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第7話 心の置き場
朝食が済んだファビエンヌは室内の日差しを避けた場所で食後のお茶を飲んで寛いでいる。視界の隅では女官達がファビエンヌの顔を窺いながらソワソワしていた。
その女官達を視界に入れないように座る位置をずらしたファビエンヌは自分の失敗に少し頭痛がし始めていた。
それもこれも、昨夜ナザロフ王がハーレムの別の女の元へ行ったと聞いて少しの間、ファビエンヌが不覚にも表情を取り繕えなかったせいだった。
その後も気が塞いでいたせいか、あれからずっと腫れ物に触るように扱われている。
憂鬱なのはお盛んな王のせいだけじゃない。自分を裏切って破滅した初恋の男を思い出したせいもあるのだと言ったら彼女たちはどんな顔をするだろう。
ファビエンヌは自分のつまらない考えを頭を軽く振って追い出すと、女官達に視線を送って呼び寄せた。
「これから? ……わたしは今からナザロフ語の勉強を始めたい。用意をしてちょうだい」
ナザロフ語で言うと女官のノンナは微笑みながら頷くと傍から離れていく。
今度は女官のオリガが近づいてきてお茶のおかわりを勧めてくる。
女官のルフィナは、沢山の花が綺麗に生けられた大きい花瓶を重そうに持ち、視界に入れて和んで貰おうとファビエンヌが見える位置まで移動しようとしていた。
彼女たちは良く仕えてくれているとファビエンヌは思う。
女官達は、それぞれ自分に出来ることを見つけて、より良い仕事をしようと努めている。
誠実な仕事をする勤勉な彼女たちに見合う主でいたい。だから今は勉強を、と女官のノンナが持ってきたナザロフ語の本を開いた。
この国の他分野の知識を教える教師と国に役立つ仕事を伽の褒美として求めたが本当に手配してくれるだろうか。
ナザロフ王――次、この部屋に来たらどんな顔で迎えたらいいのか。
ファビエンヌはいつのまにか夢想に耽り、ナザロフ語の本ではないところに視線を彷徨わせて顔を顰めていたようだ。それを見た女官のノンナが心配そうに近づいてくる。
「タラサ・ステマ様。この辺で一旦、お止めになられてはいかがですか? よろしければ、昼食をお持ちしますが」
ぼんやりしている最中、聞き慣れない名前で呼ばれたのでファビエンヌはすぐに反応できなかった。
「ええ、止めるわ。用意をしてちょうだい」
勉強を始めて二時間ほど経っていたようだ。
ファビエンヌは長椅子に移動して背もたれに体を預けて目を閉じた。
タラサ・ステマ。改宗したときにつけられたファビエンヌの新しい名前だった。
ファビエンヌの瞳の色を伝え聞いた大司祭が選んだ名で、古い聖典の中にある " 海の王冠 " という意味の言葉を取ったものだという。
婚姻後の改宗についてバランド国の保守派貴族の一部から反発があったと聞いている。こんな名前をつけたのは国をあげてファビエンヌを尊重しているとバランド国へ見せたいからだろう。
違う名前で呼ばれるのは、まだ慣れない。自分以外の別の誰かになれと強制されているようでとても嫌だ。
ただ、これを拒否すれば国教を受け入れていないと思われて立場が悪くなるとファビエンヌは知っていた。
まだハーレムに入って五日目だというのに、ただ静かに暮らしているだけでこんなにも疲れる。ファビエンヌは新しい環境に根付くには、これほどの精神的負荷が伴うものなのかと自分のことながら感じ入った。それも自分だけに課せられた苦行ではないとファビエンヌは分かっているからまだ我慢ができた。
軽く昼食を済ませたあと、また勉強するつもりでファビエンヌが部屋の隅に積み上がっている本に目をやると女官のオリガが進み出た。
「タラサ・ステマ様。もし、よろしければ……」
気分直しにと勧められ、ファビエンヌはその日の午後、ハーレムの目立った女達を招いて挨拶代わりの茶会を開くことにした。
このタイミングでハーレムの女達に会うのは正直気が重いが避けて通れないことだった。それに挨拶なら早いほうがいい。
