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第10話 愛と信頼の証明
バランド王城の南にある離宮の、とある一室は王族の密会によく使われる。
ファビエンヌはその一室に居た。多少腹立たしい思い出もある懐かしい部屋に。
よく見れば精彩に欠けているファビエンヌ。彼女は自分が座っている長椅子の右隣を力なく眺めた。
***
バランド国に戻ってきて三日目。長旅の疲れも少し癒えた。
到着後の体調不良も考慮のうえ予定されたファビエンヌを歓迎する夜会は数日先。主だった貴族は出席する予定になっている。
国政が安定し国力を年々上げている同盟国。そのナザロフ王の妃にして、養子縁組でこの国の王女になったファビエンヌの為の夜会だ。
夜会としては割合大きなものになる予定で今も城中が大忙しだ。
夜会までファビエンヌを疲れさせてはいけないという配慮から来客も断っている。
ファビエンヌは庭園をぶらぶら歩いたり、図書室を覗いたり、実親のエマール公爵夫妻と面会したりというようにゆったり過ごしていた。
今のファビエンヌはナザロフの民族衣装を着ているため、王宮内で少々目立っていた。
ハーレムに居た時のような体の線が分かるようなものや肌の露出が多いものは、ここではさすがに着れない。
今、着用している高貴な女だけに許されたナザロフの特別な民族衣装は、特別な日に着るもので花嫁衣装同様に何年もかけて作られる手の込んだ芸術品だ。それをファビエンヌと歴代の妃の物の中で特に美しいものを里帰りにあたりどっさり持たされた。
これらの衣装はファビエンヌの乳白の肌と濃い金髪、深い碧い瞳という容姿との組み合わせでナザロフ風でもない異国の雰囲気が出て人目を惹いた。
そんな素敵な衣装の裾を捌きつつ、ファビエンヌは若い王族達だけの内輪のお茶会に招かれて案内を受けながら通路を歩いていた。
南の離宮に繋がる隠し通路の入り口が見えた辺りで、ようやくファビエンヌは騙されていることに気が付いた。
案の定、部屋に通されてみたら従兄弟で義兄弟の王子達三人だけ。彼らの妃なんて影も形もない。
王子達は先にお茶をしながらファビエンヌを待っていた。
王太子アンベールが自分の座っている長椅子の隣を指差す。
もちろん、座りたくない。座りたいわけがない。
向かいの長椅子に行って二人の王子に詰めてくれるよう頼んで無理やり座ってしまおうかとも思ったがファビエンヌは諦めた。
優雅に座って力なく右隣を見るファビエンヌの前にティーカップが置かれる。
アンベールは斜め上に一瞬目をやってから面白そうに大陸共通語で言った。
「来月半ば過ぎてもお前を出国させていなかったら、ナザロフ王が先頭に立って進軍して来るらしいな」
確かに出発前にそれらしいことをナザロフ王に言われたがファビエンヌは冗談だと思っていた。
帰国してからアンベールと顔を合わせた晩餐で、そんな話をした覚えもない。
バランド王に宛てられた手紙の中に書かれていたとしか思えずファビエンヌは内心青くなりながら、すまし顔で大陸共通語で返した。
「ええ。そうなったら同盟関係の終わりですわね」
今日は番犬が付いているので誰にも頬を突かれることもなくファビエンヌは安心して紅茶を飲めた。
その真後ろと真横にはナザロフ人の厳つい兵が居てファビエンヌを守っている。
彼らはナザロフ王が付けて寄越した近衛兵の精鋭で、他にも扉の前に一人、掃き出し窓から見える庭にも一人居て、ファビエンヌの周囲を警戒していた。
「しかし、こいつら本当に厳ついな」
アンベールは護衛する側のことを考えて、ここでは大陸共通語で話すことに決めているようだ。
ナザロフ王の近衛兵は自分たちのことを話題にされているにも関わらずピクリともしない。
勿論、彼らは大陸共通語が出来るので何を言われているのかは分かっている。
