1. 潮風のイエスマン

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 僕は数秒、その場に立ち尽くした。  手には飲みかけの麦茶とおにぎりのフィルム、そして未だ食べられていないおにぎりの入ったビニール袋が揺れている。  「……?」  ついさっきまで話していた男性が消えた。  そして周りにあった防波堤も消え、代わりに見慣れた会社のエントランスが現れた。  僕はエントランスの外壁に触れた。ひんやりとした感触が指を伝う。  幻ではない。  僕は防波堤から会社まで、瞬間移動したことになる。  「いやいや……」  そんな訳は無い。  瞬間移動した……なぜそう感じるのかと言えば、防波堤から会社まで歩いて戻ってきた記憶が無いからだ。  記憶が無いだけで、歩いていないという事実は無い。  僕はエントランスに入った。受付の事務員は、丁度不在にしている。  エレベーターに乗り、オフィスのある階の1つ下のボタンを押す。業務再開まであと25分ほど。同じオフィスの社員に見つかる恐れのないトイレの個室で、残りの時間をやり過ごすことにした。  つまり、だ。  僕は防波堤で酔った男性に変な言いがかりを付けられ、逃げるようにしてここまで戻ってきたのだ。  周りも見えないほど、無我夢中で。  男性に絡まれたことによるショックがそうさせたのか、それとももっと前から積み重なっていた諸々のフラストレーションがそうさせたのか分からないが、何にせよ記憶が飛ぶほど周りが見えなくなっていたというのはちょっと今まで経験が無い。  クールダウンが必要だと判断した。主に精神面の。  そのために必要なのは、人のいない空間だ。  僕は滑り込むようにしてトイレの個室に入った。排泄のための機能しかない部屋。他人が介入できるはずもなく、一人心を落ち着けるには最適な場所といえる。  あの防波堤、最近お気に入りの場所だったんだけどな……仕方ない、暫く足を運ぶのは止めよう。あんな突発的に起こる災害のような男性と再会を果たしたくはないし、それにもう一つ合理的な理由を付けるのであればこれからの季節、猛暑の中でわざわざ屋外での昼食にこだわる必要は無い。  そもそも片道10分ほどかかるし、冷静に考えれば社内の人目に付かない場所で済ませてしまう方が最初から合理的だったのだ。昼休みくらいは会社から離れたい一心でわざわざ離れた場所に足を運んでいたが、正直言って、浪費である。  安息の地を一つ失った事に対する言い訳が、イソップ童話の狐の如く並べられていく。……いくつ並べても事実は変わらないのに、自分に対する言い訳が止まらないのは何故だ。  これに対する答えも、僕は持っていない。      ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  監視対象(モニター)No.1、座標指定による空間移動の発動を確認。本人による自覚無し。  迎合度、98.5%。相手の要求内容を正確かつ瞬時に把握。見ず知らずの他人からの高圧的な要求により高い負荷を掛けた状態でも、難なく発動。    残り2回ほど発動確認を行った後、周辺調査を行い、当監視対象(モニター)への調査を終了する見込み。  報告を待たれたし。      ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  運命、因果、エトセトラ。  いずれも僕は信じない。  従って、今僕が目の前にしているのは「偶然」だ。  午後7時過ぎ。オアシスを失った昼休みから、残業が長引いた午後を経て、僕は最寄り駅のある路地に立っていた。    その目線の先に、1つの人影があった。  それはとあるファーストフード店の窓際の席。参考書を広げて勉強に勤しむ学生。イヤホンを付けゲームに没頭する人。学校帰りと思わしき女子高生。点々と席を埋めている人たちの中で、その人影は異様に際立って見えた。  そこにいたのは、昼間の男性であった。  しかし僕が足を止めたのは、そこに昼間の男性がいたからではない。そこに昼間の男性がいて、その男性がからだ。  姿や服装は変わらない。くたびれたスポーツキャップに、グレーのツナギ。ポケットにラジオやらタバコの箱やらを入れているからだろう、ツナギはあちこちが膨らんでいて全体的に着ぶくれしているようだった。  しかしその男性は、競馬新聞を見ているわけでも、隣の人に絡みながら煙草を吸っているわけでもなかった。……目を疑うほどの勢いで、黒いノートPCのキーボードを叩いていたのだ。  一番小さいサイズのコーヒーのカップを傍らに置き、脇目も振らず画面に向かって何かを打ち込んでいた。その目は昼間のような焦点の定まらない目ではなく、自分が打ち込んだ文字列をほぼ同時並行でなぞり精査しているような、どう見ても優秀なビジネスマンにしか見えない目付きであった。    昼間と服装を変えていたら、その男性だとはとても気が付かなかっただろう。平日の昼間から酒気を帯び、コンビニの列に割り込み、知らない人に絡んでいたような人物にはとても思えない。  決して小さくはないトラウマを自分に植え付けた人物との再会。  これだけならば取るべき行動は一つ……すぐにその場から去ることだ。  しかし、この変わりようは何だ。  酒気が抜けて我に返ったのか? いや、昼間のやりとりの支離滅裂さを(かんが)みるに、半日そこらで正気に戻れる程度の酔い方には思えなかった。  それに昼間会った時、男性は手荷物を一切持っていなかった。あのノートPCはどこから用意したんだ? 見るからに最新式の汚れひとつない代物で、どこかの廃棄物集積場から拝借してきたような物だとも思えない。  