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第12話 毒の舌
ファビエンヌは南の離宮にあるお馴染みの部屋の前に居た。
今回は騙し討ちには合わなかった。南の離宮に連れて来るよう王太子に言い付かっていると最初に言われ、迎えに来たアンベール付きの護衛騎士から案内を受けてここまで来た。
今まさに扉を開けようとしている騎士達をファビエンヌは右手を上げて止めた。
「妃殿下。お入りにならないので?」
「入りたくないわ。嫌な予感しかしないもの」
憂鬱そうに俯くと護衛騎士は悲しそうな顔で心からの同情を示した。
「それは……心中お察しいたしますが、部屋へお連れしませんと私どもが叱られます。どうか……」
示しただけだった。主命に背いて騎士はやれない。仕方がない。
本当は急な腹痛に襲われたことにしてファビエンヌはこのまま戻りたかったが、どうかとまで言われては帰れない。
「分かったわ。開けてちょうだい」
開けられた扉の正面に王子達が三人立ってこちらを見ていた。
右腕をアンベールに。左腕をエクトルに拘束された状態でジョルジュが立っていたのだ。
ファビエンヌは思わず扉を開けた騎士達を見る。
気まずく思ったのか彼らはファビエンヌの視線を避けた。
これまでと同じように、この人払いされた空間への入室はナザロフ王の近衛兵二人だけが同行を許された。扉が閉まると同時にファビエンヌがバランド語で口火を切る。
「なにごとなのかしら。ご説明いただけるのでしょう?」
「ジョルジュがお前に話があるそうだ。聞いてやれ」
横柄に言う安定のアンベール。不親切にもジョルジュを二人がかりで拘束していることへの説明は無かった。
ファビエンヌは数歩進み出て拘束されたジョルジュの前に立つ。
「どうして、こんなことに……」
ファビエンヌは変わり果てた痛ましい者を見るような目を哀れな男に向けた。
男二人に拘束をされるという情けない姿を見られたことで項垂れるジョルジュ。
「この二人の弟に生まれるなんて、僕は前世でどれほど酷い罪を犯してしまったのかと今も悩むよ」
「そうでしょうね……わかります」
ファビエンヌが心から同情してしみじみ言うと、余り気の長くないアンベールが早く言うようにと弟をせっつく。ジョルジュは精一杯の怖い顔で兄を睨んだあと、溜息をひとつ吐いてからファビエンヌに言った。
「きみの幸せが何なのかをよく考えて欲しいんだ。そして分かったら僕に教えて欲しい」
真意が読めない。ファビエンヌは義弟の心の奥を見通すようにじっと目を見る。
「ナザロフ国は遠い。それでもきみが幸せで居られるように僕は何かしたいんだ。僕の胸の中にいるファビエンヌには、いつも笑っていて欲しい。だから幸せでいてくれないと困る。僕が――辛い」
言っている通りジョルジュは辛そうな顔をする。
「きみは今でも僕の特別な人なんだ」
胸を打たれる告白だった。
ジョルジュの気持ちはファビエンヌには分かり過ぎるほど分かる。
美しい思い出の中にいる大切な人を心の中に住まわせる。
その人は望むだけ心の中で自分を褒めたり、慰めたり、時には励ましたり、叱ったり、共に泣いたりしてくれる。
ファビエンヌの心の中のマティアスが自分の慰めにならなかったのは、あの頃、別の女を愛して裏切ったと知ってしまったせいで、望み通りには動かなかったからだ。
ジョルジュはファビエンヌが嫁いだ先で幸せになれると信じたんだろう。
それが、ファビエンヌが幸せではなかったと知ったのが原因で、もう彼の心の中のファビエンヌは笑ってくれなくなった。
ジョルジュはそれを何とか修正したいと思っている。現実のファビエンヌが幸せになることで。
話が続かないのでエクトルが驚いた顔でジョルジュを見る。
「え? それだけ?」
兄達が自分をどういう風に見ていたのか何となく感じていたジョルジュはエクトルに非難を籠めた眼差しをぶつける。
「はい。兄上達が邪推して散々邪魔をした、僕がファビエンヌにしたかった話は以上です」
普段大人しい弟に嫌味を言われたエクトルは気まずく目を逸らす。片やアンベールは何処吹く風だ。
ここでやっと腕の拘束を解かれてジョルジュは肩を右左とぐるぐると回す。
ジョルジュが一息つくのを待ってからファビエンヌは心からの感謝と了承を伝えた。
