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第6話 ケーキの一切れ
祖国バランドからナザロフ国までは、間に挟まれた二つの国も越える長旅になる。
花嫁の体調を考慮して組まれた旅程は多くの休憩が挟まれていた。
これほど長い旅をするのは生まれて初めてだったファビエンヌは初めの頃こそ心から楽しめた。だが、それも乗っている輿が国境を越えるまでだった。
まず見上げた空の色に違和感を覚えた。風の匂いや温度も体の感覚がファビエンヌの知るものとは違うと訴えてくる。
祖国との違いを都度感じてファビエンヌは早々と郷愁に駆られてしまう。この旅が往路しかないものだと思えば余計に。
同行してくれた者たちが心配するからとファビエンヌは暗い顔も出来ない。
こんな旅をするのも恐らく最初で最後。自分の気持ちを盛り上げるために日々の旅の発見を手紙にしてバランド国に送ろうとファビエンヌは決めた。無理矢理にでも旅を楽しもうと意識すれば、それなりに楽しめた。
それでも毎夜、浮かんでくる否定的な考えがファビエンヌを苦しめた。
寝支度が済んで明かりを消し、寝台に横たわって目を閉じてから寝付くまでがファビエンヌが人知れず苦しむ時間だった。
例えば、これから夫となるナザロフ王のことや終の棲家になるハーレムのことを。
彼は前王のハーレムにいた女を母に持ち、ハーレムで生まれ、ある程度の年齢になるまでハーレムの中で育ったと聞く。生まれ育った国が異なるだけじゃなく持っている常識も大きく違うだろう。
ファビエンヌは婚約するまで他国の妃になる教育を受けていたが、ハーレムのある国との政略結婚を想定したものではなかった。授業中に " ちなみにハーレムのある××国では~ " と補足が時々入ったが、その程度の知識しか持ち合わせていなかった。
ファビエンヌは結婚が急に決まって詰め込むようにナザロフ国のことを学んだが不充分であるのは自分でも感じている。
やっていけるだろうか。ハーレムという特殊な環境で、これから誇り高く生きていけるだろうかとファビエンヌの不安は尽きなかった。
不安な気持ちをやり過ごそうとしていると、呆れたことにあんなことになっても心の中に自分を裏切った婚約者の姿が浮かぶ。
ファビエンヌの胸の中にマティアスは依然として居座っていた。
これから他国の王の花嫁になるというのに子供の頃、自分が心配していた通りになってしまった。あの頃の予想と違っているのは相思相愛じゃないところだとファビエンヌは自分を笑った。
ナザロフ国境に迎えが来ていて、ファビエンヌは侍女達と涙ながらの別れを済ませた。
今度はナザロフ国の王都までの十四日間の道のりを、迎えの護衛達、外交官夫妻、女官二名と共に過ごすことになる。
ナザロフ人は事前に聞いていた通り、浅黒い肌に黒や濃い茶色の髪と瞳を持っていて、女は肉付きがよく、男は逞しかった。
彼らは金髪碧眼の白い肌の人間を見るのは初めてだったようで、ファビエンヌは随分長い間、好奇心に満ちた視線に晒された。
ファビエンヌは道中、外交官夫人と女官二人にもナザロフ語を教わった。
自分のナザロフ語が何とか通じるのにファビエンヌは安堵する。ゆっくり話して貰えれば聞き取りもなんとかなった。ファビエンヌはどちらかというと読み書きの方がまだ自信があるようだ。
迎えの者たちは大陸共通語が出来たがファビエンヌは極力ナザロフ語を使うようにした。
外交官夫人よりハーレムにナザロフ語の教師が用意されていると聞かされて、また一つ心配事がなくなった。
ファビエンヌは必死だった。ナザロフ語は可能な限り早く、充分なレベルまで習得しなければならないと緊張感を持っていた。
このままでは人に騙されても分からない。気付かずに齟齬が生じて重大な問題に発展する可能性だってある。誤解されたとしても今は弁明することだって満足に出来ない。
言語は他国で生きるための武器で盾なのだ。
***
馴染みのない言葉の、鳥の囀りにも似た高く小さなざわめきを遠く聞きながらファビエンヌは見知らぬ寝台の上で目覚めた。
一瞬、自分が水底で横たわっているように思えたのは、外からの強い日差しを幾重にも重なった天蓋の青いシフォンが柔らかく遮っていたからだった。