政治的なものではあるが、この国の王に求められて結婚した正式な妻であるファビエンヌは、バランド国の王女としても、一人の女としてもハーレムの女達に舐められる訳にはいかなかった。それは女官達も承知していて、茶会の準備もファビエンヌの装いも手抜かりなく整えていった。
ファビエンヌの金髪は宝飾品のように何種類もの複雑な編み方を組み合わせて纏められた。白い肌は、より輝くようにクリームが塗られた。
体の白い所はより白く、赤い所はより赤く、光る所は眩しい位に磨かれた。
大仰に体を飾りたくないが装飾品が少ないと侮られると女官に言われて装飾品については女官に任せた。
衣装はファビエンヌの瞳の碧と金髪が映える薄い水色の生地に金糸と光る石が縫い付けられたものだった。
飾れるところには容赦なく装飾品がつけられたのでファビエンヌは、ただでさえ気が重いのに、耐えなければならない重さに、体の重さも加わった。
その苦労の甲斐があり、ファビエンヌは相当見栄えのする姿で茶会に挑むことが出来た。
急なことだったがフィロメナ王女を除いた全員が招待に応じた。
ファビエンヌの身分を慮って女官達は強く勧めなかったが、ハーレムに入った女は挨拶代わりの茶会を開くのが慣例らしい。ハーレムの女達は自分の仕える主人が新たに迎えた二人目の妻の茶会に招かれるのを待っていた。
フィロメナ王女が欠席したが招待した女達に動揺はなかった。
王女は挨拶代わりの茶会を開かず、その後も誰とも会わずに過ごしているようだ。
当然、周囲の評判は余り良くない。今回の欠席の理由も身分の低い者と同席したくないからではと噂されていた。
ハーレムのどの女を招待するかは女官が決めた。
既にナザロフ王の手が付いている女とこれから手が付くだろう女だった。
その数七人と意外にも十人にも満たない。
いずれも国の要人の娘や同じく要人が献上品として差し出した女奴隷だった。
ハーレムの中もやはり政治的なものが絡んでいる。
その要人たちが国のどの位置に居るのか調べる必要がありそうだ。
ナザロフ王はハーレムで享楽的に過ごしているとファビエンヌは思っていたが違っているのかもしれない。
どの女も若く美しく、豊満な体を持っていて、躾が行き届いている。
ファビエンヌの立場も自分達の立場も良く分かっているようだ。
愚かな真似をしそうな女はこの中には居ない。
残念ながら、この中で大陸共通語が分かる女は大臣の娘一人しかいなかった。
その大臣とは大粛清の際にナザロフ王の右腕と称された男のことだろう。だとしたら、王族として嫁いだファビエンヌとフィロメナ王女以外でこのハーレムで権力を持っているのは大臣の娘のヘドヴィカかもしれない。
茶会での会話では通訳を挟んだ。ファビエンヌも短い返答ならナザロフ語で出来るが、もてなす側が客に気を使わせてはいけない。
女官を通訳にしてファビエンヌは彼女たちと会話を楽しんだ。
女官達は時々大陸共通語で耳打ちしてくれるので短い時間だったが色々と分かったことも多く収穫だった。
茶会は無事に終わり、噂の真偽を確かめる必要があったファビエンヌはフィロメナ王女に接触することにした。
ファビエンヌがハーレムに入った日にフィロメナ王女からも祝いの品が届いていた。その御礼と挨拶を兼ねてフィロメナ王女にだけバランド産のお茶でもてなしたいので都合を聞かせて欲しいと女官を使いに出した。
明日でも良いと食い気味の返事が返ってきたことで、どうやら噂通りらしいとファビエンヌは判断した。
王女が嫁いできて四ヶ月になる。自分より格下の女と話をしたくないと思っているなら、今相当会話に飢えているのではないかとファビエンヌは考えた。そして、その予想は当たっていた。
ファビエンヌが持っているフィロメナ王女に関する情報は、それほど多くない。
溺愛されて育った末の姫。
モンタルバン王家特有の赤毛と翠眼で顔立ちは愛らしい。背は高くない。
彼の国には王子が三人、王女が四人居る。
フィロメナ王女の姉たちは既に三人とも政略で外国へ嫁いでいた。
これ以上、政略に娘を使う必要もないとの王の意向で末娘のフィロメナ王女は将来、恋愛結婚をすることを許されていた。
