第11話 物語の途中

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第11話 物語の途中

 ファビエンヌはバランド王宮内でタラサ・ステマ妃殿下と呼ばれた。  ナザロフ国から連れてきた近衛兵達は、国王の正式な妻の一人であるファビエンヌが王族以外の人間に名を呼ばれることを不敬だと言って嫌がった。  国外にハーレムの女が出るのは初めてのことで前例もないし、それ以外の相応しい呼び名もないので仕方がない。文化の違いと思って諦めるようにとファビエンヌは良く言い含めておかなければならなかった。  公爵令嬢として王宮に出入りしていた頃と違い、変わってしまった立場相応の不自由さはあった。だが、それが何だというのだろう。広く豪華な籠の中で五年暮らしてきたファビエンヌは充分開放感を味わった。  ファビエンヌを歓迎する夜会はバランド国に着いてから六日目に予定通り開催された。  用意された民族衣装では、少し重く引きずってしまいダンスは到底踊れない。  ファビエンヌは帰国連絡をした際に、伯母で義母でもあるバランド王妃に夜会服の用意を頼むために体の詳細な数字も書き込んで別途手紙を送っている。  ドレスに合わせても不自然にならない髪飾りと首飾りもナザロフ国からも持ってきた。ナザロフ王の髪と瞳の色である黒い宝石で出来たものだった。  夜会の準備として揃えられた夜会服や装飾品の数々を前にファビエンヌは心躍らせていた。  だが、この美しいドレスで身を飾る喜びの裏には苦しみもあるのだとすぐに思い出すことになる。懐かしくも忌々しいコルセットがファビエンヌを苦しめたのだ。  これは女の喜びには常に相応の苦しみが伴うという良い例だった。  複雑な編み込みを混ぜた金髪は結い上げられ、黒い宝石が散りばめれた繊細な細工の髪飾りが侍女の手でつけられた。  黒い宝石を大小組み合わせた首飾りがファビエンヌの白く滑らかな首やコルセットで持ち上げられた胸元を艶かしく飾った。  髪飾りと首飾りが豪華なので、耳飾りは黒真珠のシンプルなものをつけた。  練香をほんの僅か薫る程度に手首と耳の後ろにつけたあと、お気に入りの香水を外に向かって吹き付けると、その芳しい霧の中を何度も潜った。  支度の終わったファビエンヌはドレスの裾を摘んで少女のように鏡の前でくるり、くるりと周る。  こんな子供っぽい真似をしたのは、デビュタントのドレスを着たときが最後だった。  もう一生、ドレスを着ることも、夜会に出ることも、ダンスを踊ることもないと諦めていたのだ。嬉しくて仕方がない。  今夜は何回踊ろうかと考えて、これもデビュタントのときに考えたことと同じだと気付き、ファビエンヌは少女の頃のように笑った。  王太子と第三王子は、それぞれ妃をエスコートし、第二王子は婚約者も恋人も居ないので義妹であるファビエンヌのエスコートをすることになった。  小宮殿に向かう途中、懐かしい顔を見つけた。あの日、学園の中庭での茶番に付き合わせてしまったクレマン・ドルイユだった。彼は近衛騎士の制服を着たグループの中に居た。どうやら今日の夜会の警備を勤めるようだ。仕事の邪魔をしないようにファビエンヌは声をかけずに微笑んで小さく手を振るだけに留める。目があったドルイユからは小さな笑みと胸に手を当てて腰を落とした挨拶が返ってきた。  大広間の大きなドアが開かれて王太子と王太子妃の後ろに着いて歩く。  広間にはファビエンヌの幼馴染や友人知人と懐かしい顔が多くあった。実親であるエマール公爵夫妻が割と近くに居て、ファビエンヌは目が合うと小さく手を振った。  先に来ていたバランド王は手招きしてファビエンヌを呼び寄せると肩を抱いて招待客に向けて言った。 「ここに居るのは強力な同盟国ナザロフの王と結婚し、それに際し養女にして我が娘となった王女ファビエンヌである。王女は結婚するにあたって改宗し、あちらの大司祭から海の王冠という意味の名を与えられている。皆これからはタラサ・ステマ妃殿下と呼ぶように」  了承の返事として貴族たちは腰を落とした。ザッという衣擦れの音がする。 「タラサ・ステマは嫁いで以来ナザロフ王から寵愛を受けている。それに奢らず夫と国を支え続けた。その強い愛と信頼の元、タラサ・ステマの希望は叶えられて、こうして慣例を破っての里帰りを果たした。我が国への滞在は約一ヶ月。それまで旧交を温めるといい」  話し終わったバランド王に促されてファビエンヌも二言三言当たり障りの無い挨拶した。  拍手が巻き起こってそれがゆっくり静かに静まると、ファビエンヌは自分の元に寄ってくる招待客である他国の王族貴族達に挨拶をしていった。  それが一段落したら次は上位貴族たちからの挨拶を受けなければならない。その前にとシャンパンで喉を潤しているとき、エクトルが少し身を寄せてきた。  エクトルが白い手袋をしている軽く握った右手をさり気なく自分の口元にあてた。  この動きで、なにか耳打ちしようとしていると気付いたファビエンヌは手に持った扇を口元にあてる。 