「ナザロフの男性は体格が良いですからね。特にこの二人は国で五本の指に入る剣士でもありますのよ」
それを聞いた護衛騎士らがソワソワと浮足立った。
第二王子エクトルと第三王子ジョルジュが自分の護衛の落ち着かなさを見て変な顔をする。
ファビエンヌは自分の傍に立つナザロフ王の近衛兵二人にも教えてやる。
「こちらの護衛騎士達の中にもバランド国で十指に入る剣士が居るわ。特にそちらのダミアン様は将来剣聖の称号を与えられるだろうと言われているの」
それを聞いたナザロフ王の近衛兵達もソワソワと気を落ち着かなくさせた。
ダミアンは面映ゆくてその秀麗な顔を壁に向けてしまう。
この場に居る剣に覚えのある男たちは、全員ちらちらと顔を見合わせて頬を紅潮させている。
それなりに体格の良い腰に剣をはいた男たちだ。それが顔を赤らめながらチラ見し合ってクネクネしているのだ。
とんでもなく絵面が悪い。
おかしな雰囲気に気付いたエクトルが周囲を見渡しながら言った。
「あれ? なんだか急に "最高に良い女が現れた! いつ声をかけようか?" みたいな雰囲気になってない?」
実はファビエンヌもそう思っていた。もし同意を求められても絶対に頷いたりしないが。
うっかり吹き出さないようにファビエンヌは暫く紅茶に口をつけないことにした。
「やりたいって思っている点では同じだな」
「んもう! 下品ね!」
怒ったファビエンヌはアンベールの肩と腕を手で打擲した。ナザロフ王の近衛兵を連れてきていることをすっかり忘れて。
アンベールは昔からファビエンヌが反応するのが面白くて怒ると分かっていながら、わざとそういうことをする。今も楽しそうに「痛い痛い」と言いながら笑っている。エクトルは羨ましそうな顔でそれを見ている。ジョルジュは兄の無作法を無言で睨んで咎めるが、本人は肩を竦めるだけで反省はない。
ファビエンヌは怒って暴力に訴えたものの実はアンベールと似たようなことは考えていた。自分を誤魔化すために咳払いする。
「これから一月近く滞在する予定ですし、きっと一緒に訓練する機会もあるでしょう。そのときにでも、ね?」
「そのように碧の妃殿下がおっしゃるなら……」「それがご命令であれば……」
如何にも渋々といったように見せているが二人の紅潮した頬と耳がそれを裏切っている。
それより『一緒に訓練 』という言葉で、いま室内でどれ程多くの目配せがあっただろう。三人の王子達もこれには呆れてしまった。
「ところで、なぜここに呼ばれたのです? 慣例を破ってナザロフ国初の里帰りを許して貰ったというのに、このような怪しげなところに連れ込まれては、わたくし信用を落としてしまいます」
「ファビエンヌ、それだ! どうやって慣例を破らせたんだ?」
エクトルは目を輝かせて、ずっと聞きたかった疑問の答えを強請る。
「それは……まあ普通にお願いを……」
と、ここまで言って、エクトルが納得せず執拗に食い下がってくる可能性があることを突如思い出したファビエンヌは慌てて言い直した。
「ナザロフ王に強請ったのです。慣例を破ることでわたくしへの愛と信頼を大陸中に知らしめて欲しいと」
***
希望を出したとしても、切って捨てられて交渉にすらならない場合はどうしたらいいか。
相手が到底受け入れない条件を先に述べた後、それよりも大幅に緩めた元々の希望条件を提示する。そうすると、あら不思議。なぜか相手は最初の条件と比べればという理由で受け入れてくれることがある。
そんな交渉術をファビエンヌは使った。
バランド国に帰りたい。この国から出ていきたい。つまり、自分の元から離れたい。それは、離婚したいと言われたも同然ではないのかとナザロフ王は、その言葉が与える衝撃にただただ呆然としていた。
ファビエンヌは落ちて転がっているグラスを拾ってサイドワゴンに乗せると新しいグラスに酒を注いだ。グラスをゆっくり口に持っていって少しだけ飲み込む。
