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第5話 毒の爪、毒の牙
静かになった部屋で一人立ったままのファビエンヌに三人分の視線が集まる。
気まずい気持ちになって長椅子の元々座っていた場所に腰をおろした。
座ったまま三人の王子にそれぞれ目を合わせると、ファビエンヌは肩を竦めて冷えた紅茶を啜った。彼らの物言いたげな顔を見て人払いをしてまで何が聞きたいのか予想がついたのだ。
前置きも特になくアンベールが切り出した。ふざけた雰囲気はもう無い。
「ファビエンヌ。どうして、あんなことをした?」
今日、謁見の間で王もファビエンヌに同じことを言ったし、あの日の夜、邸で父エマール公爵にも同じことを聞かれた。
ファビエンヌはこの繰り返しにうんざりしていた。溜息を吐きながらティーカップをソーサーごとテーブルに戻す。
「あちらが浮気相手を伴って人目がある中で婚約破棄を言い出したからです。わたくしは二十七歳も年の離れたナザロフ王のハーレムに投げ出されるのですよ。意趣返しをした位なんだとおっしゃるの?」
「だけど、計画とは違ったね。それに、あそこまでする必要はなかった。そうだろう?」
渋面のエクトルに指摘を受けてファビエンヌは黙り込む。
確かにエクトルの言うとおり計画とは違った。全ては秘密裏に処理されるはずだった。
代替わりしたばかりのナザロフ王から同盟を結ぶ目的の婚姻の打診が内々にあったのは半年前のことだった。
打診を受けた王家はすぐにファビエンヌの婚約を解消させてナザロフ王に嫁がせることに決めた。マティアスとの婚約はもう何年も前に力関係において釣り合いが取れないと判断されていたので王家に迷いはなかった。
対立派閥の中でバイエ侯爵家は二番目に力があるとされていたが実際は違った。その実力があったのは前侯爵が存命だった五年前までの話だった。
派閥間での大きな揉め事で心身疲弊していた老いた体を流行り病は容赦なく蝕んだ。結果、マティアスは祖父と一番最初の婚約者を同じ病で失くした。
対立派閥の首領クロデル公爵は若い頃からマティアスの祖父に世話になっていた恩があった。だから代替わりした後も恩に報いるために重用するつもりでいたのだが、現バイエ侯爵は配下として出来が悪すぎた。
徐々にバイエ侯爵は派閥内で存在感を失っていき、同派閥の他家が台頭して来るとエマール公爵側の派閥から婚約関係の釣り合いの取れなさを度々指摘されるようになったのだ。
それを理由に婚約を白紙にすること自体は出来ても、他国に嫁がせるのを前提とした婚約破棄は出来なかった。クロデル公爵をはじめ外国に嫁がせての関係強化に反対する貴族が多く居たからだった。
反対派を説き伏せるまで王家はナザロフ王との婚姻は極秘とし、その準備を内密に進めた。
ナザロフ王との結婚の話はすぐにファビエンヌに告げられた。
拒否権を持たないファビエンヌは王命を受けるしかない。
毎日様々な理由で王宮に呼び出されて、ファビエンヌは人払いされた客室でナザロフ国の歴史や風習、言語を学んでいった。
セシルの魔の手にかかるまでマティアスは婚約者のファビエンヌとは上手くやっていたから、彼の『やらかし』は早い段階で発覚した。
おかしいなとファビエンヌが思った時点で相談を受けたエマール公爵は調査を指示したし、報告を受けた王家は反対派を抑えるネタが見つかったことを喜んだ。
バイエ候爵の嫡男が不貞を働いて王命での婚約を踏みにじった。エマール公爵側の働きかけや努力も虚しく関係修復はできなかった。バイエ侯爵家は王命や公爵家を軽んじている。信頼関係の成り立たない婚約関係は白紙にするしかない。