「ファビエンヌ。顔を動かすな。奥の壁側の右端に見える男女がバイエ伯爵夫妻だよ。人が避けているから分かるだろう?」  その盛装した男女を観察するのは容易だった。見事に人が避けていた。 「あれが……?」  記憶の中にいるマティアスとは明らかに違っていた。だがファビエンヌにとっては全く別人という程でもない。  以前はどちらかというと細身の部類に入ったが、今は遠目に見ても礼服で覆われた肩や胸、腕周りにそれなりの太さが感じられる。  元々マティアスは美貌で名高い男だったが、それにある種の凄みが加わった。  以前はあれが神の作りたもうた完成品と周りに思われていたが、今の無駄なものを削ぎ落とした美をみると、それが違っていたのだと分かる。  世間知らずな男が味わった落差の激しすぎる人生。命のやり取りがある北の砦で兵士の仕事。谷底への落下に等しい生活レベルの低下。堕ちた元貴族令息をカモと見做す者、貴族への反感を暴力として表現する者が多くいたのは想像に難しくない。きっと安寧とは程遠い日々がマティアスを磨いた。 「ファビエンヌ。見すぎだ」  エクトルから注意が入って、ファビエンヌは扇を下ろしてシャンパンをまた口に運んで目を伏せる。  ジョルジュは地獄の空気を纏った死人と称していたが、さすがに大袈裟だと思った。ただ、禍々しい空気は感じる。それを地獄の空気というならそうかもしれない。  ベールのように纏っている禍々しさも美しく感じるのはマティアスの美貌のせいだろう。それが余計、人の輪の中にマティアスを受け入れてはいけない気持ちにさせているのかもしれない。  遠巻きに見ている幾人かの若い女がマティアスの毒に中てられて頬を染めていた。もしかして、これが一部から嫌厭されている主だった理由ではないかとファビエンヌは疑った。  きっと何からの干渉も受けまいと心を閉じている。その壁が厚いので誰とも交われない。誰とも交われないので心は冷えたまま。それは、ファビエンヌがそうなればいいと望んだままの姿だった。  その後も里帰りした王女に挨拶をしたい貴族たちに囲まれた。一通り挨拶はして義務は果たした。  バイエ伯爵夫妻も挨拶に来ていた。ところが挨拶を受けるファビエンヌより周囲の方が何倍も緊張していた。  ファビエンヌが間近で見たマティアスの瞳は、まるでガラス玉のようだった。何も瞳に映していないとさえ思わせた。婚約者として四年も一緒に居たのに心温まる思い出話をするでもなく、マティアスとの再会は単なる挨拶を交わすのみで無感動に終わった。  マティアスの右腕に縋っている伯爵夫人は、品は良いが普通の容貌の女だった。  夫の神経が並でなかったとしても、妻が普通の神経の持ち主だった場合は不幸でしかない。ましてや、伯爵夫妻は容姿の釣り合いが全く取れておらず、これも周囲からあれこれ陰口を言われる原因になるのは明白だった。それを思うと伯爵夫人が気の毒に思えるほどだ  そのことだけが原因ではないのだろうが、綺麗に着飾り頑張って作った微笑みからは精神的疲弊が滲んでいる。アンベールが伯爵位を継がせる時に血筋の良い訳ありな女を宛がったと言っていた。愛し合っているようには、とても見えない。  挨拶に来る人を捌く合間にファビエンヌはエクトルと踊り、アンベールやジョルジュとも踊った。  ジョルジュがファビエンヌをダンスに誘おうとした時、アンベールから何やら耳打ちされていた。ジョルジュは珍しく兄を煩そうに手で追い払う。  ファビエンヌはそれを訝しく思っていたが、アンベールが鬱陶しくて、思わず手で追い払ってしまいたくなる気持ちは分かり過ぎるほど分かるので何を言われたかは聞かなかった。  そろそろ疲れが出て笑顔を維持できそうにないとファビエンヌが思っていたとき、エクトルが丁度良くシャンパンを渡してきた。  エクトルは人を観察するのが趣味なので、それが良い方向に傾いている間は誰しもが感心するほどの気の利く男に変わる。ただ、残念ながら変態というのは隠しきれずに知れ渡っている。見た目は悪くないしこの国の王子のひとりだ。夜会に行けばそれなりにチヤホヤはされる。だが、王子妃という素敵な餌があっても精神衛生を大事に考えている令嬢たちは一歩踏み越えてこない。  そんな少し残念なエクトルの腕を借りて、ファビエンヌがシャンパンを飲みながら会場内を見渡しているとき、バイエ伯爵夫妻を見つけた。  冴えない顔のバイエ伯爵夫人が壁側に置かれたスツールに座り、美しいマティアスがその横に立っている。生きている気配なく、置物のように。そして、その周囲は切り取ったかのように誰もいない。  それが、なんだか象徴主義の絵画のようにも見えてくる。  ファビエンヌはエクトルの袖を引いて目で合図をする。勿論、勘の良い義兄は分かってくれてファビエンヌを目的のところまで連れて行ってくれた。  だが、エクトルの勘はそこまでだった。少しマティアスと話がしたいだけなのかと思っていたのだ。だからファビエンヌがマティアスの前についと右手を突き出したことで彼は少し慌てた。 