そうしている間もナザロフ王の目は傷ついた者のそれになり、そこから悲しみに満ちたものへと変えていく。
徐々に正気を取り戻すにつれて目が危険な色を湛え始めてきた。ファビエンヌは、その怒りが危険水位を越えて氾濫する前に言った。
「一月ほど里帰りしたいのです」
この言葉でナザロフ王の膨らんだ怒りが一瞬でかなりの量、消えて無くなる。
「慣例を破って大陸中に証明してくださいませ。バランド国から嫁いだ王女ファビエンヌをナザロフ王が真実愛していて強い信頼を寄せていると」
不機嫌な様子のナザロフ王は返事をしない。
そして、ほんの僅かでもファビエンヌから目を離さない。
声から、仕草から、表情から、行動から嘘がないかを静かに窺っている。真意を測っている。
ナザロフ王から怒りが抜けてきたが無くなった訳じゃない。
ファビエンヌは慎重にナザロフ王に近づいてその強張った掌にグラスを握らせた。そして、そのまま足元に座った。
ナザロフ王の膝の上に手をかけて上目遣いの姿勢でファビエンヌは訴えた。
「深く愛しているだけなら腕の中から出せないでしょう。深く愛していながら強い信頼もあるからこそ、また戻ってくると信じて腕の中から出せるのではないでしょうか」
心に響くだろうと思いながらファビエンヌはこの言葉を言った。
ナザロフ王はその言葉を心の中で反復しながら何やら自問自答していたようだった。
間は、そう長く空かなかった。
「――それで?」
低く深みのある声が、夜の静寂の中にじんわりと広がっていく。
「里帰りしたい理由は?」
ナザロフ王はもう怒っていなかった。悲しんでもいないし、傷ついてもいない。
心の奥を覗くような目をしながら、妻の考えを訊ねてきた。
そのことにファビエンヌは内心とても驚いていた。
説得するのに骨が折れるだろうと思っていた。はじめの内は強固な反対に合うだろうと。
これは、理由が妥当であれば了承すると言っているのだ。
ファビエンヌは愛と信頼を盾に決断を迫ったが、そういった合意は普通互いにあって初めて成り立つものだと今更気付く。
では、信頼は?とファビエンヌは自分に問うてみる。
互いにあると思う。間違いなく。揺るぎなく。
この五年、国にも夫にも尽くしてきた。ナザロフ王もそれに応えてくれた。
ならば、愛は?
ファビエンヌは考える。
『愛しのファビエンヌ』とナザロフ王は先程のように冗談めかして言うことがある。
『愛の証』と言って有形無形の様々なものを与えてくれる。
『愛されている』と周囲は言う。
だから『愛』という言葉を時々使う。自分のものとしてではなくナザロフ王が持つものとして。
愛されているのかもしれないと自分でもそう思えるときがある。
大事にもされている。でも、それは――。
ここまで考えてファビエンヌは答えを出すのを止めた。
この先を考えてはいけないと心が言ったのだ。
***
ファビエンヌの話した内容についてアンベールとエクトルが何か議論をはじめていた。ジョルジュは無関心を装ってお茶を飲みながら聞き耳を立てている。
それを遠く思いながら、ぼんやり見ているとファビエンヌの頭の中にあの夜に止めた思考が戻ってきた。
――ならば、愛は?
自分ではなくナザロフ王の。
そんなことを考えれば、愛しているとナザロフ王から言われたことがないと気付く。そう言えば、ただの一度も。
仮に愛していると言われたとしても、恭しくその言葉を受け取ってみせてから、心の中にある、使わないものを仕舞うだけの箱に入れてしまうだろう。
――ならば、愛は?
またファビエンヌは自問する。
ナザロフ王は互いに愛があると信じたのだろうか。
もし、そうだとして何を根拠に妻の愛を信じたというのか。
ナザロフ王が妻に自分への深い愛があると信じてバランド国に送りだしたとしたら……。
そう思うとファビエンヌの胸は急に罪悪感で痛みだす。
――ならば、愛は?
もう心の何処に仕舞ったのか分からなくなった愛というものは?
