プロローグ

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プロローグ

 肯定とは、最も優しい呪いである。  肯定された者、顧みることを忘れ、  肯定した者、拒否することを忘る。  人を呪わば穴二つとは、かく言えり。      ◆  ◆  ◆  ◆  ◆    雨粒が、トタン屋根を打った。    琴原(ことはら)は詩集から顔を上げ、天窓を仰いだ。いつのまにか空が色を変えている。時計を見ると、優に1時間半も経っていた。  琴原は狭い小屋の中にいた。昔から狭い所にいると落ち着く性質(たち)であったが、何も仕事場までわざわざ狭い場所を選ばなくても……と部下からは幾度となく言われている。どうせ人間、最後は狭い棺桶の中で一生を終えるのだ。その予行演習だよ、と言ったところ、一様に呆れた顔をされた。  小屋の中に雨音が響き始めた。狭い小屋の中では、どんなに微かな音も無駄にならない。それが琴原が狭い場所を好む理由の一つでもあった。  そして降り始めた雨と示し合わせたように、琴原の足元から靴音が聴こえた。  琴原の腰かけたロッキングチェアの横2mほどの所にある床板がカチッ、と音を立てて開き、その下から眼鏡をかけたスーツ姿の男が現れた。  「署長、監視対象(モニター)の抽出、完了いたしました」  琴原は軽く頷き、詩集をロッキングチェアの横のテーブルに置いた。  男は琴原を連れて再び床板の下へと消えた。誰もいなくなった小屋に、雨音と埃と詩集だけが取り残された。  地下へ続く階段を下りながら、琴原はふと男に尋ねた。  「この世に呪いが存在するとしたら、呪いをかける方とかけられる方、どちらが良い」  男は前を向いたまま答えた。  「呪う者、呪いを恐るるが故に滅び、呪われる者……」  「呪いを知らざるが故に滅ぶ」  「結局滅ぶのであれば、私は呪いを知らないまま滅びたいと存じます」  「なんだ、お前もあの詩集、読んでいるのか」  「署長、あれは私がお貸しした詩集にございます」  琴原は刹那、口をつぐみ、頭を掻いた。  「そうだったかな」  2人は階段を降り、薄暗い廊下を進んだ。  廊下の両側には煤けた木製の棚が並び、そこにはコケシ、木彫りの熊、サルボボ、王将、絵皿といった様々な民芸品が並べられていた。さながら土産物屋の倉庫のようなその廊下には申し訳程度の照明で照らされ、2人の足音を飲み込むかのように静かだった。  やがて2人は、廊下の端に辿り着いた。そこは両側の壁と同じく年期の入った棚で塞がっており、実質、行き止まりであった。  その棚の上から2段目の左端に、赤べこが一匹、まるでどこかの家の玄関のように虚空を見つめながら鎮座していた。  男は壁に近付くと、台の上で自分を見上げている赤べこの背中を人差し指で2回叩いた。  その瞬間、指紋認証センサーが反応し、赤べこの頭がゆっくりと下に降りた。  そして男の右手の壁に設置されている棚がゆっくりとスライドし、それまでの古びた廊下とは打って変わった、青いLEDライトの光が走る空間が現れた。  男と琴原は壁の中から現れた空間に足を踏み入れた。    そこはまるで、大きな機械の内部であった。  円状の部屋の内壁は無数のモニターで覆われ、それが遥か天井にまで連なっている。壁の一番下のモニターの前には見るからに複雑な計器が置かれ、それぞれにインカムを付けた作業員たちが向かい、どこかと連絡を取りながら機器を操作している。部屋の中央には巨大なペットボトルの蓋のような機械が据えてあり、その上端から青白いホログラム映像が空中に投影されている。映像は人の身体を形作り、それぞれの部位に小さな文字で説明が付されている。  琴原と男が部屋に足を踏み入れると同時に、部屋の奥から女性の作業員が分厚い資料の束を持って2人のもとにやって来た。  「お疲れ様です。今回監視対象(モニター)候補となった300名の中から居住地・年齢層・性別に基づくふるい分けを行い、そこから無作為抽出(ランダムサンプリング)により5名を抽出。適性検討の結果いずれも監視対象(モニター)としての迎合性尺度基準を満たしていると判断されたため、こちらの5名を今回の対象として設定いたします」  琴原は素早く資料に目を通した。  「了解した。順番は?」  「こちらに」  作業員が示した資料には、5名の人間の名前、住所、年齢などの詳細なプロフィールと共に、それぞれに番号が振られている。  「それぞれの監視所要時間は」  「概ね1週間程度で、監視対象(モニター)による傾斜無し。それぞれの監視期間の調整は調査官の裁量によるものとします」  「だ、そうだ。サボるんじゃないぞ」  琴原は傍にいる眼鏡の男に言った。男は表情を変えずに返した。  「調査官としての信義則に基づき、務めさせていただきます」  部屋の中央のホログラムが形を変えた。人間の前身から頭部へと映像がズームアップされ、それが2つに分裂した。2人の人間の頭部が並んだ映像は更に頭の上部が透け、脳内の構造が詳細に表示された。そのうち片方の脳の構造図の一部に白い印が表示され、同時に2つの頭部映像の上に文字が振られた。  印が付いていない方は、”Ordinary person”。  印が付けられた方は、”Yesman”。    琴原は部屋の中央の映像にちらりと目をやると、男に向き直った。  「さて、調査開始時期も君の采配で構わないという事だから……どうする、開始前に一杯やっておくか」  「署長、勤務中の飲酒は被雇用者倫理に反します」  「冗談だよ。どうせもう行くんだろう」  男はいつの間にか黒いビジネスバッグを脇に抱えていた。  「君も大分、イエスマンを脱したな」  「署長の教えでございますが」  「そうだな」  琴原は軽く深呼吸をした後、男に向かって告げた。  「調査官、石畳(いしだたみ)」  部屋の中央のホログラムが、再び形を変え始めた。  「迎合性対人夢想症候群についての実態調査及び、日常生活における影響の検討を目的とし、琴原研究所より派遣する。これより監視対象(モニター)No.1の在住する静岡県浜松市中区へ移動せよ」  石畳と呼ばれた男は床に片膝を付き、琴原に向かって頭を下げ、言った。  「イエス」  その瞬間、男の姿は消えた。
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