王宮を外からじっくり見ようと思っていたのに、疲れ切って眠っていたために見逃してしまったようだ。
寝室には、ここまで同行してきた夫人や女官達が纏っていた薫りに似た香が漂っていた。シフォン越しに馴染みない様式の内装と家具が見える。
ファビエンヌが体を起こしたことで控えていた女官達が気付いた。
勧められた果実水をファビエンヌが飲んでいる間、ここへ来るまでの出来事を女官が話して聞かせた。
初めて顔を合わせるのは明日の結婚式になるはずだったのに、ナザロフ王は城門まで迎えに来ていたらしい。輿の中でファビエンヌが眠っていたので、少しの間、残念そうに眺めていたそうだ。髪は金細工、肌が白い陶器で出ているようだと褒めていて、碧眼と聞いているが直接見れるのを楽しみにしていると言っていたとか。
一方的に寝姿を見られたことについては女として一言物申したい気持ちはあるが、政略とはいえナザロフ国からの申し入れがあった縁談だ。立場上ナザロフ王が歓迎を見せてくれるのは有り難い。
ナザロフ王が結婚式を挙げるのは他国の王族を妻に迎えるときだけだ。
実はバランド国を出発する三日前にファビエンヌは王女になった。他国の王族に嫁がせるときは養子縁組して王女として送り出すとファビエンヌが産まれたとき既に決まっていたことだった。
やはり結婚準備は何年も前から時間をかけて行うのが普通だそうで、打診して了承を貰い一年以内に王女が嫁いで来るなんてことは極めてまれだったようだ。
本来、ナザロフ国側で用意するはずの花嫁衣装がないファビエンヌは、四代前の王に嫁いだ王女のために作られた衣装を着ることになった。
体にピッタリ沿うものではないので丈さえ合っていれば問題ない。
刺繍の技術で生計を立てている村が総出で三年以上の時間をかけたと言う色数の多い緻密な刺繍がされた衣装だった。
明日は王城内の聖堂で改宗手続きをしてから結婚式を行う。
この国では花嫁を宴で披露しないので式を上げたらハーレムに戻って夜の支度をして王を待つことになるのだという。
まだ疲れが残っていたファビエンヌは翌日に響くことを懸念した女官に早く休むよう勧められ、夕食もそこそこに日が落ちてすぐに眠った。
ナザロフ王とは結婚式で初めて会ったがファビエンヌは顔を良く覚えていない。
彼は背が高いので隣に立つと顔がファビエンヌの視界から外れていたし、新郎の顔よりも聖堂の豪奢な美しさ、聖職者と花婿と列席者の衣装の見事さ、聖句の音の美しさの方に心が奪われてしまった。
幸いファビエンヌは頭からベールを被っていたので、花婿以外に気を取られていたことは誰にも気付かれずに済んだ。
ファビエンヌは、ナザロフ王が印象に残らなかった理由を不細工、美男子のどちらでもないせいだろうと思っていたが、初夜の床でその考えが当たっていたことを知った。
薄布で出来た夜着を纏ったファビエンヌが寝台でジリジリしながら待っていると、見事な刺繍の入ったガウンを白い寝間着の上に羽織ったナザロフ王がするりと部屋に入ってきた。
ナザロフ人はそんなに多く見ていないが、ファビエンヌから見て顔立ちだけで判断するとナザロフ王は普通の顔の男だった。ただ表情が動くと途端に精悍な印象に変わる。ファビエンヌの父エマール公爵より年上だというが年齢より若く見えた。
それにとても逞しい体躯だった。はだけた胸元から割と新しい刀傷が覗いていたが、褐色の肌の上に短く走る桃色の亀裂が意図的に入れた模様のように見えた。全体的に嫌悪を抱く要素はどこにもない。
このナザロフ王の印象は、彼がファビエンヌに声をかけたことで更に良い方向に塗り替えられる。
「やあ、バランドの王女」
ナザロフ王は体の奥に響く、とても低い魅力的な声の持ち主だった。
上質な漆黒のビロードで体の内側を優しく撫でられているような気持ちになる。
夜の王。
その声だけでいえば彼は夜を司る王のようだった。
ナザロフ王は静かに寝台まで来ると、大きく硬い掌でファビエンヌの頬を優しく撫でた。初夜の床にいる乙女に警戒心、恐怖心を抱かせないよう配慮した動きだった。
「バランド語か? 今、何と言った?」
そう静かに訊ねられると、ファビエンヌは思ったことが口に出ていたと気付いて唇に掌を当てる。
「あの……夜の王と……」
