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海の上に、曇った夜空が横たわっている。
前を歩く石畳さんは、殆どこちらを振り返らない。
さっきまでいた生温い店内に比べれば、この防波堤は随分と涼しかった。潮風が絶えず頬を撫で、コンクリートに打ち付ける波音が耳に心地良い。
夏の夜を楽しむのには適した場所であるが、僕は石畳さんがここに来た理由をいまいち図りかねていた。
「調査にご協力いただきたいのです」
居酒屋のカウンター席で、石畳さんは言った。
「我々は日常生活において、他者への迎合度が極めて高い人々の調査を行っております。そのような人々がどの程度他者に迎合するのか、またそれに基づいてどの程度行動できるのか。調査対象の方々には調査を行っていることをお伝えせず、可能な限り自然な行動の様子を記録することを目的とします。……とは言っても我々の観察対象とするシチュエーションは日常生活のレベルではやや起こりにくい場合もありますので、必要に応じて身分を隠しつつ調査対象の方々と接触する場合もございます」
料理に殆ど手を付けず、石畳さんは淡々と話す。おかげで僕も箸を動かしづらい。
「そういった調査対象の方との接触には、ある程度のスキルと専門性が求められます。そこで木暮慧さん、あなたに専門家という形で調査へのご協力をお願いしたく、お話をさせていただきました」
専門性、って。
「……いや僕、何のスキルも専門性も持ってないと思うんですけど……」
「ご自身では気付かれていないようですが」
そこで石畳さんは、暫くぶりにコップを傾けた。
「貴方には力があります。極めて特殊な力が」
そこまで説明すると、石畳さんはおもむろに箸を取り、料理に向き直った。
「ここから先は、場所を変えてご説明いたします」
だからさっさとこれらを片付けよう、ということか。
彼にとって食事は、こなすべきタスクでしかないらしい。
そうして店を出た僕は、石畳さんに連れられここへ来た。
店では石畳さんと同じくアルコールは入れなかったけど、既に僕は自分の頭が正常に機能していないような気がしていた。
そもそも、石畳さんの説明してくれたことは半分も理解できない。専門性の高い言葉を並べて利き手の思考をストップさせ、怪しい商法に勧誘するという詐欺の常套手段があるのを聞いたことがあるが、それにしては態度が機械的すぎる。もっとこちらの心に取り入って来るような姿勢を取るはずだ。
現時点でのこの人の印象は、言葉遣いこそ丁寧なものの、無愛想の一言だ。こちらを騙す目的があるようには見えなかった。だとすると益々この人が僕を何に誘おうとしているのか、皆目見当がつかない。
第一、疑問がありすぎる。この人はかなり詳細な僕の個人情報を手に入れているようだったけれど、研究目的とはいえ民間団体にそんなことができるものなのか? この人が言っている「力」ってなんのことだ?
それに、一番気にかかっていることがまだ分かっていない……僕が路地裏で聞いた会話は何だったんだ? 昼間の男性とこの人はどういう関係なんだ? さっき裏路地で急に壁が目の前に現れたのは何だったんだ?
いつもと同じだ。
頭の中が疑問で充満する。
自分では答えを出せないのに、脳内の疑問符が尽きない。
「それでは」
いつの間にか立ち止まり、こちらを振り向いていた石畳さんと衝突しそうになり、僕は慌てて足を止めた。
「命じてください」
沈黙が流れた。
「……ランプの魔人的な?」
「いえ、願いを仰っていただきたいのではありません。命じていただきたいのです」
僕は身構えた。……やっぱりこの人、ちょっと危ない系の人か?