そして婚約が無くなったあと、国内に釣り合いの取れる縁談がないファビエンヌはナザロフ国に嫁ぐという筋書きだった。これで反対派は何も言えない。
エマール公爵側に非がないというポーズは必要だった。だからファビエンヌはマティアスに手紙や招待状を出したし邸にも赴いた。
バイエ侯爵には嫡男の行動を追求させない程度に抑えてエマール公爵は苦情を幾度か伝えた。
暢気者のバイエ侯爵は大して問題じゃないと思ったのだろうし、マティアスが婚約者に偽装したセシルを連れ回していたので、それも耳に入り上手くやっていると勘違いしたのかもしれない。
初めの頃は大々的にことが発覚しないよう問題は慎重に調整された。
反対派を捻じ伏せるために集めたマティアスの不実の証拠はあっという間に充分な量溜まった。
その後、秘密裏にクロデル公爵との交渉が始まると、驚くべき速さで様々なことが決まっていった。
本当は全て処理し終えてから、反対派には内々報告して納得させたあと、ナザロフ国との政略結婚を発表して、婚約解消の理由はお察しくださいとやるつもりだった。
しかし、マティアスは隠すのが下手すぎた。
このままでは浮気が発覚したのが原因で婚約が白紙になり、ナザロフ王と政略結婚させられたことになってしまう。
王家はこれを機会に貴族たちに貸しを作るつもりだったのに当てが外れそうになって裏工作を試みる。
そのうちセシルの行動を不審に思った工作員が調べてみたら、これまでの詐欺行為と要人への賄賂が発覚してしまった。
これで益々真実を隠したまま婚約を解消して政略結婚させることが難しくなってきた。
そんな時にマティアスは中庭でファビエンヌに婚約破棄を言い渡したのだ。本当に彼は間の悪い男だ。
「穏便に済ませる方法が無かったとは言いません。けれど状況を考えれば、あのまま隠していて中途半端に露呈する方が周囲を混乱させて悪影響が出ると思いました」
ファビエンヌがこの部屋に連れてこられてから観察し続けていたエクトルは、この話に懐疑的な目を向けていたが特に何も言わなかった。
「それに、もしもマティアス様が人前で婚約について何か言ってきたら、その場で断罪して良いとクロデル公爵閣下からお言葉を頂いておりました」
確かにそう言ったが「まあ、そんなことは起こらないだろうがな」と笑ってもいた。クロデル公爵は戯れに言ったのだろうが聞いていた者は幾人もいる。証人がいるのだからクロデル公爵はファビエンヌを批難できない。
クロデル公爵はあの日の報告を受けてどう思っただろう。怒りの余り憤死しなかったのは奇跡だったのではないだろうか。
お気の毒なことに、この婚約破棄で一番割りを食ったのはクロデル公爵だったかもしれない。
ラカン商会が男爵位を買った年。セシルに婚約を引っ掻き回された貴族は国に訴え出たが、ラカン男爵から事前に賄賂を受け取った国の上層部の人間が握りつぶした。
鼻薬を嗅がせることへの威力を見たラカン男爵とセシルは味をしめて毎年被害者が増えることになった。
賄賂の受取先の要職に就いていた貴族は殆どがクロデル公爵の派閥の者で、彼らが更迭されるのはナザロフ王との婚姻の発表後になる。
今回のことで彼は手駒も面目も失った。クロデル公爵は今頃、各方面の報復準備で大忙しに違いない。
アンベールはファビエンヌの説明に肩を竦めてみせた。
「そうか。なら、問題ないな」
ファビエンヌは父親にも王にも同じ説明をして同じように納得してもらっていた。
エクトルは、まだ懐疑的な目でファビエンヌを見ていたがひとまず納得したようだった。
ファビエンヌがお茶を淹れ直して振る舞っているとアンベールが言った。
「ナザロフ王の元にモンタルバン国の末の王女が嫁ぐのは今月だったか」