それを聞いたナザロフ王は意味ありげに笑う。
「まだ、寝台で王らしい振る舞いはしていないが?」
聞いた言葉を頭の中の辞書が変換して、ようやく理解が追いつくとファビエンヌの頬が熱を持った。
「違います。お声がとても深い。まるで、夜のよう」
「深い? 低いと言いたかったのか?」
「いいえ。深いと言いました」
人差し指で顎を上げられると、ナザロフ王と目が合う。
思ってたより長い間、ファビエンヌは瞳の色を覗き見られた。
ナザロフ王の軽く短い溜め息が顔にかかる。
「――お前の瞳は海のようだ。聞いてはいたが、すごい碧だな」
バランド国で碧眼は珍しくないが、ファビエンヌの瞳の色は濃い碧でバランド王家特有のものだった。ファビエンヌはこの色を王妹の母から受け継いだ。
この大陸で採れる最高級の碧玉と同じ色をしている。そのせいで古くからバランド国の王族は結婚相手として人気があった。
ナザロフ王のファビエンヌの瞳の検分はまだ続いていた。
よく知らない人にこんな間近で見つめられたことは初めてで、ファビエンヌは顔の熱さと息苦しさを同時に感じて目をそらした。
その隙きを突くように寝台の上についた手にナザロフ王が手を重ねてくる。
ファビエンヌが緊張で指先が冷えているのを知られてしまった。
熱を移す様に上から軽く握られる。
ファビエンヌの怯えによる震えが手から伝わったナザロフ王が訊ねた。
「怖いか?」
怖いの? ファビエンヌも自問する。
「……怖いのは痛みと失敗です。初めてと最後は一度だけです。最後は塗り替わるもの。でも初めては本当に一度だけです」
これから破瓜の痛みを受けること。初めては一度しか無く失敗するとやり直せないので怖いと言っているのだとナザロフ王は理解した。
「コツを教えてやろう。固くならずに受け取ればいい」
褐色の人差し指が薄布に包まれたファビエンヌの細い肩を血管をなぞるように軽く動くので気を取られてしまう。
「受け取る? なにをです?」
「わたしがこれから寝台の上ですることと、それがお前に与えるものを」
ファビエンヌが不安そうにしながら何度も浅く頷く。
言葉は通じていても内容を理解していないのが見てとれた。
ナザロフ王はその初々しさに思わず笑ってしまう。
「バランド語で夜の王ともう一度言ってみてくれ」
「……ロイデラニュイ」
ファビエンヌは背中から軽く抱きしめられて薄布越しに自分以外の体温を感じた。
こめかみに唇を寄せられて「もう一度」と言われると、ナザロフ王の深い声が直接体に響いた。なぜか目眩がする。
「ロ……ロイ……デ、ラ、ニュイ……」
なんとか出した声は小さく掠れていた。
宥めるようにファビエンヌの頭に乗せられた大きな手が何度か動く。
その手はファビエンヌの予想を裏切りそのまま腰まで滑った。
髪の感触を確認したのかもしれないと思いつつもファビエンヌは身構えた。
髪の毛がひと束持ち上がる感覚がある。
次は何をされるのかビクビクしながらファビエンヌはされるままで居た。
どうやらナザロフ王はファビエンヌの濃い金髪を検分しているようだった。
ファビエンヌが随分緊張してるのでナザロフ王は彼女の金髪を弄りながら、どうやってコトを進めようか考えていた。このまま少し強引に進めても良いが、極力痛みを与えずに済ませるには緊張していない方がいい。
ファビエンヌの頭に軽く唇を押し当ててナザロフ王は言った。
「なあ、バランドの王女」
「ファビエンヌです。ロイデラニュイ」
ナザロフ王は二回ファビエンヌに名前を言わせて発音を確かめると、口の中でファビエンヌの名前を何度も何度も繰り返してから言った。
「ファ……ファビエンヌ? 朝まで随分時間がある。少し話をしよう」
「はい。ロイデラニュイ」
ファビエンヌは自分の名前を少しだけ違う発音で呼ばれるので少し新鮮な気持ちになりながら、勧められるまま弱い酒の入ったグラスを受け取る。それは甘く濃い薫りの果実酒だった。グラスに半分だけ飲む。
グラスを渡すために寝台へ戻ってきたナザロフ王は重ねられた枕に凭れるように寝そべった。ファビエンヌが果実酒を飲み終えたのを見届けて自分の体の前に背中を向けて座るよう指示する。
そんな恥ずかしい真似をするのは躊躇われたが、ファビエンヌは薄布を身に纏っている状態のままでいるより、言われたとおりの姿勢で上掛けをした方が良いと判断して命令に従った。