「わたくしのことをお考えくださって、ありがとうございます。とても嬉しい……。そう思って頂ける分、わたくしは幸せですわ。でも――そうですわね。考えてみます。考えてそれが分かったら必ずお手紙でお知らせします」
二人は微笑みあい。和やかな空気が出来た。
その空気を、結果に納得できないエクトルが壊す。
「ねえ? 本当にそれで終わり?」
「はぁぁあ?」
王子としてそれはどうかと疑問が生じる程の柄の良くない声がジョルジュから出た。散々邪魔されてやっと話せた初恋の女といい雰囲気になっているところをまた邪魔されたのだ。こんなジョルジュを誰も責められない。
「なんか、もっと……こう――ああ、なんだ。心配して損したなぁ」
エクトルは、弟が発露したいものに男のリビドー的な何かがあるのかと思っていた。全く違っていて肩透かしを食う。
自分が恐ろしく汚れた存在と感じられる程の純粋さを見せられてしまった。思うにジョルジュが初めての恋をしたのはとても小さな頃だったのだろう。そういう意味でもファビエンヌは特別な存在なのかもしれない。
エクトルの初恋はもっと遅かった。しかも、その初恋の女が肉体的な魅力も備えていたものだから、弟が心に真っ白く輝く聖域を作って、そこにファビエンヌを置いていることなど想像もつかなかったのだ。
三人のやりとりを長椅子の肘掛けに座って退屈そうに見ていたアンベールが言った。
「じゃあ、ジョルジュ。もう行け」
ジョルジュがファビエンヌの肩に手を置いて二度軽く叩くという暇の挨拶をすると、そのまま部屋から出ていった。
ファビエンヌは何がなんだか分からない。目を瞬かせて残る二人を見てみるが説明はしてくれないようだ。
少し困惑しているファビエンヌの元へエクトルが歩み寄る。
「次はわたしの番だね」
エクトルは、ずいっとファビエンヌの前に顔を突き出した。
「マティアスに新しい毒を仕込んだろう。あれはなに?」
ファビエンヌの表情が僅かに固くなる。それもすぐにエクトルを咎めるようなものに変わる。
「酷いわ……。わたくしを暗殺者みたいにおっしゃるなんて。人に聞かれたら誤解を受けます」
言ったことを聞いてもないような顔でエクトルは機嫌よく微笑みながら続ける。
「ファビエンヌは、この為に戻って来たんだなって思ったよ」
エクトルの観察眼を甘く見ていた。ここまで読まれるとは思っていなかったファビエンヌは少し目を伏せて一瞬考える。そして、早々に折れた。
「この為だけという訳じゃありませんわ」
エクトルは目を輝かせる。まるで餌を見せられた犬のようだ。
ファビエンヌはバランド国に戻るための言い訳に使ったが、嫁ぎ先のナザロフ国のために外交、貿易、同盟への働きかけは重要ではあった。だから嘘ではない。
こういう時は早く餌をあげるに限るとファビエンヌは知りたがりのエクトルへ答えを投げ与えた。
「あれは――例えて言うなら毒の舌…でしょうか」
「ああ、そうか。心の痛みも苦しみも感じていなさそうだったね」
ファビエンヌは少々驚いて目を何度か瞬かせる。
エクトルは話が早い。もう理解してしまった。
マティアスの傷ついて歪んだ心を完全でなくとも癒やして正すことがファビエンヌには出来た。五年前この部屋でアンベールの護衛騎士ダミアンの長年抱えていた傷を癒やしたように。
自分が仕込んだ毒だ。その気になれば解毒だって出来ただろう。でも、ファビエンヌは敢えてそうしなかった。
マティアスが五年の間、痛みを麻痺させて持ち続けた心の傷。
僅かすらも癒えることなく傷口を膿ませながら広がって依然としてそこにあった。
その冷えた心の傷を心地よい温かさの舌で柔らかく甘く舐めあげた。
ファビエンヌの毒の舌で。
その舌触りはさぞ快かったことだろう。
部分的に傷を癒やしたファビエンヌは、そこに新たな毒を仕込んだ。
誰も愛さないこのままで、婚約者だった頃の自分だけを愛するように。
マティアスが今のファビエンヌに執着を見せているところは、彼女のちょっとした誤算だった。
何度も頷いて感心しているエクトルに向かってアンベールは言った。
「じゃあ、エクトル。もう行け」
エクトルは頷いてファビエンヌの二の腕を軽く叩いて暇を告げると部屋を出て行った。
