4、境の森

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4、境の森

 鬼ではなく別の男に、頭からザバザバ水を浴びせられて、少し気分がよくなる。水だらけの身体を拭いもせずに頭からローブを被せられ、前を留める。  引きずられるように階段を上がり、一つ目の扉を潜って、急に身が軽くなるような感覚よりも、そこが設えた牢などではなく、人家らしい様子なのに驚く。掴まれた腕をそのままに室内を見回せば、小さな家だが、最近まで使われていた気配を感じる。肩越しに後ろを振り返り、下り階段へと続く、今は閉じられた扉を見る。牢ではなく、倉庫であったのかもしれない。  少し勢いよく扉の開く音に顔を戻し、恐らく外に続いている扉から入ってきた男の、灰色の髪を見上げる。  隣の男も、灰髪の男も、自分も一言も喋らない。ただ荷物のように掴んだ腕を引き渡されて、今度は灰髪に引かれて歩く。それほどの速さではないが、枷が重くて足が少しもつれ。けれど、身体は軽い。後にした家から離れるほど楽になっていくのに、足を運びながら思わず振り返る。  既に暮れかけの陽は向こうだ。森へと続くのだろう木立の傍を通り抜けながら、背に遠くなっていく木々に囲まれるよう、人家に灯りが点り始めるのを見る。 「おい、あまりキョロキョロするな。見たものが増えれば殺される理由が増えると思え」 「ああ、そうか。すまない」  正体を"知る者がいない"鬼の峠なのだったと頷く。灰髪が振り返り、何も言わずにまた振り向き直すのに、少し首を捻る。 「お前が見張りでついてくるのか」  早足に、家から大分離れてきた。歩いていくと少し遠いな、と、入り日の方角から判じて境の森がある方に目を遣り。 「そうでもある」  鸚鵡返しに問いそうになった口を、閉じる。獣道のようだった足元が少し開ける先に、数頭の馬と、それに乗る人影。近付いていけば、すぐに目につく例の鬼と、覚えのない顔が二人、相変わらず顔を隠したローブが一人。あの魔術師だろうか、と、上げようとする視界に自分が被っているフードの端が見えて、そうとも限らないかと思い直す。今の自分の姿も、傍目には同じようにしか見えないだろう。 「遅えな、どうした」 「こいつの足が遅い」  馬の数が6頭、乗っているのは4人、と数えているところに、こいつ、と顎で示され、頷く。少なくとも鬼と、もしかしたら灰髪の男も、その理由は知っているかもしれない。ああ…、と、短い間思案げにこちらを見てから、鬼が肩を竦める。 「まあいいか。乗れ」  顎をしゃくる先を見て、瞬く。灰髪の男と自分で、馬と人の数は合うが。 「心配しなくとも、お前が逃げようとしたところで、二歩で首と胴がお別れだ。縄で引きずって欲しいならそれでも構わんが」 「分かった」  灰髪の男に促されて頷き、鞍上へ跨がった。  次第に高くなる月が、木々の間から時折覗く。  彼らの道なのだろう、生い茂る木が退けられ、馬二頭を並べて擦り抜けられる経路もだが、それを月明かりで早足に進める機動力に感心する。夜明けに発てば日暮れ前には着くだろう境の森までの距離を、夜駆けで抜ければ逆に、陽のある時間に森へ入れる。  休憩はどうするのかと見守っていれば、馬の足を緩め、どうやら歩ませながら馬上で休むらしい。想像した、というほどの間もなかったが、印象よりはずっと明敏な者達であるらしい。  先導役を務める前の二頭の男達が、小声で何か話している。くだけた気配と寛いだ様子をみれば、世間話だろうか。目だけで振り返る隣の鬼は一言も喋らず、背後の二人からも声は聞こえてこない。  気詰まり未満の淡い緊張感もあれど、行軍自体は慣れている。これで務めが果たせれば心置きなく死ねるなと、ふと思う心安さが、それなりには重い。  疲労すら感じないと思えるほど、おもりをつけられた手首足首以外には力が漲っている。森へと踏み入れば尚心地良く、馬から降りて、ハルカレンディアは大きく息をついた。 「さてと。この辺りにゃ居ねえようだな」  隠すように馬を留める指示している鬼の声に頷き、辺りを見回す。人の手が入らない境の森には馬の駆ける道はなく、歩くにしても僅かな獣道ばかりだ。 「一回りして誰もいなければ、それでいい」 「勝手に歩くんじゃねえ。