23、夜明けの途

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23、夜明けの途

 眠っているアギレオの顔を見てから、自分が目を開いたことに、それに、今まで眠っていたことに気がつく。  眠り直そうと身を寄せかけて、身体があちこち痛むのに瞬いて。  久し振りにずいぶん酷く扱われたような、そうではなく何か、これまで知らなかった何かをまた垣間見たような、薄いざわつきが遠くにある。  目を閉じて少し待ち、覚めてしまった頭に息をつきながら、軋む身を起こした。  夜が明ける前に水を浴びたい。  森の向こうに薄明の色を隠し、夜明け前の束の間にまだ十分に瞬く星々を背に、衣服を脱いで川の水に足を入れる。  清涼な水が弛んだ神経を引き締めるようで心地良く、水深の深くなるところまで足を進め、息をつく。  掌に水をすくって肌にかけては擦り、身に纏わるものを洗い流していく。首を擦り、肩を流し、腕をさすって、肌を歪する違和感に目を落とす。  腕にも、胸にも、見えないが腿にも脛にも残っている跡がある。 「――…」  言い表しがたい。  歓びとも快楽とも言い難い。不快ではないが不安ではある。刻みつけられる傷跡から歪んでいく感覚に少し、名残惜しさに似たさみしさがある。  ザブッと水中に身を沈めて目を閉じる。頭の天辺から足の先まで清浄な水に呑み込まれて、呼吸さえ遮られる動じられなさが心安い。  耳を塞がれ、呼吸を遮られ、聞き慣れぬ水の流れのやけに大きな音に包まれて、狭く狭く、己の身ひとつであることが快い。  息を止めておられず川底に足をついて身を起こし、プハと口を開いて肺に空気を入れる。髪から肌から、水滴が転がって落ちていく。  止めていた呼吸を戻して補うのに胸を波打たせながら、髪を掻き上げ絞る。身体から滴る水をそのままに任せながら、髪は何度か繰り返して絞り、川から上がる。  川縁で身体を拭い、髪を拭い、衣服を身に着けながらふと、意識をくすぐった音に振り返る。虫の声に入れ替わり、時折聞こえる鳥の声に混じるような。ヒュィ、ヒュィ、ヒュィ、と、三度繰り返すその音は遠く、けれど、耳に馴染みがある。  仲間を呼ぶ鳥が立てそうなそのさえずりに、駆け出す。  もうずいぶん昔、騎士隊の中でも幼年組と呼ばれた自分たち、親のない子らで兄弟のように育った仲間達が、大人に隠れていたずらや冒険をするために決めたその合図。  他の者に捉えられるのを恐れてだろう、長く間をおいてから、また繰り返される口笛の音。木々に反響して曖昧ながら、音の方向に見当をつけて走る足を速める。  ヒュィ、ヒュィ、ヒュィ、と、再び聞こえた音はもう、そう遠くはない。  突っ切るように森へと踏み込めば、木立と岩の陰にするよう身を低くしている後ろ姿が見え、少し足が緩む。まだ夜が明けていない、獣人達の時間だ。  相変わらず、声を掛けるよりも彼らが振り返る方が早い。それでも構わず、その脇を抜け際、身を潜めているリーとリューに頷く。 「大丈夫だ…! 敵ではない…!」  声をひそめて放り、二人の間を駆け抜けて、口笛の主を探す。追い返さなくては。 「アッ!?」 「ッ!? 待て、ハル…ッ!」  声を抑える二人に振り返り、もう一度頷く。振り向いた視界に、木々の間にチラつく砦の灯りが見え、その向こうに薄明が夜空を染め変え始めているのが分かる。  真っ直ぐに向かってはまずいな、と、大きく迂回して砦から距離を取るようにしながら、次の音を待つ。もう、すぐ近くの筈だ。  また三度の口笛が響く、二度目にはもう、その主の背を見つける。  破るように茂みを抜けるのに、ほとんど同時に振り返る短い金髪の。 「グレアディル…!」 「ハルカレンディア…!」  ほんの数ヶ月前に見た顔だというのに、胸が張り裂けそうに懐かしい。  いつ出会ったのかも知らぬほど、幼い頃から共に育ち、兄弟よりもきっと近しい。彼が満面に綻ぶように笑みを浮かべて腕を開くのに、迷わず足を寄せて互いの背を抱き合う。  抱き締め合って、確かめるように互いの背と肩を軽く掌で打ち、ようやく身を離す。 「やはりお前だったか、ハルカレンディア…!」  言葉を返そうとしてふと、微かに耳に捉える、葉と草を掻き分けるごく微かな音。そうだ、どちらのためにも早く帰さなくては、と、息を抜き。 「どういうことだ。何故ここへ?」  問えば、腰に手をやり、呆れたように頭を振るグレアディルに瞬く。 「どういうことだはこっちの台詞だ、ハルカレンディア。