だが、モンタルバン国と周辺国の間で諍いが起こって状況が変わり、モンタルバン王は苦渋の選択を迫られた。モンタルバン王はナザロフ国との同盟を求めてフィロメナ王女を政略の駒としたのである。
現ナザロフ王が行った大粛清は大陸中に響き渡っていたので婚姻による同盟関係が結ばれると、それを恐れた周辺国からの手出しはなくなった。
実際のフィロメナ王女は聞いていたとおりの容姿でファビエンヌの目から見てもとても愛らしかった。自国の女を見飽きているだろうナザロフ王が彼女の容姿を気に入ったのは想像に難しくない。
ただ、フィロメナ王女は体型も愛らしいので、そこはどう思っているのかは知らない。豊満なナザロフの女の反対を行く、控えめ、慎ましいという表現が相応しい、まるで少女のような華奢な体だった。
それもあってファビエンヌより二歳年上というが全体的に年齢より幼い印象を受けた。
フィロメナ王女の祖国モンタルバンはその周辺国との共通語のオロスコ語も公用語としていた。ファビエンヌは妃教育の一貫としてオロスコ語を習得していたので、言葉に飢えていたフィロメナ王女の心をいとも簡単に掴んだ。
そして、フィロメナ王女はファビエンヌが自分のことを元の名に王女という敬称をつけて呼ぶことも喜んだ。この場に適応することを拒んでいるなら、そう呼ぶ方が良いだろうというファビエンヌの判断は正しかった。
話を聞くとフィロメナ王女はナザロフに嫁がせた父王と祖国を相当恨んでいた。
ハーレムでは部屋に閉じこもって泣き暮らしていたようだ。
お茶を飲みながら、ここでの暮らしの不満や父王への恨み辛みをたっぷりと話していった。
ファビエンヌは聞いているだけでお腹がいっぱいになったが、フィロメナ王女は全く言い足りなかったようで今度は自分が招きたいと茶会への招待をうけた。
翌日の午後、フィロメナ王女の部屋に招かれてファビエンヌはモンタルバン産のお茶をいただいた。
フィロメナ王女の専属の女官達の顔は冴えない。
立場上ファビエンヌを警戒しているのかと思ったが、それが見当違いだということは後に知れた。
ファビエンヌは昨日に引き続きフィロメナ王女の愚痴をたっぷり聞いていた。
ここの女官も大陸共通語が出来るようだが、フィロメナ王女は余り大陸共通語が得意ではないようだ。これでは意思疎通を図るのも難しかっただろう。
これまで愚痴を言う先もなかったフィロメナ王女の緩んだ口から吐き出される文句は留まるところを知らなかった。話す内容も相まってファビエンヌは濁流に飲まれたようにも感じた。
それをおくびにも出さず、ファビエンヌは聖職者のような気持ちでタイミング良く相槌を打って、彼女が望む言葉をかけた。
そして、少しだけフィロメナ王女の気持ちが落ち着いたのを見計らってファビエンヌは言った。
外国から嫁いだ女にしか分からないことがある。
外国から嫁いだ女にしか出来ないことがある。
ファビエンヌはハーレムの中で上手く生きていく為の同盟関係をフィロメナ王女に求めた。これをフィロメナ王女は意味が分からないまま了承した。
その理由は幼稚だった。彼女はこの場所で初めてできた自分と不自由なく会話のできる友人の機嫌を損ねたくなかったのである。
ところが、フィロメナ王女は新たな友人の考えに決して迎合できない部分があった。
ナザロフ王を話題にするとフィロメナ王女は急に顔を醜く歪ませた。
ハーレムの女と共有することへ抵抗がある以前に、彼女は自分の父親ほどの年齢の男を夫とすることが受け入れ難いのだという。
フィロメナ王女の拒絶がファビエンヌには少し不思議だった。
あの魅惑の声を抜きにしてもナザロフ王はそれなりに魅力的だと思っていたし、最初の三日間は抱かれるのも嫌ではなかった。
「フィロメナ王女はナザロフ王に通って欲しくないのですか?」
不敬と言われかねない際どい話だったが彼女の女官はオロスコ語が分からないのでファビエンヌは声をひそめない。
「当たり前でしょう!? 特に容貌が優れている訳でもない上にあんなお年の方よ? 気持ちが悪い!」
フィロメナ王女は周りが言葉を解さないのを良いことに言いたい放題だ。