突き刺すぞ」  歩き始めるハルカレンディアに呆れたような声を掛ける鬼を追い抜き、灰髪が先に刃の届く距離に身を置く。 「いたらどうするんだ」  投げかけられる疑問にフードの下で頷きながら、ハルカレンディアは隈無く目を凝らして回る。 「警告して追い返すだけだ」  警告ねえ、と、後ろから聞こえる声に、浅く肩を竦めた。無論武器一つ持たぬどころか、ローブの下は全裸ですらある。男達は少し目配せを交わし、各々の武器を確かめるだけはしておき。 「お。なあ、アレかな?」  後についていたしなやかな体つきの男が指を差すのに、全員の視線がそちらに集まる。大分遠いが、木々の間に見え隠れする、長衣が数人。  ハルカレンディアがどうするかと、振り返るめいめいに目を剥く。  聞き慣れぬ短い言葉を唱えるや、その両手に光を纏った弓と矢が現れる。誰が口を開くよりも速く、それが深く引き絞られ、放たれた。 「てめッ」 「魔法弓か」 「アギレオ!」 「げっ、気づかれた」 「当たり前だ…!」  秒も待たずそれぞれの口をつく声は高くなく、さらにひそめるよう、散れ!と命じられると同時には全員が別々の方向へと身を隠す。  被せるように魔術の衝撃波が矢に似た鋭さで打ち返されても、ハルカレンディアだけが一歩も退かない。展開する手勢が姿も見せぬ速さでそれぞれに位置取るのに、草葉の音が走る。 「ここはクリッペンヴァルトの森だ! 立ち去れ、谷のエルフ!」 「おいおい…警告って…」  身を低め、ため息をつく鬼の傍に同じく屈み、ローブの魔術師が肩を竦める。不思議なほど反響する、よく通る声は確かに警告だが、その手は続け様に光る矢を放ち、向こうからも撃ち返される魔術を、樹木で防ぐように時折躱している。フードが飛び、曝け出す顔は寧ろ、向こうに見えた方がいいとでも思うのか。  こっちにもいる!こちらもだ!と、あちこちから上がる声を聞けば、既に戦火は飛び移り、応戦せざるを得ない状況は明かだ。どこにいる、見えない、消えたと続く声を聞く限り、自在に獣に変じるのに手を焼いているようではあるが。 「どうする?」  杖を掲げるために立つ魔術師と同時に、鬼も立ち上がり、だが抜いた両刀を脇の鞘に収める。 「…やってられっかよ」  幾つか鳴らす指笛の、応戦控えて退がれの合図に、ザザと彼方此方でまた草が走る音がする。 「援護する」 「ああ、」  仲間の撤退を手伝うべく杖をよすがに詠唱をまとい、味方を追っている敵に的を絞って、続け様に魔術が襲う。不意を突かれ、或いは照準を狂わす相手を、近接の味方がすかさず落として、散開した仲間が敵を振り切りながら次第に戻る。 「勝手に、」  死なせときゃいい、と続けようとした声を止める鬼だけでなく、魔術師も振り返る。ハルカレンディアが立つ辺りに、ブワと目を焼くように爆ぜる橙色の光。敵から放たれた火球が爆ぜ、辺りの空気を焼く。 「火を……」  呆然めいた声になる魔術師の横で、ハルカレンディアの顔を見る鬼が軽く言葉を失う。 「おのれ…、おのれぇ…ッ! この森で火を放つか谷のオオォォッ!!」  地を這うよう低くなる声がそのまま詠唱に移り変わり、木々がざわめき始める。途切れず続く呪文に、樹と葉の揺れ震える範囲が広がっていく。風が起こり、葉が舞い、それほど移らなかったと見える火が吹き消え。 「おいおい、人相変わってんぞ、エルフちゃん」 「そりゃあ…、森のエルフの前で森に火なんか投げればな…」  それにしても、と、戻る仲間の露払いを続けながら、魔術師が首を傾げる。 「風を放つのか…」 「風? 火に風じゃ逆効果だろう。俺でも知ってんぞ」  振り返る鬼に頷きながら、背を合わせる鬼と逆に、魔術師はハルカレンディアを肩越し見る。 「かなりデカい風だ。火種ごと消し飛ばすつもりかもしれんが…」 「風をデカくしても、向こうが更にデカイ火をつけたら意味がなくないか」  滑り込むようまず戻ってきた灰髪に、魔術師は頭を振る。 「いや、これ以上火は放てないと思う。自分の守護地じゃないとはいえ、エルフが森を焼き尽くしたりしたら、呪いを受けて二度と精霊の加護は受けられない。それはエルフにとって死よりも死だ」 「おっそろしいこった。ン? じゃあなんで敢えての火?」  次第に集まっていく仲間から向きを変え、お構いなしか、と呟いて、魔術師はハルカレンディアへと杖を向ける。凝るように鋭く圧を上げながらも膨らんでいく風で、いくらかは弾いているが、向こうからの矢も魔術もろくに避けない。  