1. 潮風のイエスマン

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 人に命ずる者、命ずる相手を軽んずること(なか)れ。  人は他者の(めい)により、万事を為す。  命じた者の命を越え、万事を為す。      ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  「私の愛読する詩集の冒頭であります」  男性はウーロン茶のグラスを傾け、少しだけ口に含んだ。    カウンター席は僕らを含め数名の客で埋まっていた。いかにも安居酒屋といった雰囲気の照明が男性の横顔に微妙な影を作っているため、表情が全く伺えない。そうでなくともこの男性は先程出会った時から、寸分も表情を変える気配が無かった。  「こういう者です」  男性がおもむろに名刺を差し出してきたため、僕は椅子の上で慌てて身体を捻り、左に座る男性から受け取った。  グループ・ダイナミクス 琴原研究所   調査官 石畳  「いしだたみ……さん」  「石畳は勤務中のコードネームであります。本名ではありません」  「はぁ」  「……」  「……」  あ、本名教えてくれるわけじゃないんだ。  「あ、えっと僕は……」  「木暮(けい)さん」  僕が名刺を取り出すのを待たずに、石畳さんは言った。  「社会人3年目、25歳。勤務先及び現住所、ご実家も把握させていただいております」  何で? 怖い。  「……あの、僕に何か……」  「先程も申し上げた通り」  石畳さんは眼鏡を少し押し上げた。癖なのか。  「調査に協力していただきたいのです」      ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  遡ること30分前。  路地裏で石畳さんと対峙した僕は、彼と電話越しの誰かのやりとりを為すすべなく見守っていた。  「……はい、申し訳ございません。参与観察における秘匿性が破られてしまった以上、正確なデータが得られないと思われますので、一旦この方は監視対象(モニター)から外すとして、問題は」  頭上でギャア! という音が響き、僕は縮み上がった。複数の羽音。(からす)か。  「イエスマンについて知られてしまった恐れがあります」  ……この言葉を聞いた瞬間、僕は自分が目の前の相手にとって不都合な存在であることを知った。  ……消しますか?  そんな言葉を予想し、僕は震撼した。  「あ、あのっ、違くて! 付けてきたとかじゃなくて、たまたま方向が一緒で! あの本当、何も聞いてないんで! それじゃ!」  言い終えるか終えないかのうちに、僕は踵を返し逃走に転じた。  「署長」  背後で男性の声がした。  「……イエス」  その瞬間、身体に衝撃が走った。  地面に倒れ込み顔を上げた僕は、衝撃の正体を知った……目の前に今まで無かったはずの巨大な壁がそびえ立っていた。  唖然とする僕の背後で、男性と電話相手との会話が続く。  「大丈夫です、引き留めました……はい……はい? ……引き込む。はい……ファシリテーター、ですか。……なるほど……伺ってみます」  そこで男性は携帯を下ろし、こちらに歩み寄ってきた。  消される!  「ちょ、あの、本当に」  僕は今しがた衝突した壁を背に、命乞いの準備をした。  男性は僕の前に立ち、僕に向かって……きっちり90度のお辞儀をした。  「失礼いたしました。突然のことでご混乱の最中(さなか)とは存じますが、一つご依頼したいことがございます」  ゴイライ。……ご依頼。つまり、お願い。  思いがけず下手(したて)に出られ、僕は面食らった。  「今から少々、お時間よろしいでしょうか」  「は、あの、はい」  男性は顔を上げ、再び携帯を耳に当てた。  「ご承諾いただきました。……ひとまず、ご説明の。……はい。とりあえず私の方からお話させていただきます。よろしくお願いします。……あ、あと壁、元に戻してください」  そして男性は僕の背後を阻む壁に目を据え、  「イエス」  と一言放った。  その瞬間、壁は跡形もなく消え去った。        ◆  ◆  ◆  ◆  ◆  「我々はグループ・ダイナミクス……所謂『集団心理学』を研究しております」  路地を先程と同じく迷いのない足取りで引き返し、駅前の居酒屋に通された後、その男性……石畳さんは話し始めた。冷静に考えればこんな素性の知れないセールスマンのような風体の相手に付いてきて話を聞く義理は無いが、こちらにも尾行していたという事実がある手前、逆らえなかった。……そうでなかったとしても多分、逆らえなかっただろう。僕の場合は。  「元々は集団における人間の意思決定の極性化についてフィールドワークを実施しながら研究するための団体です。具体的に言いますと、個々人の意見よりも集団における意思決定で出された結論の方がより極端な方向に偏る傾向があると一般的に言われているのですが、そのメカニズムと原因について明らかにするための研究所でした。……一大学の研究室から独立した、小規模なチームであります」  カウンターに置かれたコップの氷が、カランと音を立ててウーロン茶の中に沈んだ。中途半端に冷房の効いた店内には、生温い空気が充満している。  「今のところ、集団極性化現象自体の原因はある程度明らかになっております。