「バイエ伯爵、踊っていただける?」  ざわりと周囲の空気が動く。傍にいたバイエ伯爵夫人とエクトルがファビエンヌを止めようとした。  それより早くマティアスはファビエンヌの差し出された手を掴んで、その場に片膝をつくと指先に口づけをした。 「わたしでよろしければ喜んで」  マティアスが応じた為、さらに周囲が騒ぎ出す。  困惑したファビエンヌはマティアスに手を掴まれたままエクトルの傍に寄って、こっそりと耳打ちする。 「ダンスに誘ってはいけなかったのですか?」  エクトルの返事を聞く前にマティアスは軽く手を引いてファビエンヌを近くに寄せると代わりに答えた。 「北の砦に居た頃、脚に怪我をしましてね。以来ダンスは断っていたのです。だから周囲が驚いた。それだけですよ」  ファビエンヌは心底申し訳無さそうな顔をする。 「ごめんなさい。わたくし、聞いていなくて……」 「問題ありません。同盟国から来られた妃殿下のお誘いをお断りするわけがない。では、行きましょう」  ファビエンヌの右手を自分の曲げた左肘にかけたマティアスはホールの中央に向かって歩き出す。  マティアスは表情を動かさないので出来の良い彫刻のようだ。  ファビエンヌは彫刻にエスコートを受けているような不思議な気持ちに陥った。  歩行はとてもスムーズで脚を怪我しているようには見受けられない。  音楽が始まりファビエンヌとマティアスは向かい合って腰をかがめて礼をした。  そのまま互いに一歩近づくと同時に肘を上げる。マティアスは左手でファビエンヌの右手を軽く握るようにして繋いだ。  ファビエンヌにとって、とても懐かしい感覚だった。四年間数え切れぬほど一緒に踊ったのだ。馴染んだ角度と位置を体が覚えていた。  マティアスは右手をファビエンヌの肩甲骨に添わせ、ファビエンヌは左手を以前より太くなっているマティアスの右腕の上に乗せた。  音楽に合わせて踊りだしてすぐにリードする動きの不自然さにファビエンヌは気付いた。思わず顔を見る。ああ、という顔をしてマティアスは言った。 「以前より右脚に力が入らないのです。昔のようには踊れませんが、決して妃殿下にはお怪我をさせません」  声に温度があるというなら、今のマティアスの声は凍りはしない程度の温度だった。恐らくこれでも気を使っているのだろう。  ファビエンヌは力が入らないという右脚を補助しようと決めた。  周囲に気付かれないように極力マティアスに体重を掛けないように踊る。  それに気付いたマティアスはファビエンヌを窘める。 「妃殿下。無理に力をかけると体を痛めますよ」  エスコートする女に恥をかかせないのが紳士。  エスコートしてくれる男に恥をかかさないのが淑女。  女の体も支えられない男だと思った訳じゃない。  それより外からどう見えるかの方がこれからのマティアスにとって重要だろうとファビエンヌは考えた。  だからファビエンヌは、この忠告をよく分からないという顔をしながら無視して踊り続ける。  マティアスが上手くリードしていると見えるように。力及ぶ限り、より優雅に、より美しく見えるように踊った。  ハイヒールを履いているのだ。脚の変なところに力は入るし、コルセットが無理のある姿勢を支えてはいたが腰や背中の一部が痛む。  マティアスは元婚約者の強情を止めるのは諦めた。  無理をして重心がズレてふらつき転ばせてしまうことを恐れたのかもしれない。  少ししっかり目にホールドすることで対処するようだ。  右脚さえ問題なければ、マティアスは以前と変わらずリードが上手い。  ファビエンヌは目の前にいる元婚約者をそれと分かるようにじっくり観察したりはしなかった。こうして踊っているだけでも分かることは多い。  握る掌に違いを感じる。マティアスの掌は手袋を通しても少し固い。何年も剣を握って生きていたせいかもしれない。  背丈は変わらないように見えるのに、全体的に大きく見える。  胸板も厚くなり腕も太くなった。北の砦での生活はどうだったんだろうか。まだこれほどの体型を維持しているなら今も鍛錬しているのだろう。  ときどき、胸元から懐かしいコロンの香りと、あの頃にはなかった煙草の匂いが鼻をかすめた。自分がそうであるように、マティアスも完全に大人になったという事実に胸がうずく。  今、つけている香水は、あの頃のものと重ねている。彼はそのことに気付くだろうか。  これらの夢想はマティアスが話し出すことで止まった。 「妃殿下。わたしは貴女に謝罪すべきでしょうか」  ファビエンヌは繋いでいる手や胸元だけを見ていた目をマティアスの顔に向ける。  無機質に見える瞳からは何の感情も読み取れない。  ファビエンヌにとって、あの学園の中庭で断罪した日がマティアスを見た最後になっていた。  謝罪の手紙が来ていたらしいがファビエンヌには渡されず中身は知らない。  もしかして謝罪したいのだろうか。ファビエンヌは真意を窺うように少し首を傾けながら言った。 「バイエ伯爵。