お前が死んだと報せが入って、私達がどれほど…」  ああ…、と、知らず湧く笑みをそれでも抑えて、頷く。  だが、と勢いよく肩に手を置かれ、眉を上げて。 「あの矢筋はお前に違いないと思ったよ。隊が街道沿いの街で馬を休めることになってな、夜明けまでが機だろうと、戻ってきたんだ」 「そうか…」  言葉を選ぼうと置く間にグレアディルが首を捻り、頷いて返す。 「ありがとう。心配を掛けてすまなかった。だが、私はもう王都へは戻らない」  開き掛けた口を、けれど次の言葉を待つと示して閉じてくれる友に、もう一度頷き。 「本当にすまない。だがもう、…ハルカレンディアは死んだと思ってくれ」  ギリ、と、音が目に見えそうなほど強く歯噛みする彼に、目を伏せ。 「…わけは?」 「言えない」  躊躇いのない即答に、少し長く間を置いて大きなため息が耳に届く。顔を上げて、唇を噛んでいるグレアディルの顔を見つめ。 「…まったくお前は。…昔から何をしでかすか分からんやつだったが、…まったく」  肩を落とし、ぼやくような声に、少し苦く笑って肩を竦め。 「……すまない」 「本当にそれでいいのか」 「ああ」  迷う胸の内など明かさぬ方がいいと思う薄情を腹に押し込め、迷いなどないように頷く。 「…分かった。言い出したら聞かないからな、お前は」 「まさか。そんなことはないだろう」  言いがかりだ、と思わず笑ってしまう。 「ああ…、なんてやつだ。言ってやりたいことは山ほどあるのに」  再び開かれる腕に、応じてもう一度固く抱き合う。振り返らなくとも判じられる、刻々と変わっていく空の色が別れを急かして。 「――ハルカレンディア。どうか、元気で」 「……お前も、グレアディル」  きちんと、信じ、理解してくれた。変わらぬその感覚に深く胸を撫で下ろしながら、離れていく背を見えなくなるまで見送る。  振り返り、互いの背同士が離れていくのを思い知りながら、歩き出す。エルフよりも足音を立てない二人にも、脅威が去ったことを説明しなくてはと。  けれど、腕組みしたリーの苦虫を噛み潰したような顔を見て、安堵が軋み、罅入る。  それでも、口を開く。言うべきことを、言わなくてはならない。 「赤子の頃から兄弟同然に育った男だ。心配ない、忘れると約束してくれた」 「なー、リー、」 「黙ってろ。いや、もう帰って寝ちまえ、リュー」 「……なー、お頭がいいって言ったらさー、」 「いいから行け」  ちぇーと不服そうに砦に戻っていくリューの姿を目でも追えない。  じっとこちらを見つめたままのリーの、解けぬ眉間の皺に、失意が広がっていく。  ああ。 「ハル……」 「彼は誰にも何も話さない。リー」  開く口を見ながら、嘆息を腹の内に隠す。  しくじったのだ。 「信じる信じないを当てにすることはできない」  寄越されるリーの言葉に、そうだったな、と内心は項垂れ、それでも、顔は下げない。  失望はもう、充分に満ちている。  これほどの目に遭わされて、それでも諦めずにきた。どこに向かうとも知れず、いつかどこに向かうかくらいは見えぬかと、どうにか少しでも状況を善くはできないかと、その時その時、できるだけのことをしてきたというのに。 「アギレオに黙っているわけにはいかない」 「分かった」  踵を返すリーの後について歩き出しながら、自棄めいた息は再び、腹に隠す。  また、鬼の沙汰というわけか。 「じゃあ、今すぐそのエルフを追いかけて殺してこい」  半裸で寝台に腰掛け、面倒臭いとでもいうように首を回すアギレオの顔を、たちまちに殴りつけてやりたいのを堪え、額を押さえる。  強く歯噛みするのを隠して引き結んだ唇を、大きく息をついて開き。 「その必要はない。彼は誰にも何も言わない」  リーに告げたのと同じ言葉を繰り返し、同じ言葉を繰り返すしかないことに、内心唸る。 「誰にも言わねえかどうかは、お前じゃなくそいつが決めることだろう」 「馬鹿な…ッ」  抗議しかけて、けれど、アギレオの言い様で理解してしまう。信じることが確証にはならないという感覚を。  間を取るように髪を掻く姿を見下ろし、上がってくる顔の表情は読めず、奥歯を食い締める。 「決まりだな。これで終わりだ」 「っ、ああ畜生…! 悪党が…!」  地団駄を踏みたいのを辛うじて堪え、握り締める拳を額に当てて息を宥める。  冷静に、冷静にならなくてはと言い聞かせても、心は波立ち。それから、抗いがたい諦めが居座る。 「二度目はねえと言ったぜ」  殺されるのか。こんな下らない、  そう思いかけて、ふと。胸を緩める。  