第13話 少女の頃の自分に

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第13話 少女の頃の自分に

 当初の予定通りの日程でファビエンヌはバランド国を出ていく。  それは盛大な見送りがあった。その多くの人出の中にマティアスが居ることをアンベールは伝えたがファビエンヌは群衆の中から探そうとはしなかった。  旅立ち前のファビエンヌが元婚約者を見つめていたらどう思われるかも考えてのことだったが、彼女にとって別れは既にあの古い聖堂で済んでいる。  ファビエンヌは他人に話せる里帰りの目的のひとつである社交をきっちり熟した。マティアスにばかりかまけていた訳じゃない。むしろナザロフ王の妃として悪い評判が立たないように十分気を遣った。マティアスの隠しきれない瞳の熱が勘ぐりを生んだろうが、ファビエンヌは常識的に振る舞っていたし、二人きりになることもなかった。  社交界に戻ってまだ居場所のないマティアスを気遣ってのことだと後でアンベールが美談になるよう仕向けるだろう。  前夜、内輪だけの送別の晩餐があって義理の家族である王族達と特別に呼ばれた実親のエマール公爵夫妻とも名残を惜しんだ。だから出発の朝は殊更べったりお別れをすることもなくファビエンヌは馬車に乗り込めた。  馬車の窓から多くの思い出の詰まったバランド王宮と大切な者達の顔を目に焼き付ける。  五年前は祖国の役に立つのだという気負いばかりが前面に出ていたが、売られていくのだという惨めな気持ちも少なからずあった。今はそんな気持ちが微塵もなくて純粋に別れに浸れた。  今回ナザロフ王は里帰りを許したがマティアスのことを聞けば次を許さない可能性が高かった。  この国の土を二度と踏むこと無くこの世を去ると思うと残念だったが以前のような悲しいばかりの気持ちはない。  目的を全て果たした達成感がファビエンヌにそう思わせた。  里帰りの理由はアンベールにしたものと同じ説明をナザロフ王にもしていた。  ファビエンヌの娘の婚約者は、昨夜候補を幾つか出していて、これからアンベールが交渉に当たることに決まっている。  素晴らしい結果を報告できることにファビエンヌの夫への罪悪感は薄らいでいた。  ファビエンヌの実母エマール公爵夫人と義母バランド王妃は5年前に、これから結婚する娘への妻の心得のひとつとして  『 夫に言えないことが出来たら何があろうとも死ぬまで黙っていろ 』  と言う先人の知恵が集結された偉大なる言葉を授けていた。  当然ファビエンヌもそれに従ってマティアスのことは聞かれても言わないつもりだ。  お土産はたっぷり買って別の馬車に積んである。特にナザロフ国で入手が難しい物品は賄賂にも使えるのでファビエンヌは十分に数を揃えた。  予想外に持たされる土産についてファビエンヌが知ったのは旅立ちの前夜のこと。  晩餐の後でバランド王から王太子からの依頼の成功報酬についてファビエンヌに説明があった。  次代の人材確保に関わる依頼であれば、国家間で交渉が生じるほどの報酬を今代で払うのは筋が通らないとバランド王は言った。  今回バランド王が報酬という体で承認した内容は、あくまでもファビエンヌの嫁いだ後の努力で国家間で大きな益があったからだと言われ、それは全く筋が通っているのでファビエンヌは口を閉じた。元々駄目元で吹っ掛けていたのだ。次案はあって既に手は打っていた。  勿論ファビエンヌは「多少の利子はつけますが後払いにして差し上げます」とアンベールに言うのを忘れなかった。  出発を告げる声がして歓声が上がる中を馬車はゴトゴトと進む。  また間の二つの国を跨いでいく長旅が始まる。  これはただの帰りの旅じゃない。  嫁ぐためにナザロフ国に向かった前回のやり直しの旅だった。  ファビエンヌの初恋の結末は自らの手で書き換えた。そのことで過去の自分と相愛になった初恋の男に別れも告げられた。  これから祖国を離れ、何十人も女を抱える王のハーレムに入る。  ここまでは、五年前に政略結婚でこの国を出るのならば、せめてとファビエンヌが希望していた通りになった。  