第4話 爪の威力

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第4話 爪の威力

 あの日から十日が経ち、マティアスとの婚約は無事に”元”がついた。  ファビエンヌは今回の婚約破棄についての報告を求められ父エマール公爵に伴われて王城へ赴いていた。  報告が終わり次第、そのまま邸に帰るはずだった。それなのに長い謁見の精神的疲労を抱え、体を引きずって歩いていたファビエンヌは、突如物陰から現れた見知った騎士達に拉致された。  エマール公爵は拉致犯の首謀者に心当たりがあり目の前で娘が拐われているというのに見て見ぬ振りを決め込んだ。  屈強な騎士二人に挟まれて右に左に腕を掴まれては逃げることもできない。  人目を避けながら連れて来られて押し込められた一室は王城の南端にある離宮にあった。  ここでファビエンヌは現国王の御世になってから五本の指に入るだろう醜聞について従兄弟たちに説明しなければならなかった。つまり、王子達に。  他国の王族に嫁がせるために小さい頃から王宮に出入りして高度な教育を受けていたファビエンヌは王宮を学びの場 兼 遊び場としていた。王子達は従兄弟で仲の良い幼馴染でもある。  王太子の第一王子アンベールとは六つ、第二王子エクトルとは五つ歳が離れている。ファビエンヌは彼らの恰好の玩具だった。  玩具にされていた可哀想な子供はもう一人いた。  ファビエンヌの一つ年下の第三王子ジョルジュは不幸にも産まれた頃から二人の兄の玩具だった。  王城で退屈している兄たちの玩具にされずに平穏に過ごすには、面白がらせないことだと彼は早々に悟った。その為に極力反応を見せない技を幼い頃から身に着けたので、ジョルジュは寡黙で表情も余りないまま育ってしまった。  兄王子達が反応の薄いつまらない弟から可愛い従妹へとターゲットを移すのは当然の成り行きだった。  この場には表情や言葉を取り繕わなくていい人間しかいない。  王子達の護衛も側近もファビエンヌが小さい頃から見知った馴染みのある者たちばかりだ。  彼らも人目がないときはファビエンヌに敬語を使わないし、ファビエンヌもそれを許していた。  そんな緊張感のない空間でファビエンヌは豪華な三人掛けの長椅子にアンベールと並んで座りながら淑女とはとても呼べない盛大な顰めっ面を惜しげもなく晒していた。  玩具がやってきて嬉しいアンベールは、ファビエンヌが来たら一番に聞こうと決めていた話をする。 「学園で元婚約者を呪ったんだって?」  落ち着いてお茶も飲めやしないとファビエンヌは顔を顰めたまま、ニヤニヤと笑いながら顔を近づけてくるアンベールの頬を手で押して遠ざけた。  ファビエンヌが恐れ多くも自国の王太子をこんな風に邪険に扱うのは仕方がないことだった。むしろ当然の権利だと思って側近や護衛騎士でさえ、それを窘めない。 「わたくしは正論を叩きつけただけです」  むっつりして言うとセンターテーブルの向かいに座っていたエクトルは、したり顔で彼女の言葉に補足を入れる。 「ああ、そうだろうとも。怪物のような力で顔面に、だろう?」 「怪物ですって!?」  ファビエンヌは思わず立ち上がるとエクトルがそれに合わせて嬉しそうに立ち上がる。思うとおりにはさせまいとファビエンヌは聞かなかったことにしてそのまま腰をおろした。残念そうな顔のエクトルのことは無視する。  二人の従兄の好奇心を満たさずには、ここから帰れそうにないとファビエンヌは諦めた。また、引き続きあの日のことを思い出さなくてはいけないのかと思うと気が塞ぐ。 「わたくしがマティアス様にした行いは、呪いをかけたというより毒で害したという方が適切かもしれません」  話の出処の一つだろうジョルジュは無関係を装って無言で茶菓子をむしゃむしゃ食べている。あくまでも上品に。  その菓子の消費速度を眺めながらアンベールは言った。 「報告によると毒を吐いたって可愛い度合いではないように思えたが?」  アンベールは可愛いという理由から弄りすぎて猫にストレス性のハゲを幾つも作った前科三十犯の立派な犯罪歴を持つ男だ。  今もむっつりした可愛い従妹の頬を指で突ついては蝿のように手で払われている。  余談だが、エクトルは気に入ったものを深く理解したい気持ちからバラバラに解体してしまう癖がある。さすがに生き物は解体しないが執拗に調べ上げたり質問しまくってしまうので対象者はノイローゼになって幾人も王城を去っている。  ファビエンヌは小さい頃こそストレス性の円形脱毛症を患ったりしたが、この従兄達には慣れていた。