現実に引き戻されてお茶を淹れるために立っていたファビエンヌはそのまま掃き出し窓まで歩く。
「ええ、そうです。フィロメナ王女とおっしゃるのですって。わたくしより二つ年上だとか」
割り切ったとはいえ、一夫一妻制のこの国で育ったファビエンヌは多くの妻の一人となることに抵抗を感じている。
現在のところ正式な妻はフィロメナ王女だけなのが救いだ。だが今後は増え続けるかもしれない。
「歳が近いのかぁ。まあ上手くやれ。ナザロフ王は今まで妃も認知した子供もいないらしいからお前次第で一番上の位が狙えるぞ」
アンベールの言うとおり、ナザロフ国のハーレム内には王への貢献度に対して地位が与えられる。寵愛を受けたり、子供を産んだり、産まれたのが男児だったり、その子が王太子になったりしたら。
現ナザロフ王は九ヶ月前に悪政を敷いた前王と搾取浪費するばかりの兄弟を粛清し、寄生して甘い汁を吸っていた貴族や官僚も討って、王位についた。
母親があまり身分の高くない貴族で後ろ盾の弱い第十四王子だったのだ。何もなければ王位につく可能性は限りなく低かった。
大粛清の際の協力者は多かったらしいが、国政が不安定になった為、ナザロフ王は国内外に強い縁を求めた。
けれど、王位継承した方法が血腥いし、内政は不安定。多くの国は王女を出すのを躊躇った。それさえなければ大きくはないが、そこそこ裕福な国だ。ハーレムという点さえ割り切れれば、悪くない縁だった。
「新設されたハーレムには既に三十人の女がいるらしいよ」
エクトルが言うと、ファビエンヌは父親から聞いた話を思い出した。
奴隷から貴族まで幅広く十六歳から二十四歳までの年齢の、タイプがそれぞれ異なる美しい女が集まっているのだそうだ。
「ええ。今のところ王女を除いた全員がナザロフ国の女性なんですって」
窓から見える中庭を物憂げに眺めながらファビエンヌは言う。
「日替わりかぁ……」
と羨ましそうに呟いたのは三人のうちの誰だったか。
「不潔! 信じられない!」
ファビエンヌは目を吊り上げて振り返った。
二人の王子は疑惑の目を向けられて真犯人を指差した。意外でもないが犯人はアンベールだった。
彼は批難の眼差しを受けてもへっちゃらだった。だからこんなことを言ってのけた。
「しかしナザロフ国ってアレだろう? 豊満な女が多いんだろう? 大丈夫か? おまえ……」
アンベールとエクトルの憐憫を含んだ視線がファビエンヌの体を下から上に通過していった。
腹が立ったファビエンヌは「はん!」と盛大に鼻で笑って言ってやった。
「美的感覚を塗り替えてやるのも、外国から嫁いだ女の努めですわ」
これで王子達の腹筋は崩壊した。
アンベールはソファの上でひっくり返って手足をジタバタさせて笑ったし、エクトルはサバ折りになって腹を抱えて笑った。ジョルジュは背を向けて長椅子の背もたれに縋り付き笑いを堪えて体を激しく震わせた。
掃き出し窓から見える庭の端で待機していた護衛騎士達が心配そうにこちらを窺っている。王子達が発作を起こしているようにも見えるのだから彼らもさぞ気がかりなことだろう。
このバカ騒ぎに心底呆れたファビエンヌは、笑いすぎて喉が渇くだろう従兄弟達のために紅茶を淹れ直した。
笑いが収まってきた頃には紅茶もすっかり冷えていた。同じくらい心も冷えていたファビエンヌは王子達が喉を潤すのを白い目で眺める。
ファビエンヌがそろそろ暇を願おうとする気配を察してアンベールが言った。
「ファビエンヌ。そろそろ、本当のことを言え。なんで、あんなことをした」
ファビエンヌは自分の吐いた溜め息で体が萎んでしまうのではないかと思う程、深い溜め息を吐いた。
納得していたんじゃなかったのか。また同じことを繰り返すのかと脱力感でいっぱいになった。