そのハーレムには、今やファビエンヌのために居心地良く整えられた部屋があり、ファビエンヌに忠実な女官達が仕え、ナザロフ王との間に作った三人の子供がいる。  ナザロフ王がハーレムの女の中で自分を一番愛しているのだろうことはファビエンヌにも分かっていた。ただ、それは一番で、唯一ではない。あそこには沢山女がいる。ファビエンヌもあえて聞きはしないが、ナザロフ王の心の中にきっと順位はあるのだろう。だからファビエンヌは、いつか夫の中にある自分の価値は変化すると怯えて、夫の気持ちを素直に受け取れずにいた。  ファビエンヌは三日に一度ナザロフ国へ出していた手紙を旅立ってからは毎日書いた。夫のナザロフ王、子どもたち、ヘドヴィカやフィロメナ王女。そして、連れてこなかった女官達へ。  そう。ファビエンヌは今回の里帰りに女官を連れて来なかった。  連れて来たのはレオシュとパヴェルを含めた十人の近衛兵達だけだ。  ナザロフ王に嫁ぐ旅はバランド兵を伴ってナザロフ国境まで来たが、そのときと事情が違う。  大粛清で有名になったナザロフ国は現在も多くの国から警戒されている。  ナザロフ兵がある程度まとまった数、自分の国に存在するというのは他国にとっては脅威だろう。  里帰りする妃の護衛といってもそれなりの数の兵を必要とする為、国同士の揉め事の元になる可能性もある。  そこで、そちらの国に緊張感を与えないために行き帰り国を通過する間だけ兵を貸し出して貰えないだろうかとファビエンヌは二つの国の王に宛てて手紙を書いた。  ナザロフ王は良い顔をしなかったが、こちらから頭を下げてお願いをして相手に聞いて貰うというやりとりで国同士が親しくなる機会になればとも思ったのだ。  ナザロフ王の寵妃で強国バランドの王女の願いである。リスクは伴うがナザロフ国に貸しを作ることを選んだ王たちから了承の返事はすぐに来た。一国への依頼ではないところも警戒されなかったようだ。  快諾への感謝の手紙の中に、他国の兵士が多く居る中に置いて女官達に緊張を強いたくないから可能なら侍女たちも派遣して貰えないかとファビエンヌは一文入れた。  二つの国は威信をかけて屈強な兵士と熟練の侍女を用意して国境から国境までファビエンヌを送り届けた。  剣と体術の腕が立って、目端が聞いて、人当たりの良い者をと同行する護衛の選定に条件をつけたので、どの国でも近衛兵達は問題なく溶けこんだようだった。  長い時間、他国の兵や侍女と一緒だと気疲れするだろうが、運河で三日と陸路で二日。山越えを含む陸路で三日。それほど一緒に居る時間も長くない。  予想外だったのは一国が興味本位で王太子も同行させると言ってきたので、もう一国が張り合った。生憎王太子が幼く、王弟が同行することになった。  このこともナザロフ王は嫌がったが、より安全が確保されたとファビエンヌが言うと渋々納得した。  王太子も王弟も同じ質問をファビエンヌにしてきた。ハーレムはどんなところなのか。ナザロフ王はどんな人物なのかと。  そんな話が出るのは大抵夕食を共にしているときだった。  ファビエンヌは夜にハーレムのことも夫のことも考えたくなかった。当たり障りなく、そして少し感心するようなことを混ぜてそれぞれ彼らには話した。  これはバランド国に向かう時の話だ。帰りはファビエンヌの心持ちが違う。  初恋に再決着をつけたファビエンヌの心の真ん中にある椅子には、もう誰も座っていない。今、マティアスは心の一角に作った場所に居る。ファビエンヌが辛くなったら逃げ込める場所だ。この心の守りを持ったことでファビエンヌは夫に対して心の盾を下ろすことに決めた。  ファビエンヌは帰りの道中、昼も夜もなく夫について深く考えることにした。  心の守りがあると思えば、安心して考えに没頭できた。  侍女たちが居なくなった寝室で、ひとり窓辺に寄って夜空を眺める。  ファビエンヌにとって夜は、夫のナザロフ王の色。自分を包む安らかなる夜。  そして、共に過ごすときも、夫が他の女の元に居るときも自分の心を乱す夜の色。  名を呼ぶ、あの深い声を思い出すと、ブーケに必ず使われていた花の香りが蘇ってくる。すると、ずっと使わずにいた名が口をついて出ようとした。