わたくしはそれを聞くべきでしょうか」  ふっと皮肉な笑いがマティアスの口元に浮かぶ。  モノクロの絵に突如色が現れたような強烈な印象をファビエンヌに与えて、それは浮かんだのと同じく唐突に消えた 「今更でしたね」  ぽつりと言うとマティアスの顔からは再び表情が消えた。  また二人は互い顔も見ず、無言のまま踊り続けた。  曲は終盤へ向かっていた。こうして一緒に踊る時間も、もうすぐ終わってしまう。ファビエンヌは焦りを感じながら軽く握られている手に力を加えた。 「わたくしを……恨んでいらっしゃる?」  恨まれていても仕方がない。あの中庭で衆目のある中、派手に断罪したのは確かにファビエンヌなのだ。 「わたしが? わたしを恨んでいるのは貴女でしょう?」  ファビエンヌが顔を上げるとマティアスと目が合う。  あの日マティアスが恨めしいと初めて思った。  けれど、全く違う理由でマティアスを恨めしく思い、それが以降ずっと続くものだとは、あの日のファビエンヌは思いもしなかった。 「わたくしが真実、貴方を恨めしいと思ったのは……」  言おうか言うまいかを迷っている間に曲が終わってしまった。  互いに向かい合って腰を落として礼をし合う。  二人の空間に先程言いかけてやめた言葉が宙に浮いて残っているようだった。  マティアスはファビエンヌが言いかけて止めた言葉の続きが気にかかっていた。  貴族に戻されたからといって自分の罪が消失したとは思っていない。  実際、自分が原因で婚約や結婚が無くなり、望まぬ所に縁付くことになった者たちからの恨みは買っていた。そして、それは五年経っても無くなっていないのだと実感するだけのことがマティアスの身には起きていた。  だから余計、ファビエンヌが何か思うところがあるなら聞いておきたい気持ちがあった。  ファビエンヌは、その話の続きはしなかった。その代わり些細な願いを口にする。 「――バイエ伯爵。次お目にかかれた時、またダンスにお誘いしても?」  元より断れる筋じゃないマティアスは了承する。右脚は確かに力が入り難くなってはいるが、女からダンスに誘われるのが面倒で言い訳に使っていただけだ。 「もちろん喜んで。それより、さきほどはなにを……」  話の続きはファビエンヌの横から伸びてくる手が遮った。  ジョルジュだった。突然だったのでファビエンヌも二度三度と目を瞬かせる。 「エマール公爵夫人がきみを探していたよ。さあ、行こう」  少し強めに手を引かれたファビエンヌは、ジョルジュの背中に隠される。 「失礼するよ。バイエ伯爵」  今の台詞をどんな顔で言ったのかファビエンヌには見えなかった。  極寒とも思える冷えた声を出すジョルジュが少し怖いと思った。  ジョルジュは手を引いたまま先を歩き、ファビエンヌを会場の外に連れて出た。 「あの……お母様はどちらに?」  声をかけているのに振り向く様子のないジョルジュが少しおかしいと思い始めたとき、背越しにエクトルの声がした。 「ファビエンヌ、こっちだよ。わたしが連れて行こう」  ジョルジュが掴んでいたファビエンヌの手はエクトルにもぎ取られる。 「ジョルジュ、悪かったな。後は、わたしがエスコートするよ。お前は自分の妃のところに戻れ」  弟の返事を待たず、そのままエクトルはずんずんと元来た通路を戻っていく。  会場を出て少し歩いただけなので扉の前にはすぐに着いた。 「もう絶対にジョルジュと二人きりになるな。お前を連れ出した理由は多分嘘だ」 「え? わたくしに何かするというの? まさか」  エクトルは答えなかった。答えられなかった。何もないかも知れないが、何かあっては困る。  ジョルジュは抑圧的な男だ。その男から一部開放されたものがあったとして、抑圧された分の勢いがファビエンヌに向かっていくのは想像に難しくない。  同盟国の王女と政略結婚して間がないし、これが元で不仲になっても困る。  万が一にもファビエンヌに手でも出されたら、父王宛の手紙に書かれていたような冗談交じりの牽制では済まず、ナザロフ王は怒り狂って武力を持って報復してくるに違いない。  余りファビエンヌに構うなと珍しく長兄アンベールが注意をしたが、ジョルジュも珍しく煩そうに兄をあしらったと聞く。  王族として兄弟三人とも厳しい教育を受けてきた。愚かな真似をするはずがない。  そう思ってはいてもマティアスのように女で人生に失敗するやつは居る。弟がそうならないなんて保証はない。  子供の頃から実の妹とも思ってきた義妹が思いがけなく里帰りしてきて嬉しいが、こんな心配が生じるとはエクトルも思っていなかった。  硬い表情のエクトルの顔が柱の陰を見た瞬間、安心から緩んだ。  ファビエンヌの警護として来ているナザロフ王の近衛兵が四人、気配を消して陰のようにずっと着いてきていた。  ファビエンヌはエクトルの視線の先を見て近衛兵達が居たことに気付く。 「あら。いつから、いたの?」 「大広間を出るときです。碧の妃殿下」  彼らは既に第三王子を警戒対象として見ていたのでファビエンヌを連れて出て行くのを黙って見送るわけがなかった。  