今日は一体なんなのか。よく分からない。ファビエンヌは答えをもらえないと知りながらアンベールを見る。
ファビエンヌに分かるのは、この一連の流れを決めたのが目の前のアンベールだってことだけ。
アンベールは腰を掛けていた長椅子の肘掛けから立ち上がった。
「さて、ファビエンヌ。誰も言わないだろうから、おれが言う」
怯んだファビエンヌに向かってアンベールは厳しい顔で指を差す。
「おれは一人の男としてお前を非難する。とても酷いことをしているぞ、ファビエンヌ。もう誰も愛せないかもしれない男が奇跡的に愛したのが、後2日でこの国を出てもう二度と会えないかもしれないお前だ。マティアスは死ぬまでお前を愛したまま生きて行くかもしれないんだぞ」
かもしれない、かもしれないと煩い。全て不確定ではないかとファビエンヌはアンベールの非難を聞いて心の中で言い訳を始める。
「確かにマティアスが五年前にお前にした仕打ちは酷い。だがな、これはやり過ぎじゃないか? 終身刑みたいなもんだろう。こんなことは」
「お待ちになって。それが、わたくしの復讐だとおっしゃるの!? 違います。酷い言いがかりだわ!」
ファビエンヌは憤慨しながら強く抗議する。
だが急に「けれど……」と言ってファビエンヌの言葉は力を無くした。
「身勝手にも、それが少しも悪いことだと思わないのです。わたくしを愛してそれが届かぬことで苦しめばいい。あの頃のわたくしみたいにと、そう思うのです」
「それは……業が深いな……」
拍子抜けしたようにアンベールは長椅子の肘掛けにまたストンと腰掛けた。
同意の為に頷いたまま、ファビエンヌは下を向いて顔を上げない。
それを、ちらりと窺ったアンベールは座ったまま伸びをしてから言った。
「でもまあ、男として思うことと、可愛い妹を持つ兄として思うことはまた別だ。この先、マティアスがお前のことで泣き言を言って来たら、お前の代わりに盛大にざまあみろと言っておくから安心して帰れ」
思わぬことを言われたファビエンヌは目をひん剥いて顔を上げた。
アンベールと目が合うと吹き出して、堪えきれず高笑いしてしまう。
ずっとバランド語で話していたせいか部屋に残っている近衛兵二人もファビエンヌの笑いの理由が分からず困惑していた。
その笑いが収まるのを待ってアンベールは訊ねる。
「もうマティアスのことはいいのか?」
「わたくしが愛していたのは婚約者だった時のマティアス様です。今のマティアス様ではありません」
ファビエンヌはきっぱりと言い切った。
勿論、今のマティアスはとても魅力的な男だとファビエンヌも思う。ときめかないと言ったら嘘になる。初恋の男から強く求められ、熱い目で見られて女として満たされる思いもする。
ただ、それでも自分たちの関係はマティアスが学園の中庭で婚約破棄を言い渡して来た時に終わったとファビエンヌは思っている。
アンベールは傷ついた義妹がようやく過去を精算できたのだと思って心底安心した。
各方面からファビエンヌへの悪戯が過ぎると長年言われてはいたが、こう見えてもアンベールは本当に妹として可愛がっているつもりだった。
「そうか。ファビエンヌは、マティアスのしたことを許せたんだな」
「いいえ?」
目を大きく見開き口も大きく開けたまま固まるアンベールを見てファビエンヌは苦笑いする。
「なぜ、そんなに驚いた顔をなさるの?」
口をパクパク動かすアンベールを見て、ファビエンヌは積年の恨みを返すには微々たるものだが、少しだけ意趣返しが出来たように思えてスッキリした気持ちになる。
「人は忘れてしまう生き物なのですよ? 許してしまったら……いつか忘れてしまうかもしれないじゃありませんか。だから、わたくしは生涯マティアス様を許さないことに決めているのです」
絶対に忘れない。四年の日々も、最後の裏切りも――。
愛しさも憎しみも怒りも悲しみも喜びも同時沸き起こって自分を苦しみ苛んだ日を生涯忘れまいと心に誓っていた。
初恋は美しくあって欲しいが、自分が持ち続けるその思い出の色は一色じゃなくていいとファビエンヌは思っている。
これから、なにかの切欠であの時の感情が発作的に沸き起こるかもしれない。そのとき共に胸に蘇るマティアスは許さないことで、きっと何年経とうと鮮明に違いない。
そう思いながらファビエンヌはうっとりと目を閉じる。