「兄上。ファビエンヌは初めから言うつもりがないようだよ」
この部屋でずっとファビエンヌの観察をし続けていたエクトルがそう言うものだからアンベールは肩を竦める。
「父上も謁見の間でファビエンヌの頑固さに頭を痛めただろうな」
どうやら、納得して貰えたとファビエンヌは思っていたがバランド王も聴取を諦めただけだったようだ。
困っている兄達に向かって、滅多に自分から発言しないジョルジュが言った。
「僕は分かるよ。なぜそうしたのか」
「分かるわけがないわ!」
ファビエンヌは反射的に否定する。
だがジョルジュは一歩も引かない。
「いいや。分かる」
「いいえ。分からない。分かるわけがない」
二人は言い合いをした後、暫く無言で睨み合った。
「きみはあの時――きみを裏切った卑劣な男を守ったんだ」
ついにジョルジュが忌々しそうにこう言うとファビエンヌの肩が跳ねた。
マティアスは自分より身分の高い婚約者に向かって衆目のある場で婚約破棄を言い渡してしまった。貴族の常識に当てはめても、それ自体が何重にも有り得ない。条件をつけることにより、当事者のファビエンヌが許容していると見せる必要があった。
それにマティアスの不実は既に広まっていた。マティアスにも非があったが、それはセシルに騙され唆されてやったと公にする必要があった。
容赦なく糾弾されるところを見せることで、悪いことをしたけど可哀想だと人に同情を向けさせる意図もあった。
真実と共に予測と称して既に内々に決定している内容を大勢に明らかにすることで、悪意ある噂を捏造されてマティアスが無用な恨みを買うのを避けようともした。
裏切りをうけて冷酷に断罪する婚約者と思われてもファビエンヌは自分が泥をかぶることでマティアスを少しでも助けようとしたのだ。
「そうなんだろう?」
ジョルジュは自分の考えを確認するが彼女は沈黙した。
それを聞いていたエクトルは首を捻りながらもファビエンヌから目を離さない。
「にしてもファビエンヌの行動は少し整合性がない気がするなぁ」
ファビエンヌは自分を守るために今度はエクトルと睨み合いをしなければならなかった。
しかし結果は見えていた。ファビエンヌはエクトルの粘り強さを身を以て知っている。彼女は諦めた。
「ずっと――嫁ぐ先が決まらないまま王宮で教育ばかりを受けてきて、その合間に恋を楽しむ方たちを眩しい思いで眺めてきました――」
この話が何に繋がるか、どこに着地するのかも分からず、アンベールとエクトルは困惑しながら顔を見合わせる。
「わたくしは伴侶となる人がどんな年寄りでも醜くとも性格が悪くても愛そうと決めていました。相手と心を通わせられないために生まれる悲劇は枚挙に暇がなく、子供だった私の耳にもウンザリする程、入ってきたからです。だから、それまではどんな男性にも心を預けず、恋もしないと自分に誓いました」
アンベールは、なにが『だから』なのか一瞬分からなかったが、恋をしても決して結ばれない男への執着で結婚後に夫を愛せなくなるかもしれないことをファビエンヌが恐れたからと理解した。
ファビエンヌは心底疲れたように深く溜息を吐きながら体を折り曲げて誰にも顔を見せまいとした。彼女の意図通り垂れた前髪が顔への視線を防いだ。
「十三歳のときに婚約が決まって、わたくしは自分の戒めを解いて、マティアス様に心を預けました」
ぽつり……。
ファビエンヌのドレスの膝に水滴が一粒落ちる。
「家族のようでなく抱きしめられたのも、唇を触れ合わせたのも、マティアス様が初めてだったのです」
ぱたぱたと続けざまに落ちていく水滴がドレスの膝を更に濡らした。
「これまで詰め込まれるまま、多くを学んできたわたくしですが――」
