160人が本棚に入れています
本棚に追加
24、矢のない弓
自由だ、と、顔を上げて、木々に隠されぬ空を見上げた。
街道を歩ませる馬の背に揺られながら、力の入らぬ身体を支えるように手先で手綱を握る。身も心も虚ろで、喜ぶべき解放など少しも沁みてこない。
どうしようかと、考え始めるたび思考は解けて上手くその先へ及ばない。
どうしようか、これからどうしようかと取り留めもなく、それでも他にできることもなく、遠くなった現実を追う。
「…そうだな。まずは、どこへ行くか、か」
先へ進まぬ騎手の心が伝わるのだろう、時折足を休めて道草を食ってしまう愛馬の首を撫で、馬と己に言って聞かせるよう頬を和らげる。
手綱を取り直した途端にずり落ちそうになった膝の上の荷を支えてから、それを初めて思い出す。ようやく調子良く歩み始めた馬の上で、手綱から片手を離し、最後に投げ寄越された布の包みを解いて呆然とする。
「私の弓……何故…」
境の森への任務に限らず、軍務であれば常に携えていた、あまりにも覚えのあるものだ。装飾を最小限に留め、かなりうるさく注文をつけて特別に誂えた、自分の弓を見間違いようもない。
「何故だ、アギレオ……」
預けられ、そのまま放り出された思いが知れず、肩の裏に圧し掛かるような憂いが、重い。
軍が立ち寄りそうな大きな街を避け、小さな村に辿り着く頃には、日が暮れ始めていた。
宿を兼ねる酒場に馬を預け、賑やかな声達に思い出すものがあって少し息を零しながら、空いてるところに座れと案内された隅の席に腰掛ける。
何にする?と、尋ねる女将に、エールをと答え。息をつきかけて青ざめる。
「ッ!! すまない、待ってくれ!!」
はいよと景気の良い声を返して向けられた背が、何事かと振り返るのに、恥じ入って頭を抱える。
「……すまない……金を持っていないのを忘れていた……」
「へえ!?」
目を瞠る女将に頷き、間を置いて盛大に浴びせられる笑い声に肩を縮めてから、立ち上がる。
「…失礼した。またいつか、金を持っている時に詫びに来よう…」
「ああ、ちょっとあんた!」
呼び止められ、足を止めれば、今し方収めた椅子を引かれて首を捻り。
「エールが飲みたいんだろう、エルフの旦那。今日はいい日だ、特別に一杯だけならおごってやるよ」
「いや、しかし…」
「一杯だけだよ! いいから飲んでいきなって!」
上機嫌な彼女の様子に、そうか、と胸を緩めて息をつく。彼女の「いい日」に水を差すよりは好意を受けるかと、礼を告げて席へと戻り。
エルフでもそんなことがあるんだねえ、と改めて笑われれば、失礼を詫びて礼を重ねながら、己の愚かさに額を押さえざるを得ない。
また彼女がテーブルを背にしていくのに、羞恥で弾みそうな息を大きく抜いて、済んでしまった失態を諦める。
布に覆ったまま背負っていた弓を床に下ろそうとして、膝の上に置き直す。矢筒も矢もない、金もない。なんとかしなくてはな、と、思い巡らせ。
なんとでもなるだろう、狩りでも人足でも便利屋でもなんでもいい、何でもできる。
けれど。何のために。
これまではどうやって生きていたのだったかと、目を伏せて振り返れば、どうしてもこのひと月足らずのことが思い出されて、ため息も出ない。
陥れられた闇から這い出そうと足掻いて、そして。野盗になろうとしていたのか。なれると思っていたのか。あまりにも愚かだ。
お前の居場所はないと言ったアギレオの声を思い出す。
いざ軍と事を構えることになればどうだ、エルフを殺せはしないのだろうと突きつけられた。分からないと思う。だが、そうかもしれない。
けれど、軍を背に負って砦の者達を殺すこともできはしない。
自らの愚かさの重さを噛み締めながら、その底の深いところで、囁く別の思いも、
「お待ち! せいぜい味わってゆっくり飲んどくれ」
掛けられた声と荒っぽく置かれたカップにハッと顔を上げ、笑顔の女将に頷いて、笑みと礼を返す。
「ありがとう。本当に、この恩は忘れない」
エルフは大袈裟だねえと笑いながら、また忙しなくテーブルを巡りに戻る背を少し見送り、息を抜く。
何故、アギレオは自分を砦から追ったのか。砦の頭領として、という立ち位置を曲げることのなかった彼を思えば、軍と敵対の兆しが見えてきた今、こんなどちらつかずの自分は、殺してしまうのが最も安全なのではないだろうか。
信頼をよりどころとしないというなら、己を解き放てば密告の危険を考えないわけにはいかないはずだ。
膝の上に抱いたままの包み越し、弓を撫でながら、カップを取り上げてエールを飲む。
エルフの武器と甲冑が金になるという理由で、危険を承知で軍を襲い、実際に、食堂の武器庫にもそれらしきものは残っておらず、馬まで売ったと話していたのに。
柔らかな発泡が口と喉を潤すのに、また息をついて。