恥ずかしい上に居心地も悪かったが、その姿勢のままナザロフ王がなんてことない調子で話し始めるので、ファビエンヌもすぐに慣れてしまった。
ナザロフ王は話し上手だったが聞き上手でもあった。
元が身分の低い王子と聞いていたので正直ファビエンヌはナザロフ王のことを侮っていた。話を始めて一時間も経たない内にそれが誤りだったと分かった。
年齢を考えれば当然かもしれないが、彼は博識で、決して武力で成り上がった訳ではなかった。国を治めるのに必要な体系立った知識を身に着けているのが感じられた。
ナザロフ王は大陸共通語が堪能だと分かったので、ファビエンヌは拙いナザロフ語と大陸共通語を組み合わせて自分が思ったことをストレスなく話せた。
ほろ酔いの口が手伝って何度も必要のないことまで話してしまった。
他国の王妃が担う国の役割について話したが、それがナザロフ王の興味を惹いた。
ファビエンヌは気分が良くなり子供の頃に描いていた自分が王妃になったときの理想像の話までしていた。
ファビエンヌにとって体験したことのない状況と姿勢だったがナザロフ王との会話は弾んだ。ただ、少しファビエンヌは困っていた。
ナザロフ王が話をしている間はファビエンヌの首や腕や腰など体のあちこちを人差し指で短く軽くなぞってくる。ファビエンヌが話をしている時は、頭や耳や首、肩や腕に唇を軽く当ててくる。
だから、会話は楽しいのにどこか集中できず、気付けばファビエンヌの息は少しづつ上がっていく。
手足が緊張で冷えていたのが嘘のように体が熱く感じられた頃、耳のあたりを彷徨っていたナザロフ王の唇が唐突にファビエンヌの頬を滑って彼女の唇の上に重なった。
それは、あっと言う間の出来事で、ファビエンヌは嫌だと感じる暇も与えられず、未知なる感覚に呑まれた。
そういえば固くならずに受け取れと言われたのだとファビエンヌが思い出せたのは一瞬だけだった。
ナザロフ王は手慣れた様子で指と唇だけでファビエンヌを蕩けさせた。
纏っていた夜着はいつのまにか肌の上から消えていたが、それに驚く間もなく、自分の上に覆いかぶさる大きく熱い体に絶え間ない快楽を与えられた。
その与えられたものは、とてつもなく柔らかく、口当たりが良く美味しいが、口いっぱいに詰め込まれ、強制されて飲み続けているような不思議な苦しみを伴った。
自分の体が自己統制から外れてしまうことへの恐怖が時々頭を掠めたが、その恐怖も体から侵食してくる頭を麻痺させる甘く熱い何かに飲み込まれた。
ファビエンヌは訳が分からず涙を流して喘いでいる間に、軽い痛みを感じて破瓜を迎え、乙女ではなくなった。
頭を撫でられている感覚に意識が浮上する。見慣れぬ男の顔が間近にあったことで、ファビエンヌは昨晩の出来事を思い出した。
恐らくファビエンヌが朦朧としていたせいだろう。ナザロフ王は苦笑いしながら、また今夜来ると言い残して部屋を出ていった。
その背が消えるのを見届けてからファビエンヌはまた意識を失うようにして眠った。
昼頃、ナザロフ王から金貨や宝石などの贈り物が届いたとして女官に起こされた。
ファビエンヌが湯を浴びている間に血のついた敷布は持っていかれた。女官の話だと血で汚れた部分を切り取って王宮で保管しておくのだそうだ。
敷布を確認した文官は、バランド国に宛ててファビエンヌが純潔と認められたことへの報告の手紙をこれから書いて送るのだそうだ。
他の国でも似たようなことはある。分かってはいたが改めて聞かされてファビエンヌはげんなりした。
結婚式をあげた正式な妻の元へは三日続けて通うと決められているようで、今夜と明日の夜もナザロフ王はファビエンヌの元を訪れる。
この最初の三日間が過ぎれば次の訪れはナザロフ王の気分次第。それを思うとファビエンヌも受け身のまま過ごしては居られない。
国同士の関係を考えるとハーレム内で自分が冷遇されることは絶対にないと分かっているが、ファビエンヌは残りの二日間で義務感以外の感情をナザロフ王に持って貰いたかった。
ここに居るナザロフの女達は美しいと聞くが、大きな差が出るような違いはないだろう。つまり、ファビエンヌのような外国人ほどには。