モンタルバン王はフィロメナ王女を降嫁させていつまでも手の中で可愛がろうと思っていた。
だからフィロメナ王女の周りを侍ることを許されていたのは比較的若い上位貴族や上位貴族の子息、近衛騎士といった見目が良く、若く、身分のある男たちばかりだった。フィロメナ王女もずっとそのつもりでいたのだ。
大粛清で有名になった血腥い国の並の容姿の中年王が夫になるなど想定外もいいところだった。
ついにフィロメナ王女は、愛のない行為が受け入れがたいと言ってシクシクと泣き出した。
フィロメナ王女は感情むき出して喋ってくるが、これは理解者を漸く得たからという訳じゃなく元々の性格ではないだろうか。この調子ではナザロフ王への接し方も想像出来てしまう。フィロメナ王女付きの女官の冴えない顔を見るとファビエンヌのその予想も外れてなさそうだ。
フィロメナ王女の元へは週に一度か十日に一度の割合で通って来るらしい。ファビエンヌが来たことで回数が減ることを期待しているようだが恐らくそれはない。
甘やかされて育ったフィロメナ王女は表情を繕うことも満足に出来ず、嫌々抱かれているのがナザロフ王も分かったのではないだろうか。求められて応じた形とはいえ、外国から嫁いできた王女の元に通わず、ハーレム内で放置しておくのは外聞が悪い。だからナザロフ王は不仲と思われないギリギリの間隔で通っているというのがファビエンヌの見立てだ。
「けれど、王の元に嫁いだ女の義務は理解されているのでしょう?」
わざと目を眇めてファビエンヌが言うとフィロメナ王女は渋々言った。
「ええ、それは……」
「それでは子供を、出来れば男児を二人産むまでと割り切られたらいかがですか?」
表情を見る限りフィロメナ王女にとって良い考えではないようだ。だがファビエンヌは続ける。
「義務を果たしていたら対外的にも言い訳が立ちます。二人産んだらこれ以上は産むのが難しいとでも医者に言ってもらうのです。そうしたらナザロフ王もここへは子供の顔を見に来るでしょうが、伽も免除して貰えるのではないでしょうか」
避けられない義務なら早く済ませるように努力する方がいいと持論を述べるとフィロメナ王女が考えてみると言って、そのまま物思いにふけってしまった。
なんとも自由な王女様だ。ファビエンヌは内心呆れながら、聞こえていないだろうが今日のもてなしへの礼をして暇を告げた。
その翌日は待ちに待った教師が派遣されることになった。
授業は小宮殿に用意された一室で行われる。今後授業のある日は特別許可を貰い女官二人を伴ってハーレムを出て護衛兵士に守られながら小宮殿まで歩くのだ。
今日は教師五人への顔合わせが目的なので簡単な挨拶だけで済ますはずだったが、各教師はファビエンヌがこれまで何を学んできたか興味があるようで、質問を受けている内に気付けば予定時間を大分超過していた。
とても充実した時間を過ごせたファビエンヌは意気揚々とハーレムに戻った。
教師たちから渡された何冊かの本を嬉しそうに抱えたファビエンヌを見て、女官達は主人を煩わせていた気鬱が消えたと思って喜んだ。
結婚式から八日目。ファビエンヌは今夜の伽に選ばれたことを女官から聞いた。途端に憂鬱な気分が戻ってくる。
午前中の勉強は軽くしか出来ず、フィロメナ王女のお茶の誘いは断って、午後はナザロフ王を迎える準備に追われた。
その日の夜。予定より早い時間にナザロフ王はファビエンヌの元を訪れた。
ファビエンヌは夜伽の準備を終えていて、丁度ガウンを羽織って長椅子で本を読んで寛いでいるところだった。女官達がそっと出ていくのが見える。
「やあ、ファビエンヌ。どうだ、体は癒えたか?」
やっぱり良い声だった。だが、なんのことを言っているのか分からずファビエンヌは少し考えた。
共寝した三日間、体に負担をかけたが、それは回復しているのかと聞いているのかもしれない。確かに破瓜したのだし体はそれなりに傷んだ。今は違和感も余り感じない。回復したのだろう。
この数日、他の女に触れた手で今夜は――と思うとファビエンヌの心は沈んでいく。
ファビエンヌは少し顔を伏せながら答えた。こうすれば恥ずかしそうに従順に見えるだろうと思いながら。