下らなくはない。死んだはずの命を長らえて、最期は肉親同然の友にも別れを告げた。  なんだ、上等ではないか、と。顔を上げてアギレオの顔を見る。  そうでなければ、アギレオもリーも、砦の者を全て殺して、今度こそ逃げ出すか。ケレブシアもミーナもダイナも誰も彼も殺してしまえば。  戯れにも満たない刹那の考えに、自らを嘲笑う。  できないのだ、己には。どちらにしても死ぬだろう。それなら、わざわざ誰かを道連れになどする必要はない。 「リー、馬引いてこい。青毛に白い足のやつだ」 「あ? ああ、分かった」  傍らに黙って控えていたリーに掛けられる声を聞けば、一度に血の気が引き。リーが出ていった扉の閉じる音に青褪める。馬を使う処刑はいくらもあるが。 「アギレオ…! やめてくれ、スリオンは賢い馬だ。あまり酷いものを見せないでくれ…」 「…ア?」  ああそうだな。と、立ち上がりながら素っ気なく寄越される応に、背筋が冷たくなる。 「アギレオ…!」 「分かった分かった。喚くなよ、うるせえな」  収納を探って包みを抱える背を見ながら、油断すると暗くなる視界に少し頭を振る。来い、と、顎をしゃくられ、震えそうな足を堪えて後に従う。  東側の森を少し分け入れば、巧妙に出入り口の隠された道が開く。  先に待っていたリーが引き綱を引く、鞍を乗せられたスリオンを見れば、何よりも愛馬の行く末が案じられて、胸が痛む。  殺されることなど、どうということもない。ただ、これ以上奪われたくない。 「そこで止まれ」  声に押し止められ、傍らになる愛馬の首を抱き締める。聞こえるアギレオの舌打ちなど、もう構う価値もないのだ。 「!?」  裾が捲られ足首が涼しくなる感覚に、勢い任せにそちらを振り返る。  力が漲り、己を取り戻す。本来の自分がどういうものであったか思い出す、という、不可思議な感覚。  外した足枷を無造作に放り出すアギレオを目で追えば、一度起き上がった背が不意に屈み、途端に自分の身体が宙に浮いて目を剥く。 「な――ッ!?」  荷物のように抱え上げられて、鞍の上に放り出されるのに唖然とする。とてもではないが、軽い身体ではない。 「お前の居場所はここにはねえよ。二度とその面見せんな」 「なんだと…?」 「エルフの国でもどこでも帰りゃいい」 「!? 帰るところなどない…!」 「知らねえよ」  投げ寄越される包みを咄嗟に受け取り、手綱を掴む間もない。「行け、スリオン」と声を掛けて軽く肩を叩かれ、馬が歩み出す。  馬の名を呼んで正しく言葉で指示し従わせる思いがけない仕草に驚いて、その下のごちゃごちゃとした混乱が尚一層まとまらない。  馬の鼻先を戻すこと自体は、容易いと解っている。  けれど、選択肢はないと告げられたことは、それよりも尚。  愛馬に行先を教えてやるのも忘れ、道なりに木々の間を抜けて進んでいく馬の背の上で、ただ呆然と、混乱を収めることもままならず長い間揺られたままでいた。  ハルカレンディアを乗せた馬の姿が見えなくなるのも待たず、背を向けて砦へと戻るアギレオの後につきながら、リーもまた、思いもよらないとでもいうべき頭領の措置に、口を開いては言葉を探しあぐねてまた閉じる。 「アギレオ、」 「ああ」  振り向くどころか足すら止めぬアギレオに、人狼の足は付き従うのに不自由はないが。 「なんだ、どうした…」 「何ってえ、」  足を止め振り返るアギレオの顔は、ハルカレンディアを伴って家を訪れた時と変わりなく、ただ厄介そうにしているくらいで。 「いざって時に背中射たれちゃ堪んねえからな」  肩を竦めてまた歩き出す長身の歩幅に、一拍遅れてまた追う。 「それは、…。…だが、あいつは、」 「軍から斥候に来たエルフを殺せねえってな、そういうことだろ」 「それは、……。…そうか。それはそうだが」 「お前、あいつが戻ったら殺す気でいろよ。そういうことだ」 「っ、……。アギレオ、なら、なんで」 「もう同じことだろうが。リー、」  もう一度足を止めて振り返るアギレオが眉を上げ、それから、浮かべる笑みが一瞬歪むのに、琥珀の目が瞠られる。 「この話はこれで終いだ」  また、顔を背けて彼自身の家の方へと歩き出していく褐色の背を、今度は追えない。 「アギレオ……」 「それ以上言うんじゃねえよ」  今度は声にすら含まれる苦笑いに、しばし、離れていく距離をどうにもできずに、開くままに任せて立ち尽くした。
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