ファビエンヌは自分の心に問いかけてみる。
ナザロフ王に愛していると言ったことは一度もない。言おうと思ったこともない。
だって自分の気持が分からない。でも考えたくない。考えないから分からないまま。
もしも、マティアスに心を預けていなかったら。
もしも、ハーレムなんてものがなく、ただ一人の妻として傍に在れたなら。
きっと、何の憂いもなくナザロフ王を愛しただろう。
きっと、そのとき心が命じるまま愛していると言えただろう。
いつの間にか議論は終わっていたらしい。アンベールの視線が自分の顔の上に来たことに気付いたファビエンヌは、目を伏せたまま口をつけていたティーカップをテーブルに戻した。
夢想に耽っていたとは気付かれず、紅茶を味わっていたように見えただろうか。
ファビエンヌがさっと目を走らせるとジョルジュだけが気がついていたようだ。少し心配そうにこちらを窺っている。
そのとき――。
ファビエンヌの柔らかい白い頬にアンベールの人差し指が食い込む。
迂闊だった。油断したとファビエンヌは唇を噛む。
ファビエンヌは何事もなかったように座っている位置から人一人分の距離を空けて座り直した。
なぜ止めてくれなかったのかと自分を守っているはずのナザロフ王の近衛兵達を睨む。
彼らは申し訳無さそうな顔をした。王太子がそんな幼稚な真似をするとは考えてなかったんだろう。
これで学習して次は必ず阻止してくれることをファビエンヌは願った。
「で、里帰りした理由は?」
ファビエンヌは、おそらくニヤニヤしているはずの義兄の顔を見ないで答えた。
「面白みがなくて申し訳ありませんが、外交や貿易、同盟というありふれたものですわ。わたくしが国外に出るだけでナザロフ国に生じるメリットは多いと判断しましたから」
慣例を破って里帰りをしたファビエンヌが社交をする。これだけで、ナザロフ国への悪いイメージはかなり払拭されるはずだ。ナザロフ王とハーレムの悪いイメージを変えるために強い説得力を持って国外に発信出来るのは寵妃のファビエンヌの他に居ないだろう。
印象が良くなったところで新しい外交、貿易、同盟を求める。古く役に立たないものは切り、情報を更新して、より良い条件に変えるために交渉するのだ。
今のうちに第一王女の婚約者も決めてあげたい。肌と顔立ちは父親似だが、髪と瞳の色はファビエンヌに似ているから他国の王族に受けは良いだろう。国内で決めようとするとナザロフ王が邪魔をしてくるだろうし、出来るならバランド国に居る間になんとかしたいとファビエンヌは思っていた。
「ふーん」
聞いてきた割にアンベールは興味が無さそうだ。振りかもしれないが。
アンベールは、さっと近寄ってファビエンヌにバランド語で耳打ちする。
「なあ、人払いしたいんだが、俺が出ていくように命じたら、この二人は言うことを聞くと思うか?」
ファビエンヌも声を潜めてバランド語で返す。
「いいえ。恐らくナザロフ王からの命令しか聞きません。わたくしの言うことも聞くかどうか……」
ナザロフ王が里帰りを許す条件の一つとして近衛の精鋭をファビエンヌの護衛として連れていくことがあった。ナザロフ王に恨みを持つ者がまだ居たとして国外に出たファビエンヌを害するかもしれない可能性を考えたのだろう。
ただし、恨みある者が残っている可能性も余り高くない。悪しき種を生むものは根まで燃やす必要があるとナザロフ王と支持する者たちは考えていた。だから大粛清だったのである。
ナザロフ王はファビエンヌの希望を最大限叶えようとは思ったが万が一にも何かあってはと心配もしていた。当初は剣と体術の腕前で国の十指に入る者達を全員連れて行けと言っていたのだが、王の周辺警備に問題が生じるからとファビエンヌが断って人数が減らされた。
ファビエンヌはナザロフ王に借り受けた近衛兵のレオシュとパヴェルに言った。
「王太子殿下がわたくしに内密な話があるので、これから人払いしたいのですって」
二人は、そんなことは到底聞けないと首を振る。厳つい顔のレオシュが厳つい表情で言った。
「碧の妃殿下からは決して離れず目も離すなと陛下に厳命を受けております」
「……だそうですわ。王太子殿下」
それを聞いたアンベールは心底面倒くさそうな顔をする。
折衷案で、ナザロフ王の近衛兵にこの場に残ることを許す代わり、会話はバランド語ですることになった。
ファビエンヌは、ここへ呼ばれた理由を、また何か聞きだしたいことがあるからだと思っていた。だが、それは違っていた。アンベールは王太子としてファビエンヌに頼みたいことがあったのだ。
事の起こりは二年近く前。
バランドの北に位置する隣接した三つの領地で疫病が流行った。
ナザロフ国からも相当な支援をしたが、結局少なくない人数が死んでいる。
被害があった領地の一つがバイエ伯爵領だった。
領民を守るために領内を必死で走り回ったマティアスの弟も父親も叔父も疫病の餌食になり亡くなった。
バイエ伯爵領はバランド国にとって重要な場所で、統治能力の無い者には任せられない。爵位を継ぐのに相応しい教育を受けている濃い血を持つ人間が残ったバイエ一族の中に居なかった。
「だから除籍を取り消してマティアスに継承させた。王命だ。俺が王でもそうした」
確かにマティアスは領主になる教育も小さい頃から受けている。女で人生失敗したが嫡男だった男だ。世間体さえ考えなければ、これ以上ない人選だ。
ファビエンヌはマティアスの名をここで聞くことになるとは思ってなかった。知らず顔が強張り無言になってしまう。
――それで?