女の業の深さを正確に測るのは男には無理だとアンベールは心情を理解するのを諦めた。そうかと素っ気なく相槌を打った後、ふと思いついたようにファビエンヌに言った。
「おい。もしナザロフ王が嫌になったらバランドに戻って来ていいぞ。おれが即位してからじゃないと無理だがな」
相手がアンベールであっても、こんな身内らしいことを言われると、さすがのファビエンヌもしんみりした気持ちになる。
だが、それは思い違いだった。
「お前が出戻ったら、下げ渡すことをマティアスにチラつかせて、奴隷のように働かせる」
「鬼畜ね!」
怒ったファビエンヌに叩かれて、アンベールはいつものように「痛い、痛い」と楽しそうに笑った。
立ったまま会話していたので、椅子を勧めたついでにアンベールは珍しくファビエンヌの為に紅茶を淹れた。
ティーカップの中の琥珀の液体を見ながら、毒……痺れ薬……睡眠薬……と様々な薬物の混入を疑っていたら、アンベールは苦笑いしながらファビエンヌの持っていたカップを持ち上げて一口毒味してから返した。
「じゃあ、ゆっくり茶を楽しめ」
そう言ってアンベールは部屋を出て行った。
長椅子の背もたれに体を預けたファビエンヌは目を閉じて細く長く溜息を吐いた。
護衛は二人いるがこんな風に部屋でひとり紅茶を飲むのは久しぶりのことだった。
ファビエンヌは自分の心に付いた大きな傷を癒やそうと思っていた。
ずっと、その機会を狙っていた。
傷付いたことで出来た認知の歪みが思考の一部に影響を及ぼしていることを知っていた。だから、その歪みを正す方法をずっと考えてきた。
第三子を出産したときに確かに出血が多くて体調は崩したが、数年次の出産を控えなければならないと医者が言ったのは嘘だ。
ファビエンヌが金を握らせて言わせた。フィロメナ王女の時のように。妊娠していたらバランド国への里帰りなんてナザロフ王は絶対に許さないから。
マティアスの動向も、国を出た時から定期的に報告をさせていた。
爵位を継いだことも結婚したことも領内でどのように腕を振るっていたのかも知っていた。
平民から貴族に戻っているなら里帰りしたら会う機会もある。王族主催の夜会の招待を貴族が断ることなんて基本しない。
本当は誰に頼まれなくともマティアスが社交界で問題なくやっていけるように尽力するつもりだった。あんな風にアンベールが命令するので腹が立ってついでに搾り取ってやろうと思っただけだ。
心の傷を癒やすためのバランド国への帰還。
この国でファビエンヌは実行しようと思っていたことがある。
それはファビエンヌがヘドヴィカと話をしていた時に思いついたことだった。
ナザロフ王と付き合いの長いというヘドヴィカとは割と早い時期に打ち解けた。
フィロメナ王女より、ずっと親しい付き合いをしている。
ヘドヴィカにはマティアスのことを打ち明けていたし、彼女も亡くなった婚約者のことを話してくれた。
ファビエンヌは羨ましいと思っていた。心を天の国にいる愛した男に預けて、辛い気持ちを持たずに生きているヘドヴィカが。
ヘドヴィカにとっての婚約者のようにマティアスがなってくれたなら、きっとナザロフ王が他の女の元にどれほど通っても自分の心が冷えることはないだろうと思えたからだった。
初めては変えられない。一度しかない。
それなのにファビエンヌは初恋の男を選ぶのに失敗してしまった。そして、その恋も神からの嫌がらせとも思える予想外の出来事で木っ端微塵になった。
初恋の男を別の男にすげ替えることなんて出来ない。だからファビエンヌは初恋の結末を変えることにした。
もう目的を果たした。ファビエンヌは思うとおりの結果を手にした。
自分にとって最初で最後の人になるのだと四年信じた。
その初恋の男があの頃の恋心と綺麗な思い出を大事に胸に抱えたまま生きてくれる。
そう考えるだけで、ファビエンヌの心は、とても穏やかで満ち足りたものになるのだった。
心がとても穏やかで満ち足りていた。それは、ほんの数時間前の事だった。
今のファビエンヌの心はとても乱れていた。荒れていた。
アンベールの依頼の成功報酬について一悶着あったからだった。
報酬として提示した条件の数字は案の定アンベールが減らしてバランド王に提出していた。それをバランド王はファビエンヌが予想していたよりも多く減らしてきた。半分以下どころじゃない三分の一だった。