これほど女の多いところで生きるなら他との差別化は必要だ。幸いナザロフ王は自国の女と異なるファビエンヌの容姿を気に入っている。
女の美点は磨くに限る。ファビエンヌの肌と髪は色が薄いので焼けないよう十分気をつける必要があった。顔や体を手入れする化粧品や香も祖国のものを取り寄せることに決め、ファビエンヌはさっそく義母で伯母でもあるバランド王妃に手紙を書いた。
ファビエンヌは初めて知ったが、伽をした翌日に金貨や宝石などが王からの褒美として届けられるのは普通のことなのだそうだ。正直そんなものより消費しても無くならない知識や人脈が欲しかったファビエンヌは、さっそく二日目の夜に訪れたナザロフ王にそのことを強請った。随分驚いた顔をしていたところを見ると、この申し出はナザロフ王にとって意外なことだったようだ。
ファビエンヌはハーレムの愛玩されるだけの女達と同じ場所に立ちたくない。これは他国の王女として嫁いだファビエンヌの傲慢な考えかもしれないが、若さに頼る美しさなど経年劣化で瞬く間に価値を失ってしまう。そんな寄る辺ないものに頼って生きていくなんてファビエンヌは愚かなことだと思っていた。
だから三日目の夜、今度は自分が出来るなにか国の役に立つ仕事をとナザロフ王に強請った。生国バランドが自分に金と時間をかけて学ばせたことをこのハーレムで腐らせていくのは嫌だとファビエンヌが思っていたからだった。
例えば、今後も他国の王族を妻として迎えるつもりなら、現在のハーレムでその土壌を作る役をフィロメナ王女か自分に期待しているのではないか。割り振りが決まっていないなら、是非自分がやりたいとファビエンヌは申し出た。
こんな風にナザロフ王とファビエンヌはハーレムに居るにしては少し変わった夜を過ごした。
二日目はナザロフ王はこの国について多く語って、ファビエンヌは聞き役に回った。三日目はファビエンヌがバランド国と周辺国について知る限りを話し、ナザロフ王は多く質問した。
そして、いずれの日も初夜と同じように、夜が更けて話の終わりを誘導したナザロフ王は技巧を駆使して不慣れなファビエンヌを寝台の上で酔わせた。
滑り出しは順調のように思われた。
だが、それは結婚式での規定の三日が過ぎた翌日の夜に女官からナザロフ王が他の女の所へ行ったと聞かされるまでのことだった。
そのことを聞いたファビエンヌは自分の穿いていた下穿きを無断で他人に使われたような生理的嫌悪感に襲われた。
ファビエンヌは苦い思いと共に、自分がハーレムで生きることの本当の意味を知らずにいたことを理解する。そして自分もまた他人が足を通した下穿きを穿くことになり、この夫という名の下穿きの共有はハーレムに居る限り続くのだと。
沸き起こる嫌悪感は如何ともし難く、これは何としても割り切らねばならなかった。
ナザロフ王とは信頼関係を築くつもりだし、たった三日を過ごしただけの間柄かもしれないが、その基礎は築かれつつあるとファビエンヌは認識している。
けれど、彼を男として愛する必要はあるだろうかとファビエンヌは考える。
もう誰かに心を預けるのが怖い。ここでは心を移されたとしても不実と呼ばれて非難されないし、心の移し先となる女なら大勢いるのだ。
夫をケーキのように切り分けて他の女と分け合う。
現在三十二分の一。とてつもなく薄っぺらい一切れだ。
その薄さを想像して思わずファビエンヌは笑ってしまった。
この国の王は、そういう生き物なのだ。
自分は王を慰め、多くの子供を産むことを期待されている。
王は国を治めて、やはり多くの子供を成すことを期待されている。
そのためにハーレムは必要なのだ。
特にハーレムがある国は、戦争が多く人口が減りやすかったり、気候や環境が悪い理由から子供が育ちにくい傾向がある。
こんな風にファビエンヌは理性的に考えて、心の中で悲鳴をあげる自分を上から抑えつける。
心の中で苦しみ藻掻くファビエンヌが救いを求めて彷徨った末にマティアスを見つけた。
胸の真ん中にいつまでも居座っている癖に何の救いも齎さないマティアスを。
今日のマティアスは自分ではなく右腕に抱いたセシルを見ていて、やっぱりなんの救いにもならなかった。
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