顔を伏せて表情の見えないファビエンヌから僅かに笑う気配がする。
「婚約が白紙になる可能性があるから、相手を好きになってはいけないだなんて……誰も教えてくれなかった……」
声の掠れと増えていく涙の量にアンベールは思わず彼女のドレスの膝の上にハンカチを置いた。
そのハンカチで両目を押さえながらファビエンヌを体を起こす。
「マティアス様は被害者でもありますが、わたくしにとっては加害者ですわ。あの日、わたくしだけが何の罪もなく。ただ傷つけられてその痛みと苦しみを抱えたまま祖国から離れて生きて行かなければならないのは不公平だと思ったのです」
ハンカチを下げることで見えた涙で縁を赤くした目には怒りが見えた。
「それなのに、マティアス様がいつか罪を許されて……わたくし以外の誰かと幸せにこの国で生きていくなんて許せなかった」
エクトルは従妹のこんな……業の深い女の顔を見たのは初めてだったので少なからず衝撃を受ける。
「だからマティアス様の胸に、長く鋭い毒の爪を深く突き立てて、力の限り引き裂いてやりました。息の根を止めるつもりで太く尖った毒の牙でもってあの女の首に渾身の力を込めて噛み付いてもやりました。そうすることで毒の牙が間接的にマティアス様を苛むと知っていたからです」
ジョルジュは顔を顰めながらファビエンヌの話を聞いていた。ファビエンヌが胸の痛みに耐えているのが分かったからだった。
「この毒が効いている限り、彼は誰も愛せないし、人から愛を示されても信じないでしょう。これからマティアス様は、わたくしが仕込んだ毒と共に生きるのです。ずっと――」
これからマティアスは疑心暗鬼に陥る。
他人から善意や好意を見せられたら、裏の意味を勘ぐらずには居られず精神的に疲弊していくだろう。
人に関わることを恐れるだろう。周りが敵だらけと思いながらマティアスはこれから人生を送るのだ。
これが自分を裏切った生まれて初めて好きになった男にファビエンヌがわざと残した爪痕だった。その傷が大きく深く醜い分、彼女の想いの強さも窺い知れた。
マティアスがファビエンヌを避けるので二度と会えないまま、言葉を交わせないままナザロフ国に嫁いでしまう可能性だってあった。
だから、あの日。セシルを伴っていたとしてもマティアスが自分の前に現れたことがファビエンヌは本当に嬉しかったのだ。
間近で顔を見て、言葉を交わし、名を呼んでもらえたことが。
愛しさも憎しみも怒りも悲しみも喜びもあった。
ジョルジュの言うとおりだった。
マティアスの助けになればと思った。少しでも救いになれば良いとも思った。
でも、引き裂いてバラバラにしたら、この苦しさや胸の痛みが和らぐのではないかとも思った。
沸き起こった多くの感情が同じ皿の上に乗っていたのだ。簡単に他人が理解できるような心情じゃない。
すべてを打ち明けたファビエンヌは自分に注がれている王子達の同情を含んだ視線に苛立っていた。それなのにジョルジュが自分の名前を呼ぶからファビエンヌは思わず睨んでしまう。
「ファビエンヌ――僕の初恋はきみなんだ」
「嘘よ」
思わぬジョルジュの言葉にファビエンヌは反射的に打ち返した。
それを聞いたアンベールは少し唸ってしまう。
「あー。そう言ってやるな、ファビエンヌ。本当のことだ」
エクトルも兄の言葉に補足をすることで弟を擁護する。
「元々ジョルジュは打ち明けるつもりがなかったんだよ。恐らく一生ね」
ファビエンヌがジョルジュに向かって口を開いたのでアンベールは人差し指を立てて止めた。
「どうしてなんて聞くなよ? 考えたら分かるだろう? 打ち明けてどうなる。お前がジョルジュの妃になるなんてことは絶対にないんだから」
