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第2話 罪を数える
「わかった。条件を飲もう」
マティアスはジャケットの襟を正すと背筋を延ばした。
周囲に見苦しいところを散々晒しておいて今更だったが、この学園で一番身分の高い男は王族を除いて侯爵家嫡男である自分なのだという自負が彼にそうさせた。損なわれた威厳を少しでも取り戻したかったのだろう。そしてセシルはもう既に妻のような心持ちでそれに寄り添った。
恋に熱くなり過ぎて馬鹿になった典型のような二人には、自分達に注がれている視線の意味も分からない。
ファビエンヌは婚約者からの了承を得たことで深く頷くと、この公演の助演者を募るために動き出した。彼女は回廊から中庭を眺める見物人達を一人ひとり確認して目当ての人物を見つけ出す。
「ドルイユ様、アデライド様」
ファビエンヌは二人に向かってヒラヒラと手を振った。
「哀れなわたくしに少しお力を貸していただきたいの。前に出てきてくださる?」
両掌を合わせて小首を傾げながらのこの台詞は周囲の庇護欲をおおいに唆った。
名指しされた二人に否やはなく、無言で深く頷くと人混みを縫って中庭に来た。
クレマン・ドルイユは剣の腕を見込まれて将来は近衛騎士に。片やアデライド・オータンは女騎士として卒業後王宮に勤める予定になっている。
彼らの持つ騎士道では気の毒な令嬢の助けを求める手を振り払うという選択肢はない。
「ファビエンヌ……なにを……」
ファビエンヌが報復目的で彼らを呼び出し、自分の代わりに暴力行為をさせるつもりだとはさすがに思っていないが、その人選にマティアスは怯んだ。ふたりとも嘱望された職務に見合った見事な体格をしている。
マティアスの言葉をファビエンヌは無視して未来の騎士達に頭を下げて礼を言った。
「来てくださってありがとうございます。とても……心強いわ」
既に噂を耳にしていた騎士道を重んじるこの二人には、罪なき令嬢が婚約者の不実から衆目ある場で窮地に立たされていても誇り高く在る様に思う所があった。けれども、労いか、慰めか、激励か。今どんな言葉をかけるのが正しいのか分からず、二人は口を開くも思い直して閉じることにした。
ファビエンヌはその思いやりが今の自分を傷つけることを知っていた。心がそれを拒んで顔をわずかに伏せさせるも理性が毅然とあるべしと命じてファビエンヌに顔を上げさせた。
「わたくしが話をしている間に、お二人には目の前の罪人らが逆上してわたしくを害さないように。この場から逃げ出さないように見張っていただきたいの。そして、もしも誰かが錯乱した場合の鎮圧もお願いしたいのです」
そんなことをするはずもないとマティアスとセシルの顔に呆れと不快が表れて歪む。
存外気の強いセシルが吠えて、この場を台無しにしないようにマティアスは抱きしめる手に力を籠めた。
「わたくしでよければ承ります」「そのようなことなら喜んで」
未来の騎士たちからは快諾の言葉を聞けた。
「快くお引き受けいただけて嬉しいわ。ひとまず真後ろに立っていただくだけで結構です。お願いできまして?」
右胸に手を当てて軽く頭を下げて頷いた二人はマティアス達の後ろに回った。
ファビエンヌは罪人たちに宣言する。
「お聞きのとおり、お約束を破られた場合は、猿轡をかまされたり、拘束されたりします」
猿轡については何も言われなかったと、罪人たちの後ろに立った二人は慌てて胸元からタオルを出して捻ることで、その時に備えた。
それを半身捻った姿勢で嫌な顔をしながら眺めていたマティアスはファビエンヌに念を押す。
「……この場から動かず黙って聞けばいいのだろう?」
「ええ、そのとおりです。ご不満のようですが、婚約という家同士の重要で、大きな約束を卑怯な真似で反故にする方が相手ですもの。相応の対策だと思いますわ」
そう言わればそのとおりなのでマティアスも二の句が継げない。
それにしてもマティアスはこの中庭で起きている非現実的な出来事に少し感覚が麻痺してきたようだ。これほどの人間が学園にいたのかと感心する程の人の目が自分に集まっているというのに最初感じていた精神的重圧感は不思議と薄れてきた。ただ、自分を拘束するかもしれない人物が真後ろに立っているので少し落ち着かない気持ちにはなっている。それでも思ったより威圧感を覚えなかったことに安心してマティアスはセシルの耳元に顔を寄せて囁いた。
「大丈夫。少しだけ我慢したら終わるからね」
そんなもので済ませる訳がない。ファビエンヌは容赦なく言った。
「いざとなったら拘束しやすいように、お二人には少し離れていただきます。よろしくて?」
「ああ! わかったよ!」
マティアスはやけっぱちになって大声で返事をする。