番犬の存在で気分が軽くなったエクトルは明るい顔で、ファビエンヌに元婚約者とのダンスの感想を求めた。 「ところでどうだった? 死人とのダンスは。――だけど、あんなに喋っているマティアスは久しぶりに見たよ」 「ダンスは変わらずお上手でしたが、お話は殆どいたしませんでしたけど?」 「単語だけで会話してないって所がもう凄いんだ。そもそも人と会話をする気が余りないみたいだ。マティアスは」  そんなことで社交できるんだろうか。ファビエンヌは素朴な疑問が浮かんだが、どうしているのかは後で知れた。  国外からも客を招いたファビエンヌの里帰りを歓迎する夜会は三日間続いた。  それ以降は主催者を変えながら王宮の夜会が幾つか開かれ、シーズン中であることもあってファビエンヌへも招待状が次々に届いた。  そして、元婚約者の誼みでファビエンヌがダンスに誘ったことで、バイエ伯爵の元にも多くの夜会の招待状が届いていた。  ファビエンヌは夜会でマティアスに会うたびにダンスに誘った。  勿論、マティアスは誘いを受けた。  彼は夜会での面倒ごとを避ける手を早々に打った。  長い間、パートナーを努めていたファビエンヌが相手なら、脚の調子を考えて一晩で一回だけなら踊れると公言したのである。  バイエ伯爵とのダンスを夢見ていた若い令嬢は誘いをかけられず遠巻きに見つめることしか出来なかった。  再会後の初めてのダンスと違い、踊っている間の会話も少しづつ増えた。  踊った後もエスコート役の王子達や実父のエマール公爵を交えて少し会話をするようにもなった。王家もエマール公爵も今のバイエ伯爵に思うところはないと周囲が分かったようで、会話の内容を聞きたい、隙あらば参加したいと傍に寄ってくるようになった。  それでも直接マティアスに話しかける者は殆ど居ない。バイエ伯爵の腹話術師の役は妻の伯爵夫人が担っているようだ。これでは夜会の度に疲弊するだろう。バイエ伯爵夫人の冴えない顔の理由が分かった。  それでも少しづつ貴族はマティアスに歩み寄りを見せているのが分かり、ファビエンヌはそろそろだと思ったのだ。  だからファビエンヌはこの夜会で夜公演(ソワレ)をすることを決めた。今回は小さなものなので助演は求めない。ファビエンヌがソロで演じるのだ。  ファビエンヌは声量を出さなくとも、かなりの範囲の人の耳に届く発声を使ってマティアスを呼んだ。 「バイエ伯爵」  少し離れた場所で話をしながら、こちらを窺っていた貴族たちの耳にファビエンヌの声が届いた。  彼らは話すのを止めた。目を向けないようにしながら聞き耳を立てはじめた。 「久しぶりにお目にかかって、わたくしお尋ねしたいことが出来ましたの。お聞きしても?」 「どうぞ」  マティアスは、どんなことかも聞かずにすぐに了承の返事をする。 「貴方はマティアス・バイエとしてご自分で一旦ピリオドを打ってしまわれたのではありませんか?」  不可解なことを言われてマティアスは片眉を上げる。 「どういう意味です?」  ファビエンヌは周囲をゆっくり見渡して貴族たちの注意を引きながら話しだした。 「マティアス・バイエは侯爵家の嫡男に生まれて、輝かしい未来が約束されていました。でも、ある日悪女に騙されて明るく正しい道から足を踏み外して全てを取り上げられた。罰として突き落とされた先で、失われたものを指折り数えて後悔し続ける平民マティアスは、とても寒い北の砦で盗賊や他国からの侵入者を討伐すべく剣を交える危険な日々を過ごした」  マティアスの無表情にほんの僅か不快げな色が浮かんだ。石膏で作られたと思しき動かぬ表情が動いたのだ。よっぽど不快に思ったのだろう。  ファビエンヌは首を傾げて、その顔を窺うよう見ながら言った。 「その時点で終わったと思われたのでは?」 「そうですね……」  周囲に意識を向けてみれば貴族たちはジリジリと、話をしているファビエンヌ達の傍に近づいてきている。 「そして、疫病が流行ってバイエ家は領主につくに相応しい直系親族を亡くし、皮肉にも除籍されて北の砦に飛ばされていた貴方は生き残られた」  またもファビエンヌは周囲をゆっくり見渡す。そのとき、こちらを見ている貴族たちに目を合わせることで話を聞いても、こちらに近づいても大丈夫だと分からせる。  ファビエンヌは、声のトーンを下げた。 「――お祖父様とわたくしの前に婚約されていたご令嬢も同じ病で亡くされたのですってね」  マティアスは返事を声に出さず、こくんと頷く。ファビエンヌも頷き返す。そして、少し間を空けた。 「バイエ伯爵領は、バランド国にとって重要で統治する人間を選ぶ領地の一つです」  そう少し低く強めの声でファビエンヌが言うと、周囲の貴族たちが深く頷く。 「だから貴方は王命で貴族に戻された。その身に受けていた教育と血のために。そして一年の間、貴方は新伯爵として領地を建て直されたと聞きました」  アンベールから聞いた話をなぞっているだけだった。