「はい。ご心配ありがとうございます。わたしの体は大丈夫です。何も問題ありません」
最後に言葉を交わした時よりも随分発音が良くなっていてナザロフ王は感心しながらファビエンヌの横に腰をかける。
「この数日でナザロフ語は少し上達したようだな」
ファビエンヌは恥ずかしそうに頷いてから大陸共通語に切り替えた。
「偉大なる陛下。先日のわたくしの厚かましい願いをお聞き入れいただき、ありがとうございました。お手配いただいた教師達とは、昨日顔合わせと挨拶を小宮殿で済ませました。初日ですのでそれだけのつもりでしたが、以前の学習内容への質問があって、今後の学習計画にまで話が進みました。わたくし、授業を受けるのをとても楽しみにしておりますの。しっかり勉学に励んで、将来は必ず陛下のお役に立ちますわ」
碧い双眸を知性で煌めかせて生き生きと説明をするファビエンヌが嬉しそうにお礼を言うのでナザロフ王は気分が良かった。
拙いナザロフ語から堪能な大陸共通語を話し始めると語彙が増えて別人のように印象が変わる。
ファビエンヌは知識に対して貪欲なのだろう。ハーレムの女特有の媚びた含みがない。まるで明るい未来を信じている忠実な若い配下と話しているようだとナザロフ王は思った。
「ああ、聞いている。無理せず頑張るといい」
言いながらファビエンヌの手を取って、その冷たさにナザロフ王は内心動揺してしまう。室内が寒くない状態で病気でもない女の手が冷たいのは精神的に緊張状態であることが多い。ナザロフ王はこの冷たさは馴染みがあった。
気付かぬ振りを装ったナザロフ王は初夜にそうしたように酒を勧めた。デキャンタに入った果実酒をグラスに半分注いで渡してやる。ファビエンヌは恐縮しながら受け取ると五回に分けて飲み干した。
「さあ、また少し話をしようじゃないか。ファビエンヌ?」
ナザロフ王はファビエンヌの冷えた手を掴んで寝台へ連れていく。重ねられた枕を背もたれにして並んで座った。
手を伸ばしてファビエンヌのこめかみの辺りから豊かな金髪をナザロフ王は撫で漉いた。伸ばされた手に一瞬肩を揺らしたもののファビエンヌはされるがまま受け入れた。
「わたしのハーレムには少し慣れたか?」
この無神経な質問がとても気に触ったファビエンヌは、感情を目から悟られるのを避けたくて賢明にも目を閉じた。
「挨拶の茶会をしました。皆、美しくて良い方。わたしに優しくしてくれました」
「そうか。それは良かった。年が近い者ばかりだ。仲良くしてくれ」
ファビエンヌは目を伏せて微笑むだけの返事をした。
ナザロフ王は僅か違和感を覚えていた。なにが変わってしまったのか、その違和感の元を突き止めたくて気付かれないように観察する。
頭の頂きに唇を押し当てながら、ナザロフ王は手の甲を使ってファビエンヌの顔の輪郭を柔らかく辿った。
三日の間、徐々に体を預けることを覚えていったファビエンヌの体は、それをすっかり忘れたようだ。ナザロフ王は会わない間にファビエンヌが心を閉ざしてしまったように思えた。
「ファビエンヌ。会えない間に何かあったか?」
顔を覗き込むと、ファビエンヌもナザロフ王を見上げる。
そのまま重ねる意図で近づいて来る唇をファビエンヌは手で軽く押さえた。
「フィロメナ様とお茶をしました。二回」
「フィロ? ああ、リアマ・ノーチェか」
リアマ・ノーチェとは炎の夜という意味のフィロメナ王女の改宗後の名前だった。
なぜ自分と呼び方が違うのか気になったがファビエンヌは今聞くのは止めた。
大陸共通語でファビエンヌはお茶の様子を話した。
「フィロメナ様はお言葉が不自由なため、お心に溜め込んだものが多いようでした。すっかりとは言えませんが二日でかなり多くお話を伺えたのではと思っております」
ナザロフ王はそれを訝しく思って片眉を上げる。
「ファビエンヌ、ちょっと待て。リアマ・ノーチェとどうやったら会話が成り立つのだ。あの娘は大陸共通語が余り出来ないだろう?」
「わたくしはオロスコ語ができますので、それで」
「ああ、どこに嫁ぐのか決まらないまま教育を受けていたんだったな」