アンベールに向かって目で続きを促す。
「あいつに、おれが王位を継いだ時、中央で重要な仕事のひとつを任せたい」
――なぜ?
ファビエンヌは疑問を目で投げかける。
「もうマティアスは世間知らずのお坊ちゃんじゃない。愚かな真似をして安泰な道から足を踏み外したが、元々学業も優秀な男だったろう? 人生の辛酸を舐めて今や恐ろしい位の切れ者だ。一年程で伯爵領を立て直した」
ファビエンヌは片眉を上げる。
――それだけで?
ファビエンヌの無言と鋭い目線の追求にアンベールは本音を漏らす。
「心に乾きと飢えを持っている。普通に生きてきた貴族はそんなもの持たないだろう?貪るように学び、隙間を埋めるように仕事をしている。穴の空いている所に水を入れても溜まらないのに、あいつは気付かず、穴だらけの自分の心を満たそうと必死なんだ。本当に面白い。だが、そこが良い。それが中央に欲しい理由だ。働きたいのならおれの元で馬車馬のように働かせてやる」
アンベールが即位してもバランド国は安泰だと言わざるをえない。
そうでなければ、これほど多くの国に囲まれた中規模の領土で強国としてやっていけない。
ただ、非情過ぎる。そう思っているのは自分だけなんだろうか。
ファビエンヌは下を向いて出てくるまま溜め息を吐き続けた。
「あの件で社交界では遠巻きにされているから、当時の被害者である、わたくしがマティアス様をお救いするために力を尽くせと?」
遠巻きだなんてと苦々しい顔でジョルジュが珍しく鼻で笑って話し出す。
「そんな穏やかな情況じゃないんだよ。今、社交界ではマティアスは地獄から戻ってきた死人のように扱われているんだ。まさに地獄の気配を纏っている。一部からは嫌厭され、殆どが恐ろしさに近寄れず、結果遠巻きにしている」
どうやらジョルジュは嫌厭している側らしい。態度がそう言っている。
ジョルジュにとっては、自分の初恋の女と婚約するという幸運に恵まれていながら、それを非情なまでの手酷い裏切りで傷つけ悲しませた仇だろう。
「もしかして、それでも社交界に出てきているのですか?」
以前のマティアスなら熱りが冷めるまで、いつまでも領地に引きこもっていただろうとファビエンヌは思う。
「以前と違うと言っただろう? 並の神経じゃないんだ。傭兵上がりや荒っぽい平民兵士が多い辺境の北の砦で相当揉まれたんだろう。それに比べたら貴族が遠巻きで言う陰口なんて、そよ風みたいなもんだ。手強い男だよ」
なぜかアンベールが自慢げに言えば、それをエクトルが興奮気味に引き継ぐ。
「マティアスには夜会で久しぶりに会った。挨拶をされるまで本人とは気付かなかった。お前の仕込んだ毒の威力に畏怖さえ感じたよ」
ファビエンヌは目を伏せて口を両手で覆った。
恐ろしいことを聞いたと言わんばかりに見えたかもしれない。
マティアスが自分の思うように変わっている。
そのことに自分でもどうしようもない程の愉悦をおぼえた。
その喜びが目と口元に出ないようファビエンヌは隠さなければならなかった。
「ファビエンヌ」
名を呼ばれてアンベールを見れば、いつも人を茶化して遊ぶ兄の顔は欠片も無くなっていた。
「あの日、お前が学園の中庭でやったのは公開処刑だ。お前が大鎌を振ってマティアスの首を跳ね飛ばしたことで、あいつは社会的に死んだ。死人だと仕事をさせるのに支障が出る。落ちた首を拾って元の位置に戻し蘇生して来い」
あのバランド王の薫陶を受けているだけあって王太子の顔をすると父王に似た非情さが出る。恐らく痛いところを突いたと思っているのだろう。罪悪感を揺さぶって言うことを聞かそうとしている。
放置しろと指示した王家が白々しいとファビエンヌは思った。
