1.尚人

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 もちろん最近の栄のご機嫌からすれば、わざわざ深夜帰宅を出迎えれば気分を損ねる可能性が高いとわかっていた。普段から栄は「気にするな」「寝てろ」「何もしないでいい」と繰り返しているのに、それを承知で余計なことをしたのだから自業自得だ。  だが、万が一にも出迎えを喜んでくれるのではないか、気遣いを受け入れてくれるのではないか、そんな期待を捨てきれなかった。馬鹿なことをして、予想通りの結果になっただけ。わかっているのに胸が痛んだ。  自室に戻ると尚人はブランケットの中にもぐりこむ。ベッドにはまだ少しだけ自分の体温が残っていた。  ずっと尚人の勉強部屋として使っていた六畳間に「寝室を分けよう」という恋人の一声でセミダブルのベッドが運び込まれたのは約二年前のこと。もともと二人で眠るためのダブルベッドを置いてあった部屋はその日から栄がひとりで眠る部屋になった。  栄はインテリアにもこだわる男で、一緒に暮らすことを決めたときにはリビングのソファだけでなくあらゆる家具を精査するためいくつものショールームやアンティークショップを回った。栄の寝室にあるダブルベッドは北欧ブランドのフレームに有名メーカーのマットレスを置いたものだ。だが、尚人の部屋に新たに運び込まれたセミダブルベッドは通販サイトで注文された、量販店の廉価モデルだった。 「俺の帰宅が遅くなることが多いからナオも落ち着いて眠れないだろ。博論の準備とかでナオだって自分のペースがあるだろうし、お互いメリハリが大事だからな。忙しくて間に合わせになったけど、気に入ったベッドがあれば後で買い換えればいい」  実際そのときの尚人は大学で博士課程の単位を取り終わり、あとは論文を書くだけの状態になっていた。だから栄の申し出は寂しくはあったものの、優しさ故だと自分を納得させた。  そんな流れで寝室を分けるようになり、最初の頃は週に二度ほどは栄の方からやってきていた。それが週に一度になり、月に一度になり——。  だから今日も尚人はひとりで眠る。  仕事が多忙で平日は良くて終電、タクシー帰りも当たり前どころか職場に泊まって帰ってこない日もある。休みの日も土日のどちらかは出勤しているし、家にいてもパソコンとにらめっこしてばかりの恋人の体を本気で心配しているから、寂しいだなんて言えるはずはない。  夜を数えるようになったのはいつからだろう。毎朝目を覚まして、サイドテーブルに置いたカレンダーにしるしをつける。「昨晩も、なかった」その事実を刻み込む。  付き合いはじめてから8年。  体の関係がなくなってからは、もう350日を超えた。
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