ナザロフ王のつぶやきにファビエンヌの心が冷えた。
「はい。そのとおりです」
そう言いながらファビエンヌはまたも目を伏せる。
バランド王家は大陸の情勢の変化に対応しうる有利な駒としてファビエンヌに高度な教育を施し、主要な幾つかの言語を学ばせた。どこに嫁がせても良いように。
その話をファビエンヌからナザロフ王にしたことはない。
やはりナザロフ王は今のバランド国の事情もファビエンヌの立場も知っていた。
知っていて婚姻の打診をしたのだとこれで分かった。
ファビエンヌが婚約していたことも、バランド国からの婚姻の申し出で、それが白紙になるのも分かっていたのだ。
不安定な国政を支えるために強い国へ縁を求める。政治的な判断だ。誰が悪いわけじゃない。でも、あの申し出さえなければとファビエンヌが思っても誰も責めないだろう。
マティアスの様子がおかしいことはすぐに気付いたのだ。セシルの悪事だって公爵家の間諜を使ったら、そう時間が掛からずに分かっただろう。そうすればマティアスは騙されたことを知って正気に戻っただろうし、問題なく婚約は継続された。
そのままマティアスと結婚して幸せになる未来があったかもしれない。
今、ここにいることもなかったかもしれない。
いつまでも目を伏せていては変に思われるとファビエンヌは困ったような顔を作った。
これまで感情を隠す訓練もしてきた。
どんな演技も出来るようにも教育を受けている。
感情の切り替えが出来る術も学んでいる。
話に間が出来てしまったのも言いにくいことだからと思ってもらえるだろう。
「……フィロメナ様のお話から陛下がご苦労されているのが分かりました」
掌で顔を覆い心底疲れた様子でナザロフ王は深いため息をつく。
「ああ、嫌われているんだ」
悲壮感が出ているのを見て、ファビエンヌは不覚にも少し可愛いと思ってしまった。
「わたしもこの歳だからな。若い女に嫌われたり泣かれたりするのは堪える」
ナザロフ王は弱ったように寄り掛かって来る。ファビエンヌは思わず、くすりと笑ってしまう。
「僭越ですが、わたくしから王に嫁いだ女の義務についてフィロメナ様には改めてお伝えしました。お考えいただけそうです。これから陛下のご負担も軽くなると良いのですが」
「そうか。それは助かる」
ファビエンヌは小さく微笑んで役に立てて嬉しいことを伝える。
「それでお前は?」
ちらりとナザロフ王は顔を窺ってくる。
「リアマ・ノーチェから悪口をたっぷり聞かされて、お前もわたしのことが嫌いになってしまったか?」
思わぬことを言われてファビエンヌは破顔してしまう。
「いいえ。決して、そんなことは」
くすくす笑って返答出来たのはそこまでだった。
「では、国に帰りたくなったのか?」
ぎくりとする。唇が震えそうになるのをファビエンヌは堪えた。
「いいえ。いいえ」
少し強く否定しすぎたとファビエンヌは自分の失敗にひやりとした。
余計な言動や動作は隠そうとしているものがあると相手に分からせてしまう。
「ファビエンヌ」
その声の硬さでナザロフ王に知られたと分かる。
「はい」
「お前を国に帰すことはできない」
ファビエンヌは出てこようとする溜め息を堪える。
「分かっています。わたくしは神前で誓って妻になった身です。陛下にお許しいただけるなら生涯お傍でお仕えするつもりでおります」
返答がないのでファビエンヌは隣のナザロフ王を仰ぎ見る。信じていないような顔をしていた。
「本当です。相手も決まらないまま厳しい妃教育を受けてきた子供の頃から、わたくしは夫となる方がどんな方でも愛して心を通わせようと決めていたのです」
ファビエンヌは大陸共通語で自分の気持ちを伝えるのに言葉を尽くした。
話したことは、どれも嘘じゃない。
”でも、今はそんな気持ちになれそうにない”
そのことを言わなかっただけだ。
「わかった」
短い返答があってファビエンヌは小さく安堵のため息をつく。
「ファビエンヌ」
名を呼びながらナザロフ王の太い腕がファビエンヌの背中を通って細い肩を掴む。
「はい」
「もう夜の王とは呼んでくれないのか?」
ファビエンヌは困惑して何度も瞬きをする。