この時間も長く続かない。今だけ耐えればいい。婚約さえ白紙に出来れば、あとは何とでもなる。先の心配は尽きないが、一先ずエマール公爵の損ねた機嫌を回復させるのに大分金がかかるだろうことはマティアスにも分かっている。
マティアスはこれから始まるだろう断罪に緊張して油断すると乱れてしまう息を整えた。これまでの不義理と不実に対して怒りを人前でぶつけられる恐怖はあるが、それより未来への期待と興奮のためマティアスの頬は紅潮していく。
その想像を遮断するようなファビエンヌの視線を感じてマティアスは下げていた視線を戻した。
「それでは本番の前にテストをいたしましょうか」
ファビエンヌは唇を三日月のように引き上げて笑った。
この場にいる誰もその意味が分からない。
つかつかとマティアスの間近までファビエンヌは歩み寄った。
「わたくしの取りなしで婚約が白紙になったとしても、ご希望される女性との結婚が認められるかは別の話でしょうね」
マティアスは反射的に出ようとする言葉をグッと堪えた。セシルは口が " あ " の状態で開いていたが発声する前に堪えたようだった。
それをさも感心したように何度も頷いたファビエンヌは罪人たちに開始を告げた。
「大変結構です。では始めましょう。まずはお祝い申し上げますわね。おめでとうございます。これで貴方がた二人は貴族の間で少なくとも三代は語り継がれるだろう伝説をお作りになったのです。――もちろん悪い意味で」
マティアスはこの言葉を心の中で笑った。
確かにひどい醜聞になるだろうが、エマール公爵もひとり娘の今後の縁談を考えてそれほど大事にはしないはずだ。あとは家と金の力を使えばどうとでもなる。家もすぐ継ぐわけでもない。数年領地に籠もっている間にファビエンヌも何処かに嫁いで社交界の噂も風化すると彼は高をくくっていた。
父親には、こっ酷く叱られるだろうが基本親族は自分に甘いことをマティアスは経験で知っていた。
こんな風にマティアスが甘く考えているのは今までの行いからも今の表情からも簡単に窺い知れた。ファビエンヌはこの衆目のある場で自分に非がないことを主張し婚約者の罪状を読み上げる。今から大罪人たちを断罪するのだ。
「わたくしはこの数カ月の間、父エマール公爵から婚約者である貴方様との関係修復をはかるよう再三注意を受けてきました。わたくしは話し合いを試みる努力を怠りはしませんでしたわね。それは出し続けた手紙や招待状の数が証明します。一度もご返信はありませんでしたが、全てお手元に届いているのは分かっています」
非常識な行いをした自覚のあるマティアスは、ばつが悪くてファビエンヌから目を逸らすが、何処に目をやっても自分への批難の目しかない。仕方がなくマティアスは自分の足元を見る。
「お邸に伺っても急用や急病でお目にかかれませんでした。学園でもわたくしを意図的に避けられていましたわね。学年が違いますから合間を見てわたくしがマティアス様を学園内を探し回ってきましたが、辛うじて見掛けたのは貴方様の残像だけでした。その姿は学園内の誰しもご覧になっているかと思います」
そう言ってファビエンヌは回廊に鈴なりになっている見物人達を見回す。
誰しもがその言葉に同意するために小さく頷いた。
公衆の面前で罪状を明らかにされて批難の目に晒されるのは思った以上に辛いものだとマティアスは思った。それもじきに終わる。この場を我慢してやり過ごせばいいだけだ。あと少し。あと少しと呪文のように心の中で唱えて、マティアスはここから立ち去りたい衝動を抑えた。まあ、衝動に従っても真後ろに立つ屈強な男がそれを許すはずもない。
「それ以外にマティアス様がこの半年もの間、わたくしにしてきたことは何でしたでしょうか」
ファビエンヌはそう言うが当のマティアスは何かした覚えがない。しなかったことを責められるのなら身に覚えがあり過ぎる位ある。
マティアスは意識が反れたことで神妙な表情が崩れないように顔に力を入れた。
有罪と決定済である、この公開裁判の様子を後日エマール公爵は大勢から聞くだろう。その時、マティアス・バイエは婚約者のファビエンヌへのこれまでの所業を心から侘びていたようだと思われたかった。神妙に見えるように表情を意識しながらマティアスは聞き続ける。
その間、セシルは不貞腐れたように口を曲げては、ハッと気づいて表情を取り繕うということを短い間に幾度も繰り返した。
周囲を見渡しながらファビエンヌは高らかに言う。
「よりにもよって! 婚約者のいる男性と分かっていながら意図的に近づいた泥棒同然の卑しい女に――」
セシルへの罵倒に二人の口が思わず開いたが、ファビエンヌの反応は早かった。唇に人差し指を当て「しー。口を閉じませんと猿轡です」と言って黙らせたのだ。