「ご自身にどのような力が? ……とお思いでしょう。ご説明してもご理解いただけないと思いますので、お見せいたします。そのために人目に付かないこちらの場所までお連れいたしました。私に何か、何でも構いません。命じてください」
「命じてください、って言われても……」
「先程、裏路地で突然壁が現れませんでしたか?」
僕は言葉に詰まった。
「私の上司が、壁で貴方を引き留めるよう命じました。なので私はそれに従いました。命じていただければ、大抵のことは可能です」
石畳さんは先程と変わらず、全く表情の伺えない顔でこちらを見ている。ここへ来て急に冗談を言い出したようには見えなかった。
かといって、夜の防波堤で得体の知れない男性に命令を促されているというこの奇妙な状況を早く終わらせたいという気持ちも、確実にあった。
「……じゃあ空、飛んでみてください」
僕は軽い溜息とともに、石畳さんに向かって言った。
「どのようにでしょう?」
「はい?」
「空を飛ぶにしても色々な形態が考えられます。どのようなイメージをお持ちでしょうか」
「イメージって……こう、その場で空中に、ふわっと……」
「宙に浮く形ですね。であれば厳密には飛ぶというより、上昇気流に乗るようなイメージでよろしいでしょうか」
いやにディティールにこだわるな。
「あ、はい。そういう感じで良いです」
流石に少し面倒になって、投げやりにそう答えた時だった。
「イエス」
石畳さんが一言発すると同時に、突然視界が乱れた。
それが突風によるものだと気付くのに、数秒かかった。
凄まじい風が防波堤の細かな砂利を巻き上げ、僕の顔に叩きつける。
「うわっ!?」
突然の事に僕は腕で顔を覆った。海風にしては強すぎる。まるで近くで巨大なプロペラが起動したかのような勢いだ。
「い、石畳さん? 大丈夫ですか?」
僕は腕の隙間から前方を伺った。しかしそこには石畳さんの姿は無かった。
「こちらです」
声がしたのは、頭上からだった。
僕は空を見上げたまま、唖然とした。
地面から約3mほどの空中に、彼は浮いていた。
初夏の夜空を背に、中途半端な半月に照らされ、彼は浮いていた。
彼を中心に渦を巻く風が、まるで彼を支えているかのようだった。
「貴方は、ご自分のことをどのようにお思いですか」
石畳さんはゆっくりと高度を下げながら、僕に言った。
「人に言われないと何もできない人間。それとも、人に言われれば何でもできる人間。どちらを志すかで、貴方の人生は変わります。他の多くの人間と同じように、そしてかつての私と同じように」
乾いたコンクリートの上に、彼は静かに着地した。
「迎合性対人夢想症候群」
彼はゆっくりと、正確な発言でそれを告げた。
「他者の発言に対し『イエス』と一言頷くだけで、その言葉を実現させることができる特異体質です。貴方にも、同じ能力があります。昼に姿を変えて貴方と接触したのも、裏路地に壁を作り出したのも、また昼に貴方がこの防波堤から会社まで一瞬で移動したのもこの能力によるものです」
次々と並べられる事実の山に、頭がくらくらした。
他人の発言を実現できる。空を飛んだり、姿を変えたり、そこに無いものを生み出したり。同じ事が自分にもできる。特殊体質。昼間の男性。目の前の男性。路地裏の壁。……そして、今ここに立っている自分。
「上の立場の人間に従う事が良しとされる現代社会。貴方のように日常的に他者に迎合し、その結果このような能力を発現させた人間が世間には一定数存在する事が判明しています。我々の目的はそのような人々の能力の詳細と周囲への影響の調査、そしてもし必要であれば……監視です。このような能力を持った人間を、我々は『イエスマン』と呼んでいます」
イエスマン。……迎合者。
「イエスマンの調査には同じ能力を持った人間が最適です。本来、私一人で行う予定でしたが、お察しの通り事情が変わりました」
事情。つまり、僕がそれを知ってしまったこと。
石畳さんが巻き起こした風の名残が、僕の顔を撫でる。
「自分はなぜ他者に従うのか。 なぜ他者から命じられるのか。 それが自分の本当の価値なのか。 ……こうした疑問をお持ちではありませんか? 今回の調査への協力が、貴方の中で答えを見出だすための一助となりうるのではないかと、私は思います。……これは研究所としての見解ではなく、私個人の意見でありますが」
私個人の、という部分に、石畳さんは若干力を込めているように見えた。
そこで僕は察した。石畳さんは少なからず、僕を「自分と同じ立場の人間」として誘っているのだという事を。
だとしたら、たった今石畳さんが並べた種々の疑問は、僕の考えていることを推し量ったものではなく、むしろ……。
「木暮慧さん。……同じ『イエスマン』として、調査にご協力をお願いいたします」
潮風をまとったイエスマンは、僕に向かってそう告げた。
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