あんまりだ。それはないと、報告を聞いたファビエンヌがとんでもなく不機嫌になるので、アンベールは珍しく機嫌を取った。
アンベールの持っている領地の幾つかの特産物を泣きが入るまで価格を下げて輸出して貰うことにした。その分関税を上げるので国の利益になるだろう。そして、第一王女に条件の良い嫁ぎ先を探してもらうことで手を打った。血なまぐさいイメージのまだ取れていないナザロフ国を通すより、バランド国の次期国王になる男を通した方が格段に条件の良い縁談が舞い込むだろうから。
そして、ついでにもう一つ……とファビエンヌはアンベールに耳打ちした。
ファビエンヌはあるものを手配するようにアンベールにお願いした。
翌日の午後、ファビエンヌは人目の付かないところにマティアスを呼び出してもらった。願って叶うなら、ナザロフ国に帰る前に実現したいことはもう一つだけあったから。
アンベールが用意した場所は、もう誰も出入りしなくなって久しい古い聖堂だった。
その場所へはマティアスが先に着ていた。
到着した護衛達が扉を開けると、彼は聖堂の奥で花嫁を待つ新郎のように立って待っていた。
聖堂は埃だらけだったが窓も割れておらずステンドグラスは完全に形を保っていた。日が差し込んで聖堂内を明るく照らしていて、ほこりを粉雪のようにキラキラと光らせている。この古びた聖堂の内部と同じだけ年老いた神父がマティアスの前に立っていたとしても不思議ではない場所だった。
アンベールにエスコートされて、色あせて汚れた赤絨毯の上をファビエンヌはドレスの裾を捌きながらしずしずと歩いていく。ドレスの裾が動く度に埃が舞った。
マティアスは、もう他の人間が見ることのない笑顔で出迎えた。ファビエンヌも笑顔を返す。
「バイエ伯爵。わたくし、五年前にお伝えしたかったことがあるの。それを今、聞いていただける?」
マティアスは自分の前に立つファビエンヌを恍惚として眺めていた。
帰国は間近で、もうこんな風に傍で話をすることは諦めていたのだ。無理もない。
「はい。もちろん」
快い了承があってファビエンヌは俯いて小さく笑った。
「それでは、わたくしが話し終えて、ここから立ち去るまで、決して口を開かず、遮らず、声を出さず、音も立てず、この場から動かないとお約束いただけるかしら」
マティアスはとても驚いた顔をして、その後、その顔を苦笑いに変えた。
その台詞はファビエンヌが学園の中庭で言ったものにわざと似せていると気付いたからだ。
「分かりました。タラサ・ステマ妃殿下。約束しましょう」
再度の了承を聞いたファビエンヌは深く頷いて、右手にはめていた手袋を脱いで左手で持つ。そして一歩大きく進み出てマティアスの左頬にその手で触れた。
ファビエンヌは熱い眼差しを間近で受けながら、舞っている埃が空気を煌めかせている中、ステンドグラスを通した光がマティアスの顔を彩るのをじっくりと眺める。
アンベールと護衛達、近衛兵達はその光景を身動きせずに見守った。
マティアスの頬に手を添えてからファビエンヌが口を開くまでは、それほど長い間は空かなかった。
「さようなら、マティアス様。ずっとお慕いしておりました。お元気で」
驚きで思わず鋭く短く息を吸ったマティアスは自分の頬に触れている手をそっと掴んだ。
ザッと近衛兵達が動く気配がする。
「いいっ、動くな!」
アンベールが大陸共通語で命じたことで彼らの動きは止まる。
マティアスはこの場からは動いてはいない。ファビエンヌとの約束は守っている。
マティアスは重ねた手と一緒にファビエンヌの手を軽く握ると自分の胸に押し当てた。
表情を動かさなくなって久しいマティアスだが、ファビエンヌと再会してから彼女の前でだけ感情を見せるようになった。錆びついてしまった表情との連動はまだ余り滑らかではなく今も少しぎこちない。そのマティアスの顔の上に様々な感情が現れて消えていく。
それをファビエンヌは何も言わず、ただただ見つめていた。
マティアスの唇が何か言おうとして動く。唇は何秒か開いたまま静止して閉じられた。胸の中の何かを移すように押し当てられていた手は持ち上げられる。
掛けたい言葉の代わりにマティアスはファビエンヌの手の甲に唇を押し当てた。