自分が大鎌を振るわなくたって、もうあの時点で廃嫡は免れなかった。
対立派閥の首領クロデル公爵からの怒りを少しでも軽くするためなら除籍も結局しただろう。
黙って言う通りにするつもりが微塵もないファビエンヌは昨日の天気を話題にされたような顔をして聞いていた。
今も無条件で動かせる駒だと思われては困る。前と立場が違うと思い知らせてやりたい。
だからファビエンヌは、のんびりと聞こえるように言った。
「蘇生だなんて――神の御業だわ」
「その神の御使いの役をやらせてやる」
こんな風にアンベールが横柄に言うので、ファビエンヌも5年の間に身に着けた演技ではない、義兄が知らぬ顔を見せてやった。
女ばかりのハーレムで生きていくためには図太さは必要なのだ。
だからファビエンヌは笑った。口元に手を添えて、いとも優雅に。高らかに。
一頻り笑ったあと、心底面白いと言わんばかりにファビエンヌは言った。
「気の早いこと。いつになるか分からない即位後ですか? マティアス様に要職のひとつを任せようと思うほどの能力を見込んだと。そのような重要人物に息を吹き込む役だなんて。そんな大役、一同盟国の、それもただの妃でしかないわたくしに務まるかしら?」
見慣れぬファビエンヌのふてぶてしい表情と物言いにアンベールは片眉を上げて楽しそうに言った。
「なにが望みだ」
ファビエンヌは唇の右端を持ち上げて笑ってみせた。
「我がナザロフ国に相応の見返りがあると思って宜しいの?」
「成功したらな」
アンベールもファビエンヌに合わせて唇の右端を持ち上げて不敵に笑ってみせた。
ファビエンヌは書くものを用意させてサラサラとペンを走らせた。
センターテーブルの上に置いて、三人に見せる。
ナザロフ国の八つの品種の青果とその加工品と穀類の四つの関税の引き下げ。
二年前にバランド国西側で採れ始めた鉱物の七年間の輸出制限。その期間は他国への輸出禁止にし、ナザロフ国が独占すること。
この鉱物を使った合金で武器を作られると軍事力で売ってるナザロフ国が少々困る。だが、バランド国にこちらが許可を出すまで輸出するななんて言えない。なにか解決策が見つかるまで時間稼ぎがしたいが為に出した条件だ。
「さあ、王太子殿下。この条件を飲める程、マティアス・バイエは価値がありますか?」
この条件の中に書かれた数字は交渉時に減るのが分かっていて割増している。
それはお互いに分かっていたことだった。
アンベールが数字を減らし、バランド王も同様に減らして、半分かそれ以下になる。
アンベールはファビエンヌが吹っ掛けてきたことが面白くて声を出さずに笑う。
エクトルは自分の知る事業に影響がどれ程出るか考えている。
ジョルジュが物言いたげにファビエンヌを見てきた。
「第三王子妃の生国バルリングには少々都合が悪い条件だね」
エクトルが指摘する。
ファビエンヌはこの指摘をジョルジュがすると思っていたが、なぜか彼は黙っていた。
「この機会です。輸出する主要農産物の一部が競合しているバルリング国に輸出額で負ける可能性を潰したいのです。今年ナザロフ国に嫁いでくるクラリッサ王女には今後、万が一にもわたくしの頭より上に出られては困りますもの」
「お前は寵妃だし、それほど頑張らなくても良いんじゃないか?」
アンベールは兄の顔を混ぜて優しげにこんなことを言ってくる。全く性質が悪い。
この条件を飲もうとすればバルリング国とも話し合いが必要になって面倒くさいのだろう。その上でファビエンヌを揺さぶって弱らせることで有利に交渉しようとしている。バランド王の仕込みだ。嫌なことをする。