この王子達の妃になる女は相当な苦労をするに違いない。  ジョルジュは大事にしすぎて人に知られないよう奥深くに仕舞い込み、腐らせてしまうような性質の男だった。比較対象が間違っているが、三兄弟の中で一番まともだった。  上手く伏せられてはいるものの、この国の王子達は全員、中身が残念なのである。  話を戻すが、ファビエンヌはアンベールの言葉に反論した。 「毒を " 吐いた " というのは違いますわね。そこは否定いたします。それでも、古今東西、老若男女が多かれ少なかれやってきたことですわ。わたくしは、それを効果を狙って意図的にやっただけです」  強い言葉で人に衝撃を与えたり、揺さぶりをかけたり、痛めつけたりするのは確かによくあることだが、ファビエンヌはそのことだけを言っている訳ではなさそうだ。  アンベールは意味が分からず、弟たちの顔を見て理解の度合いを確かめる。  エクトルは軽く顔を横に振った。  ジョルジュはあの日途中から中庭での出来事を見ていたし、それまでの様子も周囲から聞いていて知っている。  ファビエンヌはあの時ジョルジュに黙認されたと思っていたようだが実際は違っていた。もう止めようがないから諦めただけだ。とても不愉快な時間だったと、いつも表情の少ないジョルジュの顔が不快気に歪む。  ただ、あれが毒だが毒を吐いた訳ではないと言い切るファビエンヌの考えが分からず、兄に自分も理解できないことを示すために首を捻ってみせた。  理解が出来ないのは自分だけではないと分かりアンベールは説明を求めた。 「よく分からん。説明してくれるか」 「皮膚の上に流しただけでは効かないけれど、飲み込んだり、粘膜についたり、傷などから体に入って初めて効果が出る毒物がありますでしょう?」 「ああ、あるね」  アンベールが返事をして他の二人も頷く。  王族はある一定の年齢になると毒に慣らすために様々な毒物を飲まされる。ファビエンヌも他国の王族へ嫁ぐ予定だったので同様の教育は受けた。  彼女が言ったような毒の心当たりは王子達には幾つもあったのだ。 「言葉にもその毒と同じ性質を持たせて相手を致命的なまでに害することができるものなのですよ。殿下方」 「ふーん」  返事だけで、三人とも理解できていないのは見てとれた。 「では、実演いたしましょうか?」  そう持ちかけると王子達はこくこくと頷くので、ファビエンヌは立ち上がって王太子が一番信用している護衛騎士の元まで歩み寄った。 「殿下方を害するわけには参りませんので、ダミアン様をお借りしても?」 「ああ、いいぞ。加減してくれるならな」  主から使用許可が出されたのでダミアンは黙って頷いた。  ファビエンヌにとってダミアンは小さい頃から見慣れた顔だ。今更なんとも思わないが、ダミアンは家柄の良さ、剣の腕と体の逞しさ、その美貌で王宮中の女達を虜にしている男の一人だ。中身は実直で不器用、そして無口。天が彼に多くを与えなかったら一生独り身だろう性格の男だ。  そのダミアンの前に立ち、顔を見上げながらファビエンヌは言った。 「ダミアン様。これから申し上げることは、決してわたくしが心から思っていることではないのだと、しっかりご認識くださいませね」 「ああ」  ダミアンは短い返事をして小さく頷いた。 「では今からわたくしの高度な演技を皆様に披露いたします。しっかりご覧になって」  予想外に従兄弟たちからお愛想の拍手を貰ったので、ファビエンヌはカーテシーをしてから演技に入る。  ダミアンを見ながらファビエンヌは忌々しそうに眉を顰めた。 「ダミアン様、ご自覚はありますの? 貴方様の容姿は他の近衛騎士に比べて著しく劣っていますわ。見るに耐えません」  嫌そうな顔でファビエンヌがそう吐き捨てるので、おいおいとアンベールは思わず声をかけてしまう。 「いかがです?」  そうファビエンヌは訊ねてダミアンの顔を窺う。 「ん?」  意味が分からないダミアンは瞬きするが説明はない。  それどころか「では、次です」と周囲を置き去りにファビエンヌが続けるので謎は深まった。  意味が分からないから実演して教えてくれるのではなかったのか。  アンベールは訊ねようとするが知りたがりのエクトルはもう少し様子を見たくて、それを手で止めた。  ファビエンヌは次の演技に入っていた。  呆れと蔑みが顔に出ている。彼女がたいした女優なのは王子達も認めざるを得ない。そして、そのまま口を開いたらファビエンヌの顔に出ていたものが声にもしっかり出た。 「ダミアン様の剣の腕は近衛騎士に最低限必要な水準に達しておられないのでは? この国の恥だわ」  忌々しそうに、そしてこれ見よがしにファビエンヌは溜め息をつく。  