剣の柄に手をかけた金属音が複数人分する。
ファビエンヌは左手を上げることで護衛たちに動かぬように命じた。
そっと引き抜こうとした手をグッと掴まれてマティアスと見つめ合う。
自分の姿を目に焼きつけようとしているのがファビエンヌには分かった。
女の見栄だ。一番良いドレスを身に着けて一番美しく見えるように化粧を施し髪も結ってこの場に挑んだ。
もしもこの先、二度と会えないのなら今の自分の姿がマティアスの中に残るのだ。
アンベールをつき合せている都合上、余り長い時間、ここには居られない。
もう刻限かと少し名残惜しく思いながらファビエンヌは目を伏せることで視線を外した。
「話はこれだけです。ごきげんよう。バイエ伯爵」
ファビエンヌは、またマティアスの手から自分の手を引き抜く。今度は、するりと抜けた。目を閉じてマティアスの熱の移った手に左手を重ねて温度を確かめる。ほんの短い時間だった。ファビエンヌは何事もなかったように手袋をはめ直して踵を返した。
またアンベールのエスコートを受けて赤絨毯の上を今度は戻るために進んだファビエンヌは聖堂の扉の手前で振り返った。
マティアスは先程と変わらぬ姿勢のまま目を閉じていた。自分の元を去っていく後ろ姿を見送りたくなかったのかもしれない。
音と気配でファビエンヌが立ち止まって、こちらを見ていることにマティアスは気がついた。目を閉じたままの顔が扉の方を向く。目を開けようとする様子はない。
マティアスは唇だけを動かして、ファビエンヌの名を呼んだ。
ファビエンヌは胸に去来するものを感じて拳を胸にあてて一瞬だけ目を閉じる。
再び目に映したマティアスは目を閉じたままで、またファビエンヌに何かを伝えようとしていた。
ゆっくりとマティアスの唇が動く。
( )
それは、ナザロフ国に行った後、心の中にいるマティアスに言って貰いたい言葉だった。
嬉しくて唇が震えた。潤んでくる目から流れようとする涙は辛うじて堪えた。
涙の代わりに出てくる溜め息を止めず、ファビエンヌは長く息を吐いた。
そしてマティアスに向かって見えぬだろうカーテシーをしてから、その場を去った。
護衛をぞろぞろ引き連れて王城へと戻るファビエンヌは、自分以外の全員から向けられる視線に耐えかねて言った。
「なんですの?」
「いや、本当に必要だったことなのか? あんなことされたら、男は益々苦しむもんだぞ?」
こんなことをアンベールはわざわざ大陸共通語で言ってくる。この場にいる多くの男からの同意を期待してのことだろう。
アンベールの期待通り、それに同意する雰囲気ができた。ここに他の女は一人もおらずファビエンヌは孤立無援だ。不公平ではないかと彼女は思う。
「わたくしには必要でした。五年前はお別れも出来ないままでしたもの」
「あーそうか。そうだな」
余り心の籠もっていない返事を貰ったファビエンヌは、ナザロフ王の近衛兵たちが憐憫と同情を含んだ目でこちらを見ているのに気付く。
「……もしかして彼らにわたくしの結婚前のことを話されたのですか?」
「ああ、軽くな。必要だろう?」
それは変な誤解をされるよりは事情を知って貰った方が勿論いいが、なぜそれを自分に事前に言うなり、報告するなりしないのか。ファビエンヌは少し納得がいかない。悔しくて見えないように唇を噛む。
「それより教えていただきたいのですけれど、我が国の近衛兵達がバランド国の王太子殿下の命令を聞くようになったのはなぜでしょうか」
アンベールは肩を竦めるだけで理由を言わない。ファビエンヌは近衛兵達に向かって目を吊り上げてみせた。
「貴方たち、陛下の命令以外は聞かないはずではなかったの? ――まさか!買収されたの!?」
ナザロフ王の近衛兵達は後ろめたさから俯いた。
「ああ、ダミアンを貸してやった」
アンベールはあっさりと白状する。
「な!? ダミアン様を売ったのね!? なんてことを!」
悲鳴をあげるようにアンベールを非難したファビエンヌは自分たちの後ろを歩いているダミアンを振り返る。
どうやら同情を寄せる必要はなかったようだ。
彼は、たらふく食べた後の猫のように満足そうな顔をしていた。
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