貴族たちにも知られた話だろうが敢えて強調して言った。  感心したように頷きながら体をこちらに向ける貴族が多くなった。  ファビエンヌは、強弱をつけ、緩急をつけ、止めるところ、伸ばすところが、これしかないと言うような見事な話し方で語った。 「不思議だと思われませんか? 貴方が悪女に騙されずにいて今も嫡男だったら、他のご家族とともに疫病で亡くなられていたかもしれない。すべてを失って後悔の日々が無かったら、一年で伯爵領を立て直すために今のような情熱で心血を注げたでしょうか?」  マティアスは少しだけ目を動かして、思った以上に注目を浴びていることに気付いた。急いで目線で話を止めるように合図するもファビエンヌはそれを無視した。 「あの苦しみ、あの挫折は、この日の為にあったのかもしれないと思える瞬間は誰しもあるそうですわ。乗り越えるべき山に挑める実力をつけるために、まるで神が用意された試練のようだと」  ファビエンヌの声が届くところに居る貴族たちは、話を聞き入っている。 「マティアス・バイエの物語は終わっておらず、今も途中」  声のトーンを上げたファビエンヌは、マティアスの肩に触れた。 「アンベール王太子殿下が次期国王として貴方の能力を高く買っておられるの。苦労したからこそ得られるものがあって、それを貴方は伯爵領で証明していると仰っていたのは王太子殿下なの」  貴族たちの口から感心したような声が聞こえてくる。 「婚約していたときに教えて下さった、貴方が小さい頃から描いていた夢と今は爵位は変わってしまったけれど、王太子殿下が即位したあと、功績を残して陞爵し、元の爵位を名乗る日が来るかもしれませんわね。貴方はこのまま充実した人生を送って、天に召されるときに物語の終わりとされたらいかが?」  いつの間にか近くで話を聞いていたアンベールと目があった。  満足そうに頷いたところみると王太子殿下はこの夜公演(ソワレ)に満足したようだ。  そして、これは夜公演の次の夜会のことだった。  ファビエンヌがマティアスをダンスに誘ったときには確かにいたのに戻ってきたら伯爵夫人が居なくなっていた。 「ああ、心配いりませんよ。愛人と中庭に出ていくのが見えました。暫く戻ってこないでしょう」  それは何と言っていいか分からない。確かバイエ伯爵夫妻にはまだ子供も出来てなかったはずだとファビエンヌは記憶を辿る。 「別の胤で孕むなと注意はしていますし、妻の動向は把握しています。わたしの子供は産んでもらいますが、そこに愛はなくていい。もうわたしには要らないものです」  妻の不貞にも全く痛みを感じていないように見えた。  そしてファビエンヌにはマティアスが本当にそう思っているのが分かった。 「……少し、お話できるかしら?」  言いながら、離れたところで令嬢達に囲まれていたエクトルにファビエンヌは目配せする。  エクトルはファビエンヌの希望通り令嬢たちとの話を上手く切り上げて傍まで来てくれた。 「テラスで少し話がしたいのです。二人きりだと問題でしょう?」  そう頼んでみると快く了承したエクトルは、ファビエンヌをエスコートしたマティアスと共にテラスに向かう。  テラスの入り口では護衛を立たせて誰も入れないようにした。  ファビエンヌはテラスに着くなりバランド語で言った。 「貴方を絶対に騙さず裏切らず、貴方に不変の愛を持っている女を紹介します」  少し離れたところで聞いていたエクトルは、それは自分だとファビエンヌが言い出すのではないかと内心ハラハラしていた。  マティアスの口に皮肉な笑いが浮かぶ。 「お言葉ですが、絶対も不変もそんな女も、この世には存在しませんよ」  それを聞いたファビエンヌの顔から染み出すようにゆっくり笑顔が広がった。 「いいえ。その女は確かに居ます。――婚約していた時のわたくしですわ。マティアス様」  マティアスは勿論、予想を裏切られたエクトルも驚いて目を瞠る。 「あのときのわたくしは真実、貴方だけを愛していました。貴方はわたくしの初恋の人なの」  そういってファビエンヌは少し恥ずかしそうに俯く。  従兄弟たちや家族ではない人とダンスを踊ったのも、抱きしめられたのも、キスしたのも、全て初めてはマティアスだった。  そこだけを切り取って考えると甘酸っぱい思い出だ。  だが甘さが一切ない苦い思い出がファビエンヌの顔を曇らせた。 「貴方に裏切られたと初めて知った時も、裏切られ続けた日々も、ただただ悲しかった。――信じてください。婚約者だった時のわたくしの気持ちを。そうでないと、あの頃のわたくしが可哀想」  そう言ってファビエンヌが辛そうにすると、マティアスはあの頃の自分の行いと転落したその後を振り返る。  尽きぬ後悔と罪悪感に心を塗りつぶされる日々。愚かな行いが招いたその結果と、それをどうあっても変えられぬ理の無情を嘆いた。マティアスは婚約者だったファビエンヌのことは時々思い出していた。あの時は良かった。あのまま居たらと。やはり後悔と共に。  