一つは、集団内での議論において他者の意見に接することで個人の意見が変容する事。また一つは、集団内においてより望ましいとされる立場を誰もが無意識のうちに取ろうとする事。他にも、たとえ集団として極端な結論を出した場合でもその責任及びリスクは集団の構成員同士で分散されるため、極端な意見を出すことに対する躊躇いが無くなるとする説もあります」  「はぁ」  石畳さんは前もって用意していたかのように、(くう)を見ながら淀みなく話し続ける。すごい。全然分からない。  「つまり、基本的に人は集団の中で相手の言う事、周囲のいう事に対し空気を読もうとします。それが集団極性化の、ひいてはグループ・ダイナミクスにおける事象の大半に影響を与えているというのが、従来の通説でありました」  元々は。ありました。やけに過去形が目立つ石畳さんの講義を、僕は話半分に聞いている。もはや相槌すら打てない。  「ですが、そうではないことが判明いたしました」    お通しの塩ダレキャベツが来た。明らかに重要なフェーズに入った話の腰を折るのも躊躇われ、かといってここで箸を付けずに放置するのが果たして正しいものかと逡巡しているところ、  「どうぞ、召し上がりながらお聞きください」  先に勧められてしまった。社会人としての心遣いという点で、何枚も上を行かれている。  「……ある時我々は集団実験を行いました。特殊なセンサーで参加者の脳活動を領域別に逐一記録しつつ、その状態で一定のテーマに基づき討論を行ってもらうというものです。従来の仮説が正しければ、空気を読むという行為には共感が伴いますから、共感を司る脳領域が活性化すると思われました。もし別の脳領域が活性化した場合は、それに基づいて新たな仮説を立てると、そのような趣旨の実験でありました」  ぽりぽり。  「結果から申し上げますと、仮説通り、討論に参加したメンバーの大半は意見の交換中、他者の意見に対し強い共感を示しました。集団極性化現象も、有意な確率で見られました。……ですがその中で、討論に参加したメンバーの中のごく少数において、予想されなかった脳活動が確認されました」  僕は箸を置いた。自分の咀嚼音が邪魔で、話が入ってこない。  「脳ののです」  石畳さんはそこで、切れ長の目をこちらに向けた。  「つまりその参加者は、他のメンバーの意見に対し共感するわけでもなく、ただ機械的に周囲の決定を受け入れていました。ただ、これだけなら単に実験への参加モチベーションが低かったということで説明が付きます。……ここまではよろしいでしょうか」  「あ、はい。……あの、でも多分それは」  モチベーションが低かったから、と言うより。  「その通り」  まだ何も言わないうちに、石畳さんは頷いた。   「討論の後、グループとしての結論をポスター形式でまとめるという二次課題を設定したのですが、その段階になって興味深い事象が見られました。先程の参加者がグループに対し著しい貢献を見せたのです。要点を的確にまとめ、視覚効果をふまえて図表を配置し、またグループによっては発表まで完璧にこなした場合もありました。このことから、どうやらこの参加者は課題へのモチベーションが低かったわけではないと思われました」  そうだ。僕はそういう人間を知っている。  「実験終了後、そのような参加者に対し2つ質問をしました。1つは、なぜ討論中黙って周りに迎合していたのか。もう1つは、なぜ二次課題の段階になって精力的に課題に参加したのか。……参加者によって多少の違いはありましたが、答えは概ねこうでした。前者の質問に対しては、”そうした方が良いと思ったから”。そして後者に対しては、」  同時に、口が自然と動いた。  「”やれと言われたから”」  僕の発した答えが、石畳さんの言葉と重なった。  「……そう、そうなんですよ」  僕は思わず言葉を続けた。今まで理解できない領域で進んでいた話が、急に自分に身に覚えのあるところまで降りてきたのを感じた。  「常に自分の意見を持つことを良しとするとか、自分で考えて工夫できることを良しとするとか、そういうのよく言いますけど、それって一面でしかないじゃないですか。他人から言われたことをその通りこなせるのだって、一つの能力だと思うんです。……っていうのは、日頃思ってたりすることなんですけど……」  石畳さんは眉ひとつ動かさず、頷いた。  「その後、集団極性化についての研究は一段落しました。それと入れ替わりに我々琴原研究所は、研究対象を変更いたしました。……即ち、『他者への迎合』であります」  僕は(ようや)く、話の主旨を理解した。          ◆  ◆  ◆  ◆  ◆    「署長、トラブルですか」  琴原が携帯を下ろすと、助手が尋ねてきた。  「ああうん、なんか監視対象(モニター)にバレたらしい」  「いや大問題じゃないですか。対処しなくていいんですか。新しい監視対象(モニター)の用意はともかく、知られた内容によっては石畳さんに……」  「対処はもうしてるから大丈夫だよ。あと石畳がなんか自分から説明したいって言うから、任せようと思って」  「え、あの人そんなコミュニケーションに前向きな人でしたっけ」  「いや全然。普段はね。でもまぁあれじゃないかな、今回は」  琴原は頭を掻いた。  「シンパシー的なやつじゃないかな」
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