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1. 潮風のイエスマン
なぜ頷くのかと言われれば、一重に楽だからである。
「……だから先方もさ、もう少し融通効かせるべきなんだよ。そう思わねえか?」
後部座席から上司の声が飛んでくる。ハンドルを握る僕にできる返答は、一つしかない。
「そうですよねー」
初夏の日差しを受けたアスファルトが、攻撃的な照り返しを放っている。
僕はダッシュボードにあるサングラスのことを思った。後ろに上司がいなければ今すぐに装着して、目を労わりたいところだ。
車はようやく本社のある大通りへと差し掛かった。
運転席にいる僕の仕事は、後部座席の上司を本社まで無事に送り届けること。
一方、後部座席にいる上司の仕事は、90%が愚痴で占められたフリートークで僕の集中力を削ぐことだった。本人に運転手を妨害している自覚がないので、これはもうどうにもならない。
「サンプルの期限だってそちらの都合に合わせて調整しますよってこっちも言ってるじゃんよ。言ってるよな? それを後から聞いてないだの現場を見てないだの……そういう不測の事態に柔軟に対応するのがあなた達の仕事じゃないんですかって話よ。頭が固いったらありゃしねえ。官僚じゃあるまいしよ」
「うーん」
官僚の方々に申し訳ないのと、車の脇をすり抜けていった自転車のおばあさんを避けるのに神経を使っていたのとで、僕は曖昧な返事を投げた。
「木暮君もそういうとこちゃんと考えながら回していかなきゃダメよ。聞いてる?」
「はい、勉強になります」
今度は幾分か余裕があったので、ちゃんと答えた。
間も無く左手前方に、5階建ての角ばったビルが現れた。
僕が勤める、通信教材開発を主とした企業の本社。入社当初はここで人生の新たなフェーズを迎えるものかと胸を躍らせた本社の建物も、最近では墓石のように見えてきた。少なくとも、そこそこな炎天下で外回りに出てきた社員2人を労わりと共に出迎えてくれるような代物には見えない。
「大体、拠点同士がこんなに離れてちゃ、連携の取り用がねぇよな」
窓に肘を突きながら、上司がぼやいた。これは独り言なので返事不要であろうと判断した。
「聞いてる?」
「はい、そうですね」
違った。
狭い駐車スペースに車を押し込める。これで仕事は完了した。完了したが、終わったわけではない。
「お前、このまま昼休みいけよ。俺、一回デスク寄っていくから」
上司が言った。会社に着けば運転手はお役御免だ。
「はい、では失礼します」
僕は上司がエントランスを通過し、エレベーターの中に消えるまで見届けた。
これで外回りの報告は、めでたく上司の手柄になる。
今日、僕は何回「はい」と言ったか。
それはもはや禅問答に等しい。
僕にとって「はい」は呼吸と同じだ。
日々をつつがなく送るための、必要動作。他者とのコミュニケーションにいらぬ波を立てないための方便。
当然ながら、全ての「はい」が本心に沿ったものというわけではない。むしろ本心に反した、いやそもそも自分の本心を顧みる前に条件反射で発する「はい」が大半を占めている。
こうした「はい」は全て嘘である。しかしそれらは間違いなく日々の役に立っている。
嘘も方便とは、これ然り。
会社を離れ、コンビニに寄った。
昼飯用におにぎり2つと、麦茶。午後の事務作業に備えてフリスクを1つ。
狭い店内に周辺のオフィスからやって来たビジネスマンが密集する。レジから伸びた列が、通路を1つ塞いでしまっている。僕はその列に加わり、更に店の窮屈さに加担する。
5分ほどかけてレジの前に到達。店員が僕の前の人にお釣りとレシートを渡したのを見て、僕はレジに向けて一歩踏み出した。
と、その時、スポーツキャップにグレーのツナギ姿をした年配の男性がレジの横の競馬新聞を手に取り、そのまましれっとレジに向かった。
鮮やかな割込みだ。
店員が、お客様、後ろの方からお並びくださいみたいなことを言いかけたのが見えたが、男性は「ごめんごめん、これだけだから」といって新聞をレジに放った。そして列の先頭とレジの間の微妙な位置で立ち尽くす僕に一瞥し、「いいよな、兄ちゃん」とついでのように言った。
「あ、はい」と僕は答えた。
店員はそれ以上、何も言わなかった。
「木暮って、イエスマンだよね」
初めてそう言われたのは、高校生の頃だ。
そういう場面で言われたのかはよく覚えていない。授業のグループワークの中だったか、文化祭の準備中だったか、部活の会議の中だったか……言ってきた相手の顔すらも、もはや記憶にない。
ただそう言われたことだけしっかりと覚えているのは、その言葉がそれから現在に至るまでの自分の生き方を、なんとなく定義づけているような気がしているからだ。
「もっとさ、自分を出してもいいんじゃないかな」
相手は続けてそう言った。それ以上会話が続いた覚えはないので、おそらく僕はそれに対して何も答えなかったのだろう。しかしその言葉は、僕に疑問を投げかけた。
自分を出すって、何だ?