北の砦での血と暴力と色が彩る裏切りと騙し合いの日々とは全く掛け離れた、戻らぬ輝かしさの象徴としてマティアスは心の中でファビエンヌを扱っていた日もあった。 「過去は変わりません。だからこそ、そこに絶対と不変がある。あの頃のわたくしは安全ですわ。貴方を決して裏切って傷つけたりしません」  冷たく乾いていた心の大きな傷に掛けるためのファビエンヌが選んだ温かく優しい言葉だった。  マティアスは安全という言葉を聞いて心が溶けていくように感じた。決して裏切らないという言葉にも。あれほど酷い裏切りをしても婚約者だったマティアスだけを愛していた過去の自分を胸に抱いていても良いとファビエンヌは言っているのだ。  罪悪感が胸に棘を刺してマティアスの顔を歪ませる。 「セシル・ラカンの裏切りと貴方が味わった酷い数年間が原因で、これからも貴方は誰も信じないかもしれない。誰も愛さないかもしれない。でも、ときどきでよいので婚約者だった頃のわたくしを思い出して心を少し温めるのにお使いくださいね」  ファビエンヌの言葉は届いていたが、マティアスは誰も何も見ていなかった。物思いに沈んだまま宙に視線を彷徨わせていた。  あの中庭でファビエンヌが去った後、マティアスはこれほどの不幸が自分を待ち構えていたのかと恐れおののくほどの長く辛い時間を過ごした。  失ってしまったもののことを考えずにはいられない。家族、信頼、次期候爵の座、そして愛も。  セシルは自分を真実愛していると言って心だけじゃなく貴族の令嬢が最も大事にすべき体まで捧げてくれた。あの時は間抜けにも信じてしまったが、マティアスは他の女を多く知ることで、セシルが既に純潔ではなかったのだと知った。  マティアスは気付けば心が冷えているせいで自分の表情も言葉を紡ぐ唇も凍っているように感じるようになった。慣れきってしまった感覚だ。もう寒いとも感じなくなっている心に、ファビエンヌは温かなものを預けてきた。持っていていいのだろうか。本当に。そんな心の葛藤がマティアスの中で生じた。  ファビエンヌはエクトルに向かって頷くことで話が終わったことを告げた。  そして、傍を離れることを知らせる為に、物思いに耽ったままのマティアスの肩にそっと右手を置いた。その手の上にマティアスの手が同じ様にそっと重なる。  ファビエンヌは大きな背中に左手を添えて軽く二度叩いてから重なった手を静かに引き抜いてテラスを後にした。  その次の夜会で、近衛兵達の警戒対象にマティアスが加わった。  ナザロフ王から直々にファビエンヌを守るように命じられている近衛兵レオシュの目が眇められる。レオシュは自分が守るべき王の寵妃のことをこの男がどう思っているのかを一目で理解した。  ナザロフ王の寵妃タラサ・ステマの傍にいる時にだけ、マティアス・バイエは呪いが解けて人間の男に戻る。そう噂され始めたのは、この日からだった。  その夜もダンスが終わると伯爵夫人の姿は消えていた。ファビエンヌが相手をするからと姿を消すことで楽をするつもりなのかと疑わしいくらいだった。マティアスはそんな妻の行動を気にしていないようだ。  二度目のダンスに誘われて断りきれずにファビエンヌは手を引かれて、またホールに戻った。  初めの頃の違和感は薄まって、力の入れ具合がお互い分かってきて踊っていて疲れることも余り無くなった。このまま踊っても問題ないだろうとファビエンヌは思った。 「あのとき何も起こらなければ、今頃侯爵夫人として貴女を伴っていたかもしれませんね」  もうこの頃にはダンスを踊っている間だけ、かなり長い会話をするようになっていた。  どういう心境の変化か今夜は踊りながらマティアスがこんなことを言ってくる。  ファビエンヌはそれに乗った。    ゆったりした曲だからとマティアスは二度目のダンスに誘ったようで、長く話をしていても息切れすることもない。 「侯爵家に嫁いだわたくしは社交に勤しんでバイエ侯爵家の夜会に呼ばれることが国一番の名誉になるように頑張るんです。そしてマティアス様に似た美しい男の子を二人、女の子を一人産むの。それから――いつかバイエ侯爵夫人として貴方とこうして夜会で踊る――のですね?」  目を合わせて、ニコリと笑いあう。でもすぐにファビエンヌはその笑顔を消してしまう。 「でも、きっとそうはなりませんでした。ナザロフ国からの結婚の打診は遅かれ早かれ来たと思います。あの国は王が代替わりして強国との繋がりを求めていました」  これは本当のこと。 「だから、結婚の打診があれば王家からわたくしに心の準備をしておくようにとすぐに連絡が入ったと思います。そして、結婚の話が水面下で動いて準備が整うまでは公にされず、バイエ侯爵家にも伏せられていたでしょうね」  これはマティアスは今も知らない実際あったことだ。 「わたくしは一緒に過ごせる残りの時間を日々数えたでしょう。そして瞬きを惜しみながらマティアス様を見つめて、思い出を沢山作ろうとしたと思います」  セシルのことがなければ、実現した。本当はそうしたかった。いつ正気に戻ってくれるのかとファビエンヌはあの頃ずっと待っていた。