そんな自分に驚いて思わず唇を手で押さえる。  ファビエンヌは頭を振って気を落ち着けてから、ナザロフ国に来てからどうだったかを思い出そうとした。  ナザロフ王に言われたこと、言ったこと。されたこと、したことと。その時々に感じたことも。  その結果次第で、夫であるナザロフ王はファビエンヌの心の真ん中に座すようになるだろう。  ナザロフ国への帰還の旅。  その長い時間を費やしてファビエンヌは夫について考えていたが、そればかりではなかった。  ファビエンヌは自分の心の中の掘り返しにも着手した。埋めたあと何度も踏みしめて固めたところだ。簡単には出てこない。  その掘り返しが終わったころ、ファビエンヌは分かったことがあった。 ***  馴染みのある言葉の、鳥の囀りにも似た高く小さなざわめきを遠く聞きながらファビエンヌは馴染みある寝台の上で目覚めた。  一瞬、自分が水底で横たわっているように思えたのは、外からの強い日差しを幾重にも重なった天蓋の青いシフォンが柔らかく遮っていたからだった。  今度こそ王宮を遠くからじっくり見ようと思っていたのに、また疲れ切って眠ってしまって見逃したようだとファビエンヌは残念に思う。  バランド国に里帰りしていたのが夢だったように思えていた。もしかしたら、このナザロフ王のハーレムの一室で目覚めた今の方が夢かもしれないとも。  寝台の上は青りんごと花とミルクの混ざったような懐かしさを感じる甘酸っぱい香りがした。ここに初めて来た日をファビエンヌは思い出す。この部屋はこんな薫りだったろうか。寝起きの頭がファビエンヌに違和感を訴えてくる。  それに、なんだか。  ……なんだか。  ………なんだか。 「なんだか、暑いわ」  ファビエンヌが体を起こしたことで控えていた女官達が気付いた。  いつのまにかファビエンヌの周りを子供達が囲みそのまま引っ付いて眠っていた。眠っている子供達の中になぜかフィロメナ王女の二人の王子まで居る。  幼児5人の熱量が傍らにあったのだ。暑いに決まっている。  眠っている子供たちを眺めながら果実水で喉を潤している間に女官達はファビエンヌが眠っている間の出来事を話して聞かせた。  ナザロフ王は王都の外壁近くまで迎えに来ていた。輿の中でファビエンヌが眠っているのを残念そうに眺めていたが、同じ輿に乗り込むとハーレムまで同行し、この部屋まで抱いて連れてきたそうだ。  不在の三ヶ月の間に別の女に心を移したという訳でもなさそうだ。  ファビエンヌがその事に少し安心していると子供達が起き出してきたので部屋は一気に賑やかになる。  子供達全員と一緒におやつを食べ、お土産を渡し、せがまれるまま土産話を披露した。  そして夜になりファビエンヌの元へナザロフ王が訪れた。  ファビエンヌは女官達に言われて一応伽の支度はしていたが、今夜の来訪があるとは聞いていない。帰国したばかりのファビエンヌの元にナザロフ王が行かない訳がないと敢えて通達しなかったようだ。  ナザロフ王は三ヶ月ぶりにファビエンヌに会ったというのに、一言の挨拶もなく視線も合わせない。  不機嫌な表情をしていることから照れているという訳でもない。  むっつりしながらファビエンヌの座っている長椅子を避けて、ナザロフ王はその向かいに置かれている一人がけの椅子に座った。  ファビエンヌは幼い子供のような振る舞いをする夫を心の中で笑いながら、立ち上がると片膝を着いて頭を下げた。 「親愛なる陛下、ただいま帰りました。陛下からお借りした近衛の精鋭達のお陰で何の憂いもなく帰国を果たせました。ありがとう存じます」  ナザロフ王の返事はない。 「ご無沙汰しておりましたが、陛下におかれましては、お変わりなくお過ごしでしたでしょうか?」  やはり返事はない。ファビエンヌは下げていた頭を少しだけ上げて夫の顔を窺う。 「そのご様子ですと、わたくしからの陛下へのお土産はお召し上がりいただけたようですね」 「……なんのことだ」  と呻くような返事がある。 「お味はいかがでしたでしょうか」  ファビエンヌが尚も言うと、ナザロフ王の寄せられた眉根とこめかみの一部が動いた。 