ジョルジュが長く抱えていた実らない想いを今、打ち明けることに決めたのはファビエンヌが女として自信を失っていたから。そしてマティアスのことで一杯になったドロドロとした思いから少し気をそらすためだった。
エクトルは性別が違う年頃になった従妹の考えが年々読めなくなっていたが弟の気持ちは読めた。だからエクトルは話を引き継いだ。
「ちなみに、わたしの初恋は胸の大きな伯爵令嬢だったよ」
エクトルから視線を向けられ、バトンを渡されたと知ったアンベールは急いで言った。
「――尻の大きい侍女」
「最低ねっ!」
ファビエンヌがプンプン怒って手でアンベールの肩やら腕やらを打ち据えるので王子達は暫し笑った。
その笑いが落ち着いた頃、ジョルジュは静かに告げた。
「ファビエンヌのことは今も好きだよ。だから僕は誰よりきみの幸せを願ってる」
ファビエンヌは、幸せなんて一番今の自分に縁遠い言葉のような気がして不安そうに呟く。
「……なれるかしら?」
今は自分が幸せになれる未来など、とても信じられない。ファビエンヌの言葉尻は弱々しく消えていく。
だがジョルジュは自信を持って力強く請け合った。
「なれるさ。だってきみは、どんな時も思慮深くて優しいし、女神アプロディタのように美しい」
弟の言葉をエクトルが引き継いだ。
「そうそう、宰相にしたいくらい賢いし」
そして長兄のアンベールがしたり顔で話を締めた。
「将軍位を与えたいくらい勇ましいしな」
「もう! 台無し!」
怒ったファビエンヌはソファの背もたれに置いてあった小さなクッションを掴んでアンベールの頭にぶつけまくった。
この三ヶ月後ファビエンヌは、やり残したことへの心残りを感じながら国を離れ、ナザロフ王のハーレムに入った。
そのあと起こったことは、あの日の中庭でファビエンヌが予測と称して口にしたことと概ね同じだった。内々に決定していたことを口にしていたので実現して当たり前だったが。
ただ、中にはファビエンヌの予測と異なった事柄もあった。
口に出さないだけで予測はついていたことだったが、マティアスは除籍されて兵士として辺境へ飛ばされた。
バイエ家は一部財産を没収のうえ降爵で伯爵となりマティアスの弟が爵位を継いだ。
ラカン男爵家はセシルを含めた家族全員投獄された。奪爵のうえ、財産は没収されて被害者に一部戻される。
商会は解散させず幾つかの商会が分割して吸収する形となった。
被害者や被害者の元婚約者を親族にもった貴族達の怒りは凄まじく厳罰を求める声が上がった。
だから刑罰は今も決まっていない。恐らく厳しいものになるだろう。
マティアスとファビエンヌの解消された婚約の代わりに、五組の婚約が白紙に戻され、子供がいない夫婦が一組引き裂かれた。そして新たに二つの婚約と婚姻が一つ結ばれた。それに伴って流された涙も多かったが、幸いにも修道院に行くことになった女は居なかった。
そして、貴族達からファビエンヌを非難する声は上がらなかった。
本人の意志に反して、ファビエンヌが自分を悪者にしてマティアスを救うことを周囲が許さなかったからだった。
王子達に伝えたあの日の話は差し支えない部分のみ社交界に広められた。
ファビエンヌは初恋の男に裏切られても尚、助けようとした献身を讃えられ、他国のハーレムに入ることになった同情を向けられた。
辺境にある北の砦で平民兵士として生きることになったマティアスは、ファビエンヌが国を出て半年以上経ってからその話を耳にした。だが、すっかり人間不信に陥っていた彼は、決してそのことを信じようとはしなかった。
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