あの三日間と同じように呼ぶのは躊躇われた。もう色々なものを知ってしまってはあの時と同じ気持ちで居られない。
返事に迷っているとナザロフ王に唇を寄せられたので、ファビエンヌは抵抗を感じて目を閉じる。結局、唇を受け入れてしまったが、返事をせずに済んだ。
ナザロフ王は指と唇で巧みにファビエンヌを蕩かそうとした。ファビエンヌの体は与えられた悦びを覚えていて教えた通りの反応を返したが、忘我の境の向こう側へは渡らないという強い意志が感じられた。まるで外からどんな熱を加えようと決して溶けない氷の塊を中心に持っているかのようだった。
時々瞑っているファビエンヌの目が開いたが朦朧とした瞳はここではないどこかを見ていた。その目の奥の奥が凍っているようにナザロフ王には思えた。
ファビエンヌの体は熱く柔らかく溶けていて、その気になればそのまま進むことは出来た。けれどもファビエンヌの心の何処かが自分を拒んでいるように思えて、今夜はもうこれ以上は無理だろうかとナザロフ王は諦めようとした。
しかし、ファビエンヌの耳の後ろに唇を押し当てて名を呼んだことで、これまでの膠着に一気に決着がついた。仕留められた若い牝鹿が悲しみを抱えて高く鳴くようにファビエンヌは急に体をのけぞらせて啼いた。
氷の塊は一気に溶解して消える。ファビエンヌが一気に忘我の淵に沈んでいくのをナザロフ王は半ば驚きながら眺めていた。
「ああ……ロイデラニュイ」
切なげに細く小さい声で囁かれるとナザロフ王も昂ぶって心のまま動いた。
バランド語で言い続けるうわ言にファビエンヌが正気を失っているのが見て取れた。
ナザロフ王が与えるものを受け取るが追いつかず感極まってファビエンヌの閉じた目の端から涙が流れていく。
ファビエンヌはもう自分が何者かも分からない。
自分を熱して溶かす声が意味のある言葉を発しているのも分からなかった。
その夜ファビエンヌは何度もバランド語で夜の王と呼んだ。
ナザロフ王はそれを心地良く聞いて体で応えた。
部屋のどこかで女官達の興奮気味な甲高い声がする。
ファビエンヌの目覚めは最悪だった。
喉と体のあちこちが痛んでいた。そして途方も無い屈辱を感じた。
征服された。夜の王に。体を占領され、併合され、自我を消滅させられた。
あの声と手管で屈服させられたのだ。
自分の心と身体がままならないのが悔しかった。
体がナザロフ王に容易く従うのなら、いっそ心もそうであったなら何の苦労もなかったのに。
苦悩する主の気持ちを知らず、女官達は騒いだままファビエンヌの寝台の傍までやってきた。
「タラサ・ステマ様! お目覚めください!」
「御覧くださいませ! 陛下からの贈り物です!」
「タラサ・ステマ様! これほどの! これほどの褒美は、このハーレム始まって以来でございますよ!」
女官達は興奮気味だった。
疲れているのを隠さないままファビエンヌはガウンを羽織って寝台を出た。
センターテーブルの上に金貨や宝石の数々がこれまでと比較にならない程の量、積み上がっていた。
昨晩はとても満足した。そういうことだろうか。
自分にとって屈辱的な夜もナザロフ王にとっては違ったということか。
ファビエンヌは虚しさを感じた。
早く湯を浴びて昨晩の名残を洗い流したいと思っているのに女官達はまだファビエンヌを離さない。
「タラサ・ステマ様。陛下から、こちらも」
渡されたのは小さなブーケだった。
「このような贈り物をされるのも、この現ナザロフ王のハーレム始まって以来でございます」
興奮して紅潮した顔の女官のノンナは誇らしげだった。
花は華やかさのない素朴なものだった。優しい色のものを選んだようだ。
良い香りがした。一種類の花の香りではないだろう。
幾つかの花が束ねられることで得も言われぬ芳しさになっていた。
この花束は贈り主のナザロフ王のようだった。
ファビエンヌの夫の。
夫を愛して心を通わすことができるだろうか。
ファビエンヌは問う。自分に。あるいは神に。
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