「だから、なんのことだと……「嫉妬のお味はいかがでしたかと申しました」」  言葉をかぶせて来られてナザロフ王は図らずも一瞬閉口した。 「そっ……そんなものは二度と寄越すな」  と負け惜しみを言ってしまう。  だが、ファビエンヌは追い打ちをかけてナザロフ王を滅多打ちにした。 「恐れながら、ハーレムの女達がいつも食している馴染みあるものですのよ。わたくし、いつか陛下にも味わって頂きたいと思っておりましたの。今回、丁度良くご用意できたのですけれど…」  片手を頬に当て首を傾げながら困ったように言われるとナザロフ王も自分が悪いように思えて黙ってしまう。  ナザロフ王は話を変えることにした。みっともなく言い負かされたからではない。元々聞きたかったことだったと心の中で言い訳をする。 「それよりファビエンヌ。わたしになにか言うことがあるだろう」 「ええ、ございますわね」  ファビエンヌは憎らしい位、シレッと言い放つ。  ナザロフ王は帰国した近衛兵のレオシュとパヴェルから報告を受けた。  妻の元婚約者にして初恋の男マティアス・バイエのことを。  悪女に騙されて当時婚約者だったファビエンヌを手酷く裏切った末に破滅したマティアス・バイエ。  身内の不幸をきっかけに返り咲いた若く頭の切れる美貌の伯爵。ファビエンヌに並々ならぬ執着と熱量を見せていたという。  夜会の度に二人が踊っていたこと、仲睦まじく語らっていたこと、そして帰国の前日の人目を忍んだ別れについて聞かされて、ファビエンヌが用意したという土産をナザロフ王は短時間で頭痛と吐き気がするほど食すことになった。  慣例を破ってまで信じて送り出したのにどういうつもりなのかとナザロフ王は問いただしたい。けれど、聞きたくない事実がファビエンヌの口から語られるかもしれないことを恐ろしくも思っていた。  ファビエンヌは潔白で一切の不貞行為はないとレオシュとパヴェルは断言していたが、心はどうなのか。  帰国後、夫婦間で問題が生じないようにとの配慮から、近衛兵達は帰国前にバランド国の王太子から滞在中のファビエンヌの行動について説明を受けている。  一つは王太子の依頼に基づくもの。もう一つは過去の婚約破棄で生じたわだかまりをこの機会に解消したかったようだと。  本人の口から今のマティアス・バイエに気持ちが無いことは確認しているとも。  それは本当なのか。嘘なのか。  祈るような気持ちでナザロフ王は言った。 「言ってみろ」  その少し怒ったような言い方にファビエンヌは小さく笑ってから俯いた。  ファビエンヌがそのまま何も言う気配を見せないので、ナザロフ王は苛立って顔を天井に向けた。 「ロイデラニュイ――――」  ナザロフ王は名を呼ばれたことで不貞腐れたまま顔を戻した。  だが、その目はじわじわと生じる驚きで少しづつ見開かれていく。  それに重ねるように更なる驚きが待っていた。  センターテーブルを挟んだ正面からファビエンヌは真っ直ぐナザロフ王を見て言ったのだ。 「――――愛しています」  思いがけずに差し出された言葉を前にナザロフ王は、何拍分か瞬きを忘れてファビエンヌを見入ってしまう。  意地を張って向かいの椅子などに座らず隣でこの言葉を聞けたら良かったとナザロフ王は一瞬後悔したが、その考えはすぐに改めた。  少しだけ離れたこの場所だからこそ見えるものがある。  この目を合わせて面と向かってされる愛の告白の瞬間を脳裏に焼き付けるのに良い距離だった。  無意味な嫉妬で苦しんでいた自分を馬鹿らしく思いながら、ナザロフ王は優しい気持ちでファビエンヌに教えてやる。 「知っていたよ。ファビエンヌ」  今度はファビエンヌが驚かされる番だった。  ファビエンヌが夫を愛していると自分の気持ちに気付けたのは、ナザロフ国へ帰る旅の途中のことだった。  それをなぜ……と疑問への答えを求める間もなく、ファビエンヌは更に驚かされることになる。 「わたしもお前を愛している」  そうナザロフ王は言ったのだ。バランド語で。  ファビエンヌは夫から『愛している』という言葉を貰ったのは記憶が確かなら初めてのことだった。  もはやどこに驚いて良いのか分からないファビエンヌが少し落ち着くのを待って、ナザロフ王は手招いた。 