そういった種々の疑問が、僕をその場に立ち止まらせた。  そして、タイミングの妙と言うべきか。  男性はおもむろにノートPCを閉じ、残ったコーヒーを飲み干すと、窓際の席を立った。  こちらに気が付かなかったのは幸いだった……間も無く男性は店の入り口から姿を現した。その手には黒い革製のビジネスバッグを携えており、その風体とのギャップが異様な存在感を生み出していた。  男性はそのまま駅の脇の路地へ、吸い込まれるようにして向かっていった。  なぜそうしようと思ったのか。  トラウマとか合理性とか、そういうものが一時的に頭から除外されていたのか。或いは昼間から続いた小さなストレスの蓄積が正常な判断を妨げたのか。  気が付くと、僕の足は男性を追っていた。  微塵もふら付くことのない、真っすぐな足取り。  路地の片側から差すビルの明かりと、もう片方を時折走り抜けていく列車の明かりが、暮れゆく初夏の夜の中でその人影を追うための唯一の手がかりだった。  追いかけた先にどういう結末を見ているのか、僕は自分でも説明できなかった。どこまで追うのかも決めていなかった。途中で男性が再び大通りに出てタクシーを拾えばそこまでだったと思うし、もし高架下に潜り込んで新聞紙を広げその上に寝転がったならばだったと判断し、それ以上関わろうとは思わなかったかもしれない。  しかし男性は大通りに出ることも無く、路上で突然宿をとることもなく、時折曲がっては更に細い路地へと入っていった。既に僕はこの場所からどうやって駅に戻るべきか算段が付かなくなっていた。    そして何度目かの曲がり角を経て、男性は行き止まりに当たった。  周囲三方を囲むビルから排水口がむき出しになっており、地面はまだらに濡れている。何かの資材と思わしき段ボールが数枚無造作に置かれている以外は特に何もなく、その段ボールすら排水に濡れて使い物にならなくなっていた。  僕は行き止まりの手前の角で壁に張り付き、音だけで男性の様子を伺った。ややあって、男性の声がした。  「お疲れ様です。先程お送りした報告書、届いておりますでしょうか」  誰かと連絡を取っている。声色こそ昼間と同じしわがれた声だが、しっかりとした口調だ。昼間は携帯を所持しているようには見えなかったが、あのバッグといい一体どこから用意したのだろうか。  「……ありがとうございます。2回目の発動確認として、退社途中での接触を試みたのですが、予定遭遇時間を過ぎても現れず……そうですね。明日に持ち越します。つきましては、可能であれば少し周辺調査をしてから切り上げたいと思いますので、一度戻していただけますでしょうか。この格好で歩き回るのは些か支障がありますので。……お願いします。……イエス」    と、その時。  パシッという乾いた音とともに、微かな閃光が行き止まりの路地から漏れた。  ……カメラのフラッシュか?  こんな路地裏で何を撮ったというのか。それに「発動確認」だの「周辺調査」だの、誰に何の報告をしているんだ。  疑問しか湧いてこない。今のところ、男性の昼間と今のギャップを埋めるに足るものは何一つ見つからなかった。    そうして無数の疑問に苛まれた状況で正常な判断ができなかったのは、当然と言えば当然かもしれない。  僕は男性が路地をという可能性を、全く計算に入れていなかった。  靴音が近付いてきた時には、もう手遅れだった。  男性がこちらに向かってきたことに気が付いた僕は弾かれるように壁から離れ、隠れ場所ないしは逃走経路を探した。  結果、いずれも見つからなかった。  路地のど真ん中で、万策尽きて立ち尽くした僕は、角を曲がってきた男性とめでたく対面することになった。  しかし、それは僕が尾行していた男性ではなかった。  目の前に現れたのはスーツ姿の、細身の男性だった。  カバンから靴に至るまで、全てを黒のビジネススタイルで統一した、サラリーマンのフリー素材のような服装。濃いワインレッドのネクタイだけが、その男性に唯一の色彩を与えていた。  四角い顔は完璧なまでの七三分けで整えられ、黒縁眼鏡がビルから漏れる明かりを反射し目線を隠している。  おそらく自分と同じくらいの年齢か、やや年上といったところだ。そこにはお世辞にも綺麗とは言えない服装に身を包んだ年配の男性の面影は、どこにもなかった。  そしてそのスーツ姿の男性は、僕の姿を視認するや否や、ぴたりと動きを止めた。  薄暗い路地。尾行していた者と、されていた者。  沈黙の中で対峙する男が2人。  「……えっと、その……」  僕はとりあえず口を開こうとしたが、あいにく言葉のストックが無かった。  所要時間、約5秒。  先に動いたのはスーツの男性の方だった。  男性は目線をこちらに向けたまま、眉ひとつ動かさず右手でスーツの懐から携帯電話を取り出し、画面を見ずに操作した後、耳に当てた。  少しして、電話の向こうで誰かが出る気配があった。  「何度もすみません。先程ご連絡した件につきまして、たった今、監視対象(モニター)と接触いたしました。……はい、そうなんですが、問題が一つ」  男性はそこで、右手の小指で眼鏡を押し上げた。レンズの奥から、切れ長の眼がこちらをじっと見つめていた。  「バレました」  運命、因果、エトセトラ。  いずれも僕は信じない。  従って、こうなったのは「偶然」だ。  偶然訪れた、数奇な出会い。  頷くことしかできない僕を、「はい」の向こう側へ連れていく。  これは、「はい」しか言えない僕らがヒーローになる、そういう話。
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