申し訳程度に、まともに食らいそうなものだけ相殺してやりながら、少し肩を竦め。 「……。…森のエルフへの挑発だろうな。そのくらい、谷のエルフとの確執は深いってことだ」 「へッ、こわやこわや」 「お?」  呪詛でも練りそうな低い声の詠唱が途切れ、今や一人、小さな嵐の中心に立つようなハルカレンディアへと、視線が集まる。  今度は打って変わって色のない、冷ややかな声が短く唱える声で、その周囲に光が満ちる。 「まぶしっ」 「ほう…」 「…それで風か…!」  目を凝らして見れば、空間を埋め尽くしそうなほど無数の矢が、魔力の光を帯びて敵を向いているのが分かる。同じく光帯びた弓はハルカレンディアの手に握られ、今まさに弦を引かれる一挺のみ。  それでも、敵へと向け引き絞る弓に共鳴するよう、宙に浮いた矢が揃って僅かに下がり、何が起こるのかをそこにいる全員が悟る。 「けど、こんだけ木が茂ってんの、」  疑問の声が上がるのと、向こうで敵が泡食うように背を向け逃げ出すのと、矢が一斉に放たれるのがほぼ同時。轟音と共に異常に上がる矢速に、放った風に全ての矢を乗せたのが見て取れる。魔術で編み出された矢は木々の皮ひとつ傷つけることなく通り抜けて、その怒りの先へと奔る。  辛うじて複数と分かる、けれど短い悲鳴すら、一瞬で途切れた。 「……。おーお、皆殺しか」  短い間全員が絶句する沈黙を破り、何が警告だかな、と鬼が呆れる。 「落ちた」 「倒れた」 「お?」  ドサと音立てて崩れ落ちたハルカレンディアに、あーあだのと声を上げながらそれぞれに足を向ける。 「あんなデカい魔術を使えるタイプじゃないように見えた。絞りきって死んでるかもな」  倒れたハルカレンディアを顎でしゃくって示しながら、杖を構え直して始める詠唱は話す声を妨げず、魔術師の声は二重に響いている。少し長い詠唱で辺りに細雨が降り始め、火球が焼いた範囲を覆って雨が染みていくのを見てから、魔術師もようやく杖を仕舞った。 「ああン?」  魔術師の声に振り返り、やれやれと息をつきながら膝を着いて、ローブから出た首筋に褐色の指が脈を取る。 「チッ、生きてやがる」 「死んでたら置いてけたのにな」 「…いや、そいつ素っ裸だぞ、ローブの下」 「アアー…うーん…。…後続の軍にでも見つかったら面白かねえか」 「ある意味面白いとは思うけど」 「こいつらジョークのセンスねえからなー」 「確かに」  しょうがねえな、と、鬼が肩に担ぎ上げ、繋いだ馬へと戻る。  鞍に跨がってからふと、馬の背に括りつけられたハルカレンディアを魔術師が見下ろした。 「あんな長い詠唱初めて見たぞ。バカめ」  戻るぞ、と声掛けて今度は自らが先頭を取りながら、隣に並ぶ魔術師を鬼が振り返る。 「詠唱が長いとデカい魔術が使えるんだっけ?」 「うーん…考え方としては、逆だ」 「逆?」 「具現させたい魔法に対して、持ってる霊力や魔術の才が足りない場合に、自分の霊力を練り、精霊に助力を乞うため、詠唱を使う。長い詠唱を必要とするってことは、魔術のデカさでもあるが、むしろ術士の未熟さと比例する。…身の丈に合う魔術を使う場合の話だが」 「ほーん…」  分かってないな、と、ローブの下に隠れた顔が笑う。 「剣と弓を持ってただろう、そいつ。元々霊力が魔術よりも肉体に向いてるんだ」 「ほーん…」 「あんたもそうなんだぜ、お頭」  へええ、と、感心したように声が上がるのに、緩む頬がフードの下からも覗く。 「なるほどなあ。じゃあ俺でも練習すれば魔術が使えるようになんのか」 「いや。才能がない」 「ああ!?」  跳ねる声に噴き出して、フードを揺らし頭を振る。 「その年まで、意図せずうっかり魔術を使ったことが一度もないなら無理だな」  わざと唇をへの字に曲げてみせる鬼の顔に、魔術師がもう一度頭を振ってみせ。 「はあ…。おお、じゃあお前は、うっかり魔術使うことがちょいちょいあったりすんのか」 「ああ。さすがに今はないが、子供の頃はしょちゅうで、親は苦労してた」 「なるほどねえ」  張り詰めた糸が緩んだよう、めいめいに話しながら、今度は峠へと引き返す道に進める馬の背に、傾き始めの陽が低くなっていく。
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