「それもバランドが強国のお陰だ」と殊勝な顔で言ったあと、ファビエンヌはこう続けた。
「けれど国の関係性が変わってしまったら? ナザロフ王に愛されていると、大切にされていると人は言うけれど、それが今のバランド国の威光込みでないと誰が言えるのですか? 安心なんて少しも出来ません。大陸内の情勢なんて変わるものでしょう?」
神前で誓いを交わしたナザロフ王の正式な妻はファビエンヌを含めて二人だが、それも今だけだ。
今年から若い王女がファビエンヌの次の妻として三年続けて入ってくる。
今後も必要なら有力国からの妻は増やす。正式な妻でなくとも属国を希望して王女を献上してくる国もあるだろう。
国の立場など変化していくもの。バランド国より力関係で勝る国が出てこないとも知れない。
今、ハーレムには他に六十三人の女が居る。
女は献上品。ナザロフ王の栄華が続く限り今後も増えていく。
そう思うと寵愛という言葉が虚しく響いて仕方がない。
いずれ風化してヒビ割れ、崩れていくと分かっているものを、どうして有り難く思えるだろう。
「それに、男の愛なんて水物だもの。そんな不安定なものに縋って生きていくなんて恐ろしいことは、わたくしには出来ない」
そう言い切るファビエンヌに王子達は癒えない大きな傷を見た。
ファビエンヌは自虐になろうが、自分についているだろう大きく醜い傷を曝け出すことで、ナザロフ国との結婚が決まってからアンベールがずっと持っていた罪悪感に爪を立てたつもりだった。これでアンベールは口を閉じるだろうと。自分をバランド国の駒として都合よく使おうとした仕返しのつもりで。
想定外だったのは、それで自分も少なからず傷ついてしまったことだった。口に出すんじゃなかったとファビエンヌは後悔しながら小さい溜め息をついた。
ジョルジュが痛ましいものを見るような目をファビエンヌに向ける。
「ファビエンヌ……きみは……結婚してから幸せじゃなかったの?」
質問の意味と幸せの定義についてファビエンヌは考えてしまった。
そのことで悪いことに返事をするのが大分遅れた。
「わたくしはあの国で十分に尊重されていて、王からおまかせ頂いている仕事もあって、三人子供も設けた。充実していると思いますわ」
だから幸せだと言っているようにも聞こえるが、ファビエンヌは幸せだとも、幸せじゃないとも言わなかった。質問の返事も遅れた。その事実にジョルジュの眉根は狭められ、目が引き絞るように細くなった。強く握りしめた両手が震えているのが見える。
様子がおかしいことに気付いたファビエンヌはジョルジュと目を合わせた。
瞬間、瞳の奥に熱が見えた。熾火のようなものが。
結婚前に初恋を無残に散らしただけという恋愛経験乏しいファビエンヌが気付いた位だ。アンベールもエクトルも当然気付いた。二人は難しい表情で顔を見合わせている。
初恋の女が幸せな結婚生活を送っていないと知ることが、どれほど男の心を揺らすのかファビエンヌは知らない。
ジョルジュは、ファビエンヌへの気持ちを大事に人に知られないよう心の奥深くに仕舞い込んでいた。
ファビエンヌが結婚した後も。子供を産んだと聞いた後も。自分が結婚した後も。
だから、これを機会に拗らせてしまっても全く不思議ではなかった。
アンベールとエクトルは、これから弟が面倒くさい行動に出るかもしれないことに怯えた。
言葉が通じなくとも分かることはある。
ナザロフ王がつけた番犬達の鼻は警戒すべき人間を嗅ぎつけた。
レオシュとパヴェルは鋭い目でジョルジュを見ていたのである。
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