬から降りて悠々と歩く長身の男以外には。  簡素な革鎧を身に着け、道を塞いでいると己に示して見せるように広げられた両手が握る、刃幅の広い曲刀。褐色の肌の笑う口許から覗く牙と、頭部には牛を思わせる一対の角。子供だましのお伽話でしか聞いたことのない通りの、その姿。 「鬼…!?」  蹄の音が背後から迫る。馬を止めるなと自分が指示を出したからだ。 「待てッ!! そいつに近付くなッ!!」 「なアに驚いてやがる、――ここが鬼の出る峠と知ってのことかアッ!!」  二手に分かれて駆け抜けながらに、一人立つ敵へ両側から斬りかかる兵が、己の声に迷いなく離れようと馬の鼻先を変えるのが、一瞬遅い。スローモーションのように見える。  長い腕から舞うようにしなる曲刀の餌食に、馬からどうッと落ちる兵を見、鬼の演説を待つ義理はない。背の矢筒から抜いた矢を番え、引き絞って放つのに一秒も要らない。  地に突き刺すよう下向けた曲刀が何を貫いたか、強く歯噛みする。赤い水筋を引く刃を引き上げ、おっと、と、軽い声ひとつで矢筋をかわす鬼に第二矢を射かけながら、次の蹄の音を振り返らず怒鳴りあげる。 「二手に分かれあいつから距離を取れ! 刀の届く範囲を避けろ!!」 「へッ、この狭い崖道でか、」  笑う鬼から距離を取るよう二手に分かれる兵に、やはり舞うような一閃が向かう。だが大振りの太刀筋を駆けながら見定める騎馬の二人は、それぞれに鐙を蹴って跳び上がり、片や宙で転回し、片や崖面を駆け、共に鬼をかわしてまた馬に跨がる。  安堵の息すら震えながら、鬼と対峙するよう己も馬から降りる。威張るだけのことはある、剣豪で名の知られたリナラゴスを崩した化け物と、どこまで渡り合えるか。  身構える間を待たず駆け込んでくる鬼の、図体に似合わぬ素早さと、矢速を競って続け様に、射かけに射かける。 「見えてる弓なんぞ当たるかッ!」  せせら笑う鬼に、後ろから次の蹄の音に先んじて、矢の音が己を追い抜く。咄嗟に叩き落とす曲刀は速いが、己が放った矢が革鎧の間を縫って鬼の肩口に立つ。  弓に二本矢を番え、敢えて照準の狂う射方で矢を放つ。構え向きを見て避け方を決めているらしい鬼が一瞬迷い、一本が逸れ、一本がその腕を捉える。 「援護は要らんッ!! 一人でも多くここを抜けろッ!!」  怒鳴る己に駆ける馬身で応え、次の兵が二人の両脇をまた抜けていく。 「へッ、殊勝な心掛けだが、そりゃ成らねえぜ」 「!?」  笑い、曲刀を振り上げる鬼の向こうに閃光がある。剣を抜き、受け止める太刀筋が重い。外す目線で知る、抜けるべき道の先、ようやく確認できる遠さに、もう一人立っている。フードで顔を隠す長いローブを纏って、杖を掲げる何者か。 「魔術師…!!」  わななく唇を噛みながら、受けた剣の下を潜るように飛び来る第二刃を飛び退いてかわす。地を蹴り打って出る己の剣を、曲刀が弾く。弾かれた剣を宙で巡らせ打ち込み直し、押さえ込もうと上から落とされる刃を両手で受ける。 「鬼…ッ!」 「あアン?」  後方から来る最後の蹄の音が続くが、数えるまでもない。倒れた数からいって、残りの兵は僅かだ。  特攻隊長か頭領かはともかく、恐らく一番の使い手である筈のこの男の装備、獣人達、鬼の出る峠の、考えてみればありふれたからくり。恐らくは、と、当たりをつける。 「お前達の目的は荷だろう! 全て置いていってもいい、一人でも通せ…!」 「全て置いてくも何も、ってえ、とこだが」  鼻で笑う鬼に力尽くで跳ね飛ばされ、地に踏み堪える足が軌線すら描く。 「バカかお前、お前らの持ってるもんで、何が一番高価えんだ、よッ!」  刀が振り下ろされるのに間を合わせて立ち上がり、その勢いを借りて第一刀を振り払うも、先と全く同じ動きの二刀目が、明らかに避けきれない。 「あっ、ああ、…ッ!」  最も価値があるとすれば、エルフの鍛えた甲冑と武器だ。商隊でもない自分たちの僅かな路銀など話になる筈がない。 「お言葉に甘えて、残らずいただくぜ」  甲冑ごと肋骨を叩き折ったような痛みと、鬼が振り上げ直す曲刀。視界を遮る巨躯の向こうに、魔術師が放つ閃光を見た。
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