あの男がこの弓だけを売らず、自分を殺さず解放したのは。そう思うのは、自惚れているだろうか。
だがそれももう、寄る辺も行き場もない。この考えが間違っていないのなら、確かに、あの場所に自分がいてはならないのだ。却って他の者を危険にすら晒しかねない。
「よおエルフの旦那! 辛気臭えツラだな!」
「!?」
勢いよく背を叩かれ、中身の跳ねそうなカップを慌てて支える。何事かと、知らず俯いていた顔を上げれば、ずいぶん酔っているらしい赤い顔の男が笑いながらドカッと隣に腰を下ろす。
「へっへっへっ…エルフにゃいい話でもねえってところだなあ?」
「…どういうことだ…?」
首を捻るのに、へへへ、と含むような笑いを向けられ、またエールを飲み直しながら、言わんとするところが続くかと顔を向けて待ち。
「格好つけやがってえ、このぉ、これだからエルフはよう」
「すまない、本当に何の話だか見当がつかないのだが…」
へえ!と、驚いた顔をしてみせられ、どんな意図かはともかく、再び首を傾げる。
「王様だよぉ! 新しい王様はエルフ以外にも寛大らしいってえ、そこでもここでも祝ってるが、あんたらエルフにゃ嬉しい話でもねえんだろう?」
「……待て。…待て、どういうことだ。新しい王とはなんだ…」
カップを置き、目を剥いて酔漢の顔を見つめてしまう。
「…あン? おいおい、あんたほんとに知らねえのか? エルフなのに?」
「つい今朝まで山に籠もっていたんだ。詳しく聞かせてくれ」
食いつくように身を乗り出すのに、おいおい、と掌を向けられ、我に返って掛け直す。なんだよ、と、多少興を削がれたような赤ら顔を、けれどまたすぐ嬉しげに綻ばせる男を促して頷き。
「詳しくったって、こんな田舎じゃ、そんだけ分かってるだけだがよ。王様が交代して、新しい王様はエルフ以外も大事にしてくれるらしいぞってえ」
「何故王が交代されたのだ。何があったか知っているだろうか?」
「さあ、年だからって聞いたぜ?」
「そんな…」
エルフなのだ、高齢を理由に退位するはずがない。だが、それを彼に訴えても仕方がない。たちまち頭に巡る不審と思案を押し込むように、口許を押さえて一度息を整え。
「どなたが次の王になられたのだ?」
「ええ~? エルフの名前は覚えにくいんだよなあ。なんとかって、名前の…キラキラした…。あっ、あーそうだそうだ。王様が年食っちまったから、そのまんま、一番上の王子が王様になったんだよ。だから何のケンカも騒ぎもなかったってえ」
「…!! それは本当か…!」
ガタッと、思わず椅子を跳ね飛ばすように立ち上がってしまって、倒しそうになった椅子を自分で慌てて支える。
「黄金公ラウレオルン…! まことに、あの方が、殿下が王に…!?」
崩れ落ちるように椅子に尻を落とし、あまりのことに頭を抱える。
「あー、そうそうそうだ。そんな名前だよ、黄金公、黄金公。なんだよ、ヤベエやつなのか?」
声に跳ねるように顔を上げ、まさかと首を振って。自然と笑みがこぼれてしまう。そうか、と、そこここで楽しげに酒を飲む人間達を見渡し、「いい日」だと女将が言ったのを思い出す。
「とんでもない。素晴らしい方だ…。そうか…」
彼の方を思い浮かべるだけでため息が出るほどに。
「へえ。あんた新しい王様のこと知ってんのか」
顔を上げ、大きく頷きながらまたカップを傾ける。
「もちろんだ。殿下を存じ上げないエルフなどいないが、私は親を亡くしてあの方に拾われたのだ」
「へえ! 王子に! そりゃあ確かにいい王子だなあ」
その通りだと、酔漢を相手に彼の方の素晴らしさを語りながら、けれど。王都には戻れぬ、身を落とした我が身の情けなさに肩が下がる。
情けない。恩人が、育ての親が王になったというのに。
消沈しかけて、否と。カップを取り上げエールを飲み干し。もう他の酔客と話し始めている男を後目に立ち上がり、先ほどの女将を探す。
「女将、エールをご馳走になった上で図々しく申し訳ないのだが。馬小屋を一晩貸していただけないだろうか。明朝発つのに、馬を休ませたいのだ」
「うん? ああ、もう客の増える時間でもないしね。構わないよ」
「ありがたい。重ね重ねの厚意、恩に着る」
辞儀を捧げるのにまた笑う声に背を向け、店を後にする。あんたはどうすんだい!と掛けられる声に、馬の隣で寝ると答えれば、何事か言われているが、不都合というわけではないのだけ聞いて、後は耳にも入らない。
帰れないなどと、馬鹿馬鹿しい。首を括られてでも、親に祝いのひとつも告げられなくてどうするのか。
愛馬を預けた馬小屋で敷き藁に身を横たえ、蹴られぬよう隅に身を縮めれば、スリオンが懐くように膝を折って身を下げるのに、笑って鼻先を撫でてやる。
頭に擦り寄せられる吐息を聞きながら、夢も見ぬほどぐっすりと眠った。
最初のコメントを投稿しよう!