「ファビエンヌ。こちらにおいで」  激しく動揺したところを見られたことで拗ねたファビエンヌは言い返す。 「……ここは男性がこちらにいらっしゃるところでは?」  それを聞いたナザロフ王は、にやりと笑った。とても悪そうな顔だ。 「残念ながらお前の夫は中年の王様なんだ。若いお前がこちらに来るべきだ」  これほど説得力のある言葉があろうか。渋々センターテーブルの向こう側に回って一人がけの椅子までやって来ると、ナザロフ王は立ち上がってファビエンヌを横抱きにして、また椅子に腰を下ろした。  魚が生まれた川に帰ってきた時、もしかしたらこんな気持なのかもしれないと、ファビエンヌは大きな体に少し強めに抱きしめられながら思う。ようやく還ってきた。その喜びがファビエンヌの体を打ち震わせた。  ナザロフ王はファビエンヌに頬を寄せて、先程の答え合わせをしてやった。 「わたしの腕の中でお前が我を忘れる時、いつもバランド語でうわごとを言うんだ。夜の王以外も、幾つかよく聞く言葉があるので調べたことがある」  なんということを調べるのか。話が思わぬ方向に進む上に、記憶にないことを言われたのも恥ずかしくファビエンヌは顔を赤らめる。 「それが、月の半分をお前と過ごすようになって暫く経ったあと、バランド語のうわごとの種類が急に増えだした。勿論調べた」  まだこの話は続くのか。ファビエンヌは心の中で悲鳴を上げた。  これ以上恥ずかしい話は止めて欲しくてファビエンヌは怒った顔を作りナザロフ王を軽く睨んでみる。  ナザロフ王はそれを笑い、宥めるようにファビエンヌの額に軽く唇を押し当てた。  急にファビエンヌの視界が真っ暗になる。ナザロフ王がファビエンヌの顔を胸に押し付けたのだ。 「調べたら―――お前は色々な言い方で、わたしを愛していると言ってくれていた」  その切なそうな、くぐもった声をファビエンヌは閉ざされた視界の中で聞いた。思わず、顔を夫の胸に擦り付ける。  視界が明るく開けてすぐにナザロフ王の顔が近づいて、ファビエンヌのこめかみに唇を触れさせた。そして、それはすぐに離れた。 「いつかお前の意識ある時にわたしに愛していると言ってくれたなら、わたしはそれにバランド語で返そうと決めていたんだ」  ファビエンヌの右手を掴んでナザロフ王は自分の左頬に当てた。  白い手は、これまでの比ではないほどの冷たさでナザロフ王の頬を冷やす。  改めて心に迎えた守護天使マティアスの加護は効かないようでファビエンヌの手の冷たさは変わらなかった。  それは三ヶ月、他の女を抱き続けていた分、ファビエンヌの心が冷えて沈んでいることを表していた。 「お前が嫁いできてから手が冷たいと知るたびに胸が潰れた。これは、わたしを拒絶する温度だと思っていたからね」  ナザロフ王は少し遠い目をしたが、軽く頭を振ってファビエンヌに目を合わせる。 「でも、もう嫌じゃない。お前がわたしを愛してくれていると知ってから、この冷たさは自分だけを愛して欲しいとお前が悲しみながらわたしに訴えている証だ。わたしにとって、とても愛しく。いじらしい温度だよ」  こんなにも全身で自分を愛していると言ってくれる男を愛さずにいる方が無理なのだ。言わないと決めていた言葉が胸をせり上がり、抑えてもファビエンヌの喉元まで上がってくる。  もう他の女は抱かないで―――。  ファビエンヌは、それは小さい頃から妃として教育を受けてきた。  その間に培われてきた理性はとても強靭で、一人の女としての心の叫びなどを簡単に捻じ伏せることが出来る。  だから、今日もそうした。ファビエンヌの願いは自分自身で始末した。  あと男児が最低三人。せめてナザロフ王の血を引く子供が十二人以上揃ったその時には、この台詞を夫にぶつけて良いだろうかとファビエンヌはこの日初めて儚い願いを抱いた。  そして、唐突にファビエンヌは思い出した。  もう何年も前に、ファビエンヌと居ない夜は自分が性奴隷のように思えてくるとナザロフ王がこぼしたことがある。  王国という鎖に足を繋がれ、次代へ王家の血を繋ぐことを課せられた奴隷。本当なら前王のように複数人毎晩侍らせた方が効率はいいのだろうが抵抗を感じるのだという。  