後から知ったのだが、大抵の人はそういうことを言われた時、自分を出すって何だ? ではなく、そんなに自分はイエスマンか? という疑問を持つらしい。
つまりそう言われたとき既に僕は、自分がイエスマンであることを半ば肯定していたと言える。
子どもの頃から、素直さが取り柄だった。
親に逆らわず、教師に逆らわず、そして今は上司に逆らわず、言われたことはとりあえずやった。
授業で教わったことをその通り覚えれば、そこそこの成績を取れた。就活では面接官が言う事に対してとりあえず頷いていたら、内定が出た。
そういう人ばかりじゃないという事は、割と早い段階で気が付いた。
新聞の寄稿欄に、社会に対して疑問を投げかける記事を見つけた。インターンの集団討論で、他の人の意見に積極的に反対する人を見た。その場の流れや既存の常識にあえて逆らうことで、新しいものを見つけ出そうとする人がいることを知った。そういう人も含めて、社会がそこそこの秩序を保っているということも知った。
ただ、自分はこれで良いと思っていた。
僕は海へ向かった。
会社から10分ほど歩けば着く。人口の防波堤で固められた、無機質な海岸線。海水浴場があるわけでも、波止場があるわけでもない、ただ蒼い水面と鈍色のコンクリートが続いている場所。海に面したこの市内で、最も時間を持て余した人間が自然と足を運ぶ場所。
釣り人が2人ほど海に竿を向けており、それがかろうじてこの場所に海としての役割を与えているように見えた。
僕は海に背を向け、防波堤の一角の木陰がある場所に腰かけた。まだアスファルトほど日差しを吸収しきっていない防波堤は、なんとか座れるくらいの温度を保っていた。
おにぎりのフィルムを開けながら、さっきのコンビニでの流れを回想しようとして、止めた。敢えてこの混雑する時間帯に部下へ昼休みを与え、空いた頃に時間差で昼休みを取る上司のことを考えかけて、それも止めた。どちらも脳のリソースを使う作業に思われたからだ。
フィルムはアンバランスに破れ、海苔の一部を奪っていった。
「君、『はい』しか言えないの?」
入社して3カ月ほど経った頃、そう言われた。
ミスをして叱られていたというわけではない。研修の一環で、業務上のトラブルが発生した際の対応についてデモンストレーションを行っていた。
研修担当の先輩は、いわゆる "イジり癖" のある人だった。新人のちょっとした言動を取り上げてからかい、それによって場の雰囲気を盛り上げる、そういう手法を使う人だった。世間的にはそういう人を「ドS」と呼んである程度肯定する文化があるという事も、少し遅れて知った。
先輩は僕ら新人に向かってデモンストレーションをしつつ、時々ふいに話を振ってその反応を楽しんだ。「こういう種類のクレームはうちの拠点では対応できないから、メーカーの方に話を回してもらうんだよ。ねえ木暮君」といった具合だ。意見を求められているわけではないので、この場合のリアクションは「はい」一択だ。
そのうち先輩は僕の「はい」が妙にツボに入ったらしく、研修を進めながら頻繁に僕に話を振るようになった。そして僕から何度目かの「はい」を引き出した後、「君、『はい』しか言えないの?」と言った。
先輩の口調が明らかに冗談交じりであったのと、それに対して僕が「はい」と答えてしまったことで、それ以降僕は何に対してもとりあえず頷く新人、というキャラクターを付けられることになった。
キャラクターっていうのは便利な言葉だ。
周囲からそういうキャラだと言い続けられると、それは暗示になる。
そして暗示はそのまま、現実になっていく。
口答えをしないことで、上司からは可愛がられるようになった。そう、可愛がられるようになった。
追加のタスクを頼まれることが、他の同期より多くなった。荷物が多い時の外回りに、運転役として同行させられることが多くなった。