そうなったら短い間だけでも希望は叶っただろう。 「そして、その思い出を胸にわたくしは祖国から遠く離れる。夫となった王のハーレムに入って多くの女の中で生き、辛い時には胸に仕舞ったマティアス様の思い出を取り出して、何度も自分の心を慰めたでしょう」  ファビエンヌの心は意志に反して、いつでもマティアスを慰めに使おうとした。  ナザロフ王が他の女を抱いた手で、またファビエンヌに触れると分かったときに。  そして記憶の中にあるマティアスでは慰めはいつも得られなかった。 「でも、そうはならなかった。辛い時に思い出す貴方は、あの頃のまま、わたくしを見てはくださらなかった。そのことをずっと恨めしく思っていました」  マティアスは辛そうに顔を歪めて、ファビエンヌに触れている背中に置いた手と握っている手に力を込めた。  そしてこれは、また別の日の夜会でのこと。  到着したばかりのファビエンヌは王太子が呼んでいると家令に言われて案内された客室に入った。  そこでアンベールにお役御免を告げられた。元婚約者ファビエンヌの活躍のおかげで、一度人生の奈落に落ちて奇跡の復活を遂げたマティアスは社交界で問題なくやっていけそうだ。もう結構だと。 「………まあ。そうでしたの。それは良かったわ。でも、また夜会で会ったらダンスにお誘いするくらいは宜しいでしょう?」  アンベールは無邪気過ぎるファビエンヌに対して顔をしかめると大陸共通語でナザロフ王の近衛兵達に告げた。 「こいつは男を分かってない。十分注意しろ。絶対にひとりにするな!」  ナザロフ王の命令以外聞かないはずの近衛兵達はアンベールの言葉に深く頷く。  ファビエンヌは護衛のまえで子供扱いされたことが腹立たしくて苦情を言った。 「デビュタントの女の子みたいな扱いをしないでちょうだい。わたくし、もう大人で人妻なのよ!」  ファビエンヌが怒って言葉を乱しながら言うと、アンベールは面倒くさそうな顔をする。 「あー、分かった分かった。悪かった」  アンベールは犬の相手をしているようにファビエンヌの頭を盛大にグチャグチャと撫でて部屋を出ていった。  突然そんな扱いを受けたファビエンヌは声にならない悲鳴を上げた。 「誰かっ――侍女を呼んでちょうだい!」  こんな風にされては、髪を整えないと部屋の外にでられない。鏡で見る自分の姿はとても惨めで思わず涙目になってしまう。  そのファビエンヌの足元にレオシュは跪く。 「恐れながら、碧の妃殿下。少々ハメを外し過ぎではございませんか? ナザロフ王陛下のこともお考えください。陛下は妃殿下をそれは深く想っておられるのですよ」  ファビエンヌは今とても機嫌が悪かった。むっつりとしながら言う。 「陛下のことは日が沈んだら考えないようにしているのよ。わたくしが夜にひとりで居るということは、陛下が別の女のところに居るということなの。だからわたくしは夜会の間は陛下のことを考えません」  それを聞いたレオシュを始めとした近衛兵達は肩を落とす。  剣と体術が幾ら出来ても何の役にも立たない。そんなものでファビエンヌに言うことを聞かせることは出来ないのだと、近衛兵達は無力感に襲われた。 「貴方達がわたくしを見張っていて帰国後、陛下に報告するのは分かっていることよ。これは、わたくしからの陛下へのお土産なの。黙ってみていらっしゃい」  近衛兵達は意味がわからず顔を見合わせるが、この謎掛けの答えは君主の妻から与えられることはなかった。  マティアスはファビエンヌと二人きりになりたかったが、番犬達は優秀だった為、そんな機会は巡ってこなかった。なぜかジョルジュが執拗にファビエンヌと接触しようとしてくるが兄王子達が全て阻止している。だから番犬達はマティアスの動向だけを見ていれば良かった。  ある時、焦れたマティアスは周囲に気付かれないようにファビエンヌに足をかけた。そのふらついた体を抱きとめる。存在を確かめるようにじわりと力を加えてマティアスは強く抱きしめた。 「あぁ……ファビエンヌ」  甘さを含んだ掠れた声が小さく耳元から聞こえたことでファビエンヌの体は震えた。目が熱く潤んでくるのを感じる。誰かに見られてはいけないと目を閉じる。止めていた息は熱い吐息となって漏れた。 「碧の妃殿下? どうかなさいましたか?」  すぐさまナザロフ王の近衛兵達は近づいて、マティアスからファビエンヌを取り上げた。 「少し目眩がしたみたいなの。でも大丈夫よ。助けていただいたから」  ファビエンヌは足を掛けられてすぐにそれが故意だと気付いた。そして、その目的も。口の中から鼓動が聞こえてくるようだ。顔にほてりを感じる。きっと頬が紅潮しているとファビエンヌは自分の頬に手をやった。  夜会で会う毎にマティアスの瞳に籠もる熱は温度を上げていく。  二人で踊る度にファビエンヌはその瞳に焼かれた。  ――ファビエンヌの帰国する日が迫っていた。
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