ファビエンヌは、それを聞いて初めてハーレムの主でいるナザロフ王を気の毒だと思ったのだった。  ナザロフ王は望んで他の女を抱いている訳じゃない。これが自分の夫を他の女と分け合うことに辛うじて耐えていられるファビエンヌの唯一の(よすが)だった。  自分の肩にもたれ掛かっている妻の重みを心地良く思いながらナザロフ王は訊ねる。 「ヘドヴィカから死んだ婚約者の話は聞いたか?」 「ええ、知っています」 「あれが死んだ婚約者に捧げたものと同じものをわたしも以前からお前に捧げている」  そう言ってファビエンヌの右の手を掴んで自身の左胸と唇に順番に触れさせる。 「心と唇だ。これはもうお前だけのもの」  心と唇――それは心の貞操を捧げているということ。  ファビエンヌはナザロフ王の薄い上唇を指で弄びながら考える。  誓いが守られているかなど、どうやって確認したらいいのか。  もし、誓いが破られたら――― 「ロイデラニュイ。これまで秘密にしておりましたが……」  結婚式の三日間のように呼ばれて嬉しいナザロフ王。長らく望んでいたのだから無理もない。  ジッと目を見ながら見上げてくる顔も一層可愛らしく感じて、脂下がりながらファビエンヌの小さな顎を二本指で擽って「ん?」と短く返事をする。 「実は、わたくし。長く鋭い毒の爪と太く尖った毒の牙を持っておりますの」 「はは。それは、また」  ナザロフ王は体を揺すって笑う。  自分の言葉を笑い飛ばされたファビエンヌは大きな背中にするりと手を回し、唇を夫の太い首にひたりと押しあてた。  常にない妻の積極的な様子にナザロフ王が喜んだ気配がある。  残念ながら喜びもそこまでだった。ファビエンヌは背中に強く爪を立てて首に噛み付いた。 「……っ!!!」  ナザロフ王の口から無声の短い悲鳴が上がる。ファビエンヌは厚みのある胸から距離をとって夫を見上げた。 「わたくしを裏切ったら、この爪と牙でズタズタに引き裂いて差し上げます」  それは初めての妻の暴挙だった。ナザロフ王は目を丸くしたまま動けない。  驚愕が去るとナザロフ王はくつくつと笑い出す。 「――それは楽しそうだ」  そして、猫を宥めるようにファビエンヌの頭から肩までを何度も優しく撫でながら言った。 「だが、残念だな。お前の爪と牙の出番は生涯ないだろう」  つまり生涯誓いを破るつもりがないということだ。  未来がどうなるかなんて分からないという、ナザロフ王を信じきれない気持ちがファビエンヌの中に実はまだある。  けれど、ひとまず今夜は夫の言うことを信じようと彼女は思った。  そう信じても良いだろうとファビエンヌは自分に許し、夫の両頬を包むように手で触れた。  ナザロフ王はとても驚いた顔をした後、とても優しく笑う。  酒も飲ませていないのに、ファビエンヌの手が温かいことに驚いたのだ。  そして、それは悲しみより愛しさが勝った証でもある。そのことをナザロフ王は喜んだ。  ゆらゆらと揺らされてファビエンヌは眠たくなってくる。  今、手足が温かくなっているせいもあるだろう。  約束どおりジョルジュに手紙を書かなければとファビエンヌは重くなって閉じていく瞼を感じながら思った。  ナザロフ王は妻を大事に横抱きにしたまま、ゆっくり立ち上がって静かに寝台へ向かう。  ファビエンヌは目を閉じたまま、ゆりかごのように感じる腕の中で考える。  以前、夢に現れた少女の頃の自分はこの結末をどう思うのだろうかと。  マティアス(初恋の男)の心を永遠に手にした。  十五歳の自分はきっと喜んで白いドレスを翻して踊っている。  十七歳の自分もきっともう泣いてはいないし俯いてもいないだろう。  そして十二歳の自分。  開いた分厚い本の上から顔を覗かせていた少女の自分にひとこと言ってやりたい。  ――あの子、今夜の夢に出てこないだろうか。  五年前のように大人になった自分に向かって生意気な口を利いてきたら絶対言い返してやるのだ。  夫とは愛し合っているし、心も通い合っているわよと。  fin
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