同期からは「重宝されてて良いな」と言われた。その同期たちも入社後2年の間に異動になったり辞めたりして、今はこのオフィスにいるのは僕1人になった。
不当な扱いをされているわけではない。
仕事はいくらでもある。
人間関係に軋轢もない。
それなのに。
「……何だ」
この、漠然とした生きづらさは何だ。
もっと自分を出せと言われて、その意味が分からなかった。
じゃあ僕には「自分」が無いのか。
問題の無い日々を送れているはずだ。
じゃあなぜ僕は今、会社の休憩室で昼食をとっていないんだ
なぜ会社から離れるようにして、いつもこの防波堤に来るんだ。
なぜさっきのコンビニでのやりとりを思い出すことに、上司の顔を思い出すことに、脳のリソースを使うんだ。
なぜ僕は「はい」と答えるんだ。
これらの疑問には「はい」では答えられない。
だから僕はこれらに対する答えを持っていなかった。
防波堤に佇む釣り人たちの竿は依然、動く気配が無い。
* * * * *
静寂は突然破られた。
「よう、兄ちゃん!」
濁った大声と共に、隣に人の気配がした。
「はぃっ!?」
僕は飛び上がって隣を見た。
スポーツキャップに、グレーのツナギ。白い顎鬚に欠けた歯をにやりと覗かせ、手には競馬新聞を携えている。
さっきの、コンビニの男性だ。
「兄ちゃん、ここいいか?」
僕の返事を待たずに、男性は僕の隣に腰かけた。
ここ以外にも木陰はありますよ。どちらかというとここは狭い方なので、あちらに行かれた方が良いのではないですか。あと貴方さっき僕の前に割り込みましたが、覚えていらっしゃいますか。
「あ、はい」
頭の中を巡った言葉は、3文字になって口から出ていった。
「今日がよう、珍しく大穴に掛けてみてんのよ。単勝と複勝で5番のベストボーイ! ここんとこ負け続きだったからそろそろ巻き返さねえとと思ってよ」
男性は手元の新聞を指で叩きながらまくし立てる。競馬か。競馬の話をしているのか。男性はツナギのポケットから携帯ラジオを取り出し片耳にイヤホンを付けた後、別のポケットから煙草とライターを取り出した。
吸うのか?
疑う余地も無く、男性は煙草に火をつけた。一息吸って吐き出した後、思い出したように言った。
「あ、いいよな?」
やめてください。
「あ、はい」
僕が頷いたので、男性は新聞に顔を戻し、構わず吸い続けた。
僕は黙っておにぎりの残りを麦茶で飲み下した。もう一つのおにぎりを片付けたら、場所を変えよう。それまで静かにしていてくれるのであれば、別に良い。
そう思ったのもつかの間。
男性はふいにこちらに顔を向けた。
「兄ちゃん、仕事中じゃねえのか?」
何?
「まあ、はい、そうですね」
「サボってんのか? 昼間から良くねえぞ」
昼休みです。
「あ、はい」
「あ、はいじゃねえよ。給料もらってんだろ? ちゃんと働けるときに働いておかねえと後から苦労すんぞ」
それは、誰の話ですか。
「こんなとこで油売ってんじゃないよ。早く会社戻れよ」
鼻をアルコールの匂いが掠めた。ああ、酔ってるのか。色々納得だ。
「はい、もう少ししたら戻ります」
「もう少しじゃねえよ。今すぐ戻るんだよ。会社へよ」
ああ、面倒臭い。
「返事は!」
「は、はい」
頼むから、もう絡まないでくれ。
「はいじゃねえだろ、イエスだろう!?」
黙れ。
僕にもう関わるな。
脳内に溢れるだけで、決してアウトプットできない言葉たちを、僕は勢いに任せて一言に込め、叩きつけた。
「イ、イエス!」
◆ ◆ ◆ ◆ ◆
その瞬間、男性が消えた。
僕は目を瞬いた。
一呼吸遅れて、男性だけでなく先程まで腰かけていた防波堤も消えていることに気が付いた。
そして男性に向けていたはずの視線の先に、見慣れた会社のエントランスがあることにも気が付いた。
僕は、会社にいた。
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