泥棒同然の卑しい女であるセシルが、わなわなと肩を震わせるとマティアスは腕を延ばしてその肩を幾度か優しく撫でて宥めた。
それをファビエンヌは軽く目を閉じて鼻で嗤ってから話を続けた。
「……名を呼び捨てにすることを許し、ご自分の色を纏うことを許し、婚約者を持つ身でありながら、その女に不適切な距離を進んで許した……だけではありませんでしたわね」
彼女が男性であったなら素晴らしい判事になっただろうと誰しも認める才能をファビエンヌはこの場で見せつける。
その美声を響き渡らせながら、まるで胸の中に証拠があるとでも言うように腕を広げて回廊の見物人一人ひとりに目を合わせながら訴えた。
「マティアス様は、わたくし宛と偽って高価な贈り物を買い求めては、あろうことか泥棒猫に横流しされました。そして彼女に顔が見えないようベールをさせたり帽子を深く被らせて劇場や庭園に連れ回されました。あら、仮面舞踏会にもご出席されたのでしたか。――いずれにしても意図的に、わたくしが同伴していると周囲には勘違いさせました」
マティアスの行いを初めて知った者達は、あまりの悪辣さに閉口したり、吐き捨てたり、罵倒したり、我が身だったらと思って涙するご令嬢が居たりと反応は様々だった。
そのざわめきが少し収まるのを待ってファビエンヌは続けた。
「そのような驚くべき方法で逢引を重ねておられている時、わたくしは別の茶会や晩餐会などに出席していましたから、マティアス様の同伴者がわたくしではないのは分かる方には分かったと思います」
同意して頷く者、その場に居たと話す者、その詳細を訊ねる者で少しの間、また囁きからなるざわめきが起こる。
自分の行いを他人の口から改めて聞き、その卑怯さにマティアスは冷や汗が止まらない。いずれもセシルの入れ知恵だが、実行したのは自分なのだ。これまでのこと、今回のことで父親にどれ程の罰を与えられるのか考えて血の気が引いた。
ここでようやくマティアスは人目を避けて話をつけようとしなかった自分の選択の誤りを後悔する。
ファビエンヌは右腕をあげて周囲に静まるように促した。
「このように貴方様はとても卑劣な方法で、信頼で結ばれるはずの婚約関係を土足で踏みにじり、不当にもわたくしの名誉を著しく傷つけました」
憤りを飲み込むように目を閉じてファビエンヌは少しの間沈黙する。
そして、とても深い溜め息をついてから目を開けて話を続けた。
「集団内で定められたルールから逸脱した者は集団から爪弾きになるものですよ。それは王族でも貴族でも平民でも奴隷でも同じなのです。重大なルール違反をして集団から外された人間はまた受け入れて貰えるでしょうか? その血と考えを受け継いだ子供は? その孫は? 良識のある貴族は彼らと縁付きたいと願うでしょうか? どうお思いに?」
マティアスは自分達の為にファビエンヌの考えを否定しようと口を開くが、婚約者の唇の片側が面白そうに上がっているのを見て約束を思い出し引き続き沈黙する。
「あら、黙っているように言ったのでしたわ。わたくしったら駄目ね」
白々しいとマティアスは思わずファビエンヌを睨んでしまい、表情が崩れたことに気づいて元に戻した。
「わたくしの父からの苦情は、これまで幾度かお父上のバイエ侯爵を経由して貴方様の元へ当然届いたのでしょうが、謝罪もなければ、行いが改まったりもしませんでした。バイエ侯爵が黙認されていたのかご存じなかったのかは、ここで言及するのは止めましょう」
それ以上、続く言葉がなかったので、罪人の二人はファビエンヌの顔を窺った。
目が合うとファビエンヌは、にこりと笑う。
やっと話が終わったかとマティアスとセシルは開放感から脱力してしまう。
安堵が表情に出ているのをみてファビエンヌは忍び笑った。
「あら、いやだわ。お二人とも。話はこれからですのに」
ファビエンヌは中庭の中央まで移動し、また手を三回叩いて群衆に注目するよう促した。
「さあ、この場にいらっしゃる紳士淑女の皆様。どうか引き続き静かにお聞きくださいませね。これからお話することは、皆様にも関係がございますの」
なにやら、きな臭さを感じたマティアスは、ファビエンヌが話し出すのを止めようと一歩前に踏み出そうとする。
それを目ざとく見つけたファビエンヌはマティアスを咎めた。
「拘束されたいのですか? 元の位置にお戻りを」
ファビエンヌは冷たく言うと、後ろのドルイユにも声をかけた。
「ドルイユ様、次に動いたら問答無用で拘束していただいて結構ですわ」
悔しそうに顔を歪めたマティアスが急いで一歩戻ったことを確認するとファビエンヌは、また周囲を見渡しながら話し出した。
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