自分の目の前で溜め息を吐かれたダミアンは意味が分からず瞬きを繰り返す。 「何がしたいんだ」  ついにアンベールが訊ねた。  ファビエンヌは右眉を高く上げる。 「お分かりになりません?」 「あいにくと、まったくな」  さもありなん。ファビエンヌはツンと澄ました。アンベールの質問はわざと無視した。 「それで、いかがでしょう?」  またファビエンヌは訊ねてダミアンの顔を窺う。 「んん?」  ますます意味が分からないダミアンは瞬きを繰り返すが、やっぱりファビエンヌからの説明はない。  アンベールとエクトルは互いの顔を見合わせた。もちろん答えは出ない。 「では、これが最後です」  ファビエンヌは咳払いをして目を閉じる。  次に目を開けたときには、顔にダミアンへの嘲りが浮かんでいた。 「ダミアン様。外務大臣を多く輩出してきた名家に生まれながら、他のご兄弟のように外交に必要な才はなく、剣を振るしか能がないご自身のことをどうお考えに?」  ダミアンの顔が怒りから紅潮する。彼の握りしめた拳や噛み締めた奥歯は周囲にも聞こえるくらいの音を立てた。  抑えた殺気が漏れだしたのに気付いてアンベールは急ぎ立ち上がってファビエンヌの傍まで来ると腕を掴んで思わず怒鳴った。 「おい!」  それはダミアンの小さい頃から抱えていた大きな劣等感を暴いた上に太く長い針を深く刺し、誇りである剣も汚す言葉だった。  ダミアンも令嬢相手に怒りのまま拳を振るう訳にも行かず、ただ黙って耐えるしかない。ならばせめてと視界に入れないためにダミアンは目を硬く閉じた。 「お分かりになりました?」  そう訊ねられたアンベールは珍しくファビエンヌに怖い顔を見せた。 「ファビエンヌ。言って良いことと悪いことがあるぞ。謝れ!」  そう言われることは予想できていたファビエンヌは肩を竦めた。 「ダミアン様がどう思われたかは改めて伺うまでもないですことですわね。ダミアン様、事前にお伝えしていたとおり、先程の言葉はわたくしの真意ではありません。お許しくださいませ」  ファビエンヌは頭を下げるが、ダミアンは目を伏せていて見てもいないし返答もしない。謝罪を受けるつもりはないようだ。 「そもそも、わたくしはダミアン様に外交に必要な才がないとは思っていませんの」  白々しい慰めの言葉を聞きたくないダミアンは、もういいと言って話を終わらせようとした。  小さく溜め息をついてファビエンヌは話しかける対象を王子達に変えた。 「一年半前になりますか、同盟国の兵士を招いて合同訓練を行いましたでしょう?」  同盟国の兵士の合同訓練を年に一度行うのは三年前に決まって一昨年はこの国で行われた。ファビエンヌはそのことを言っている。  アンベールは、つまらない理由から部下の心と誇りに傷つける真似を許してしまったことを悔いているところだった。 「それが?」  ファビエンヌの話しかけに気のない返事をする。  それでもファビエンヌは全く気にせずに話を続けた。 「そのとき、十四に分けたグループの一つで臨時の副リーダーを努められたのがダミアン様でした。全てのグループの中で一番統率が取れていたことを陛下は大変お喜びになって、ダミアン様は直接お褒めの言葉を賜っていらっしゃいました」 「ああ。そうだったな」  アンベールがその日に味わった誇らしさを思い出した。  ダミアンもその晴れがましい日を思い出したのか、固く閉じていた目を開き、表情を少し緩ませた。 「そのとき、わたくしも見学に伺っていたのですが、三つの国の階級が混在する兵士たちの縦横の調整を上手く行っていらしたのもダミアン様でした。わたくしはそれを見てダミアン様も他のご兄弟と同じように外交の才をお持ちなのだと思いました。あの見事な調整は、それなしに成し得なかったのではないかと」  意外なことを言われたダミアンは瞬きも忘れてファビエンヌを見つめる。その目に自分の目をしっかり合わせてファビエンヌは言った。 「ご兄弟と差があるのは仕方がないではありませんか。貴方様は剣の才の方が特別強く出てお生まれになった。剣を極めてその剣を王家に捧げるために。そこに多くの情熱と時間を割いているのですから、結果に違いが出るのは当たり前のことと思われませんか?」  ダミアンは暫く無言のままファビエンヌを見つめ続けた。  アンベールをはじめ、誰もが声を出して、それを邪魔したりしなかった。  そして、ダミアンは目を閉じて深く深く、とても深く溜め息をついたあと、静かに目を開けて「そうだな」とぽつり呟いた。  ダミアンが幼い頃から抱えていた傷をすっかり取り去ったのを目の当たりにしてアンベールは名状しがたい感動を覚える。  ファビエンヌが安堵のため息をつくと、あの日のように手を三回叩いた。 「さあ、説明の時間ですわ」  ソファでこちらを見つめる王子達にファビエンヌは言った。 「近衛騎士は容姿端麗なのも採用基準となります。ダミアン様は容貌も優れておられていて、それは自他共に認められるところでしょう。ですので、たとえ面と向かって不細工と言われたとしても痛くも痒くも無いわけです。同じように剣に関して自信がおありですから、一般人に剣の腕を貶されても言葉が素通りするだけでした」  まあ、納得できる答えだったので王子達は頷いた。  ダミアンにとっては面映い内容だったので、彼は黙って顔を壁に向けて聞かなかったことにした。 「ただ、外交に関しては英才教育を施され、精神的に重圧を受けながらご兄弟に比較され続けて、多くの嫌な思いを抱えて育ってこられたのは、想像に難くありませんでした。そこは人に触られたくない見られたくない弱い部分だと当たりをつけました。加減いたしましたけど、わたくしの尖った長い爪で突かれて痛いと思われたでしょう?」  もう傷まない胸、心臓のある場所に思わずダミアンは握った拳を当てる。  とても長い間、自分と共にあった心のシコリを今は感じられない。  ファビエンヌの指摘は正しい。ダミアンは頷いた。 「心の痛みは体にも行動にも思考にも言動にも影響が出るものなのですよ。例えば、先程その長らく抱えている膿んでいた傷に尖った爪を立てたあと、傷口を広げて毒を垂らしたらどうなったでしょう? そして痛みや苦しみを感じたままで放置したら、ダミアン様の精神はどうなったと思われますか?」  言われて誰もが想像した。  心を病んで、恐らく見た目は荒む。感情の揺れが激しくなるかもしれない。仕事上での判断に誤りが出る可能性もある。主とも同僚とも人間関係が円滑にいかなくなる。心身の健康を損なって剣の腕にも影響は出るだろう。  そして……。 「恐ろしいな」  アンベールは正直な感想を述べると、王子達だけでなく側近たちや護衛たちもそれに同意した。 「言葉の毒は、強いところや、防御がしっかりしているところには効かないのです。例えて言うなら赤ワインをかけられるようなものかしら? 心が深く傷つくってわけではないでしょう? 腹が立つし、鬱陶しいけれど、湯を浴びて着替えれば済むことですもの」  ファビエンヌのこの説明は王族には不適当だった。  王族に赤ワインをかけるような者はそう居ない。 「そもそも赤ワインをかけられたことなど無いのだが」  アンベールに言われて初めてファビエンヌは自分の例えの失敗に気付いた。  エクトルは目をキラキラと輝かせる。 「ファビエンヌ。何をしたら人から赤ワインを掛けられるんだ?」  ファビエンヌは言葉選びの失敗を酷く後悔する。  このことは微に入り細に入りエクトルは調べるに違いなかった。  ジョルジュに至っては眉間にシワを寄せながら問い詰めてくる。 「いつ、どこで、誰にかけられた?」 「わたくしが悪うございました。王子様向けの説明ではありませんでしたわね」  去年、ジョルジュの婚約者候補が幾人もこの国へ来て一ヶ月ほど王宮に滞在した。  隣国の姫君が夜会で自分が目立たないことに腹を立てて、何故かファビエンヌは彼女から赤ワインの洗礼を受けたのだった。  ただそれを、いま詳細を説明するのは面倒くさすぎた。  ファビエンヌは話を無理やり繋げる。 「狙うのは傷つけられないように守っている弱く柔いところ。見つからなかったり存在しなければ、言葉の毒で害するために、わざと心に傷つけたり、心の痛みや恐怖や不快感を与えて弱らせたりします」 「そのあたりは物理的な毒物と一緒なのだな」  アンベールが言うとファビエンヌも頷く。 「ええ、そうです。そんな風に毒を与えられると、その痛みや恐怖や不快感を思い出すたびに毒の存在を思い出すでしょう。在ると認識することで毒は強く作用する。そして、毒はいつまでも消えず心を蝕むのです」 「そうか、そうか」とアンベールは感心したように言いながら、先程のファビエンヌのように手を叩いた。 「お前達、少し出ていてくれ」  アンベールが人払いをすると、ドアや掃き出し窓から側近や護衛達が出ていった。  気の置けない人間ばかりだったこの空間に王子達とファビエンヌだけが残される。  あの日の出来事は報告を受けて知っているはずだ。人払いしてまで聞きたいことが何なのか。  ファビエンヌは不安になり思わず手を祈るように固く組み合わせた。
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