夏と亡霊と裏切り者(プロトver.)

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「暑っつい。紛うことなき夏だね。こりゃ」  乗客の私しかいないバスを下りると、合唱コンクールのように競い合うセミの大合唱が出迎えてくれた。いくつかの電車やバスを乗り継いで、時刻はもう昼を過ぎていた。  誰にはばかるでもなく真上にある太陽から降り注ぐ日差しで、皮膚がチリチリと焦げる音が聞こえてきそう。日焼け止めを持ってくればよかったな。  それでも、私の住んでいる街のねっとりと絡みつくような湿気と、避けないと進めない人混みがないのは良い。  ずっと向こうまで広がる萌黄色の田んぼ、遠くに見える深緑の山々。故郷の懐かしさに浸ろうと少女時代の記憶を検索したけれど、景色なんてほとんど覚えていなくて、暗い気持ちだけが溢れてきそうだったので、首をブンブンと振って追い払った。  ――この村に帰って来るなんて思わなかったな。  私は以前、この小さな村に住んでいた。と言っても四歳までだから記憶なんてほぼない。覚えているのは村を出て行く私たち、主に娘であるお母さんに罵詈雑言を浴びせる祖母と、裏切り者だと冷たい視線を浴びせる村の人達。良い思い出もあったのかもしれないが、お母さんから何度も聞かされた田舎への文句で上書きされて、何にも思い出せない。  そんな私が再びこの村に帰ってきたのは、祖母が亡くなったからだ。いや、正確には祖母はもう数ヶ月前に亡くなっていて、葬儀も伯母が済ませてくれている。私たち家族は祖母から勘当に近い扱いをされていたために出席しなかった。  祖母が亡くなり、住む者の居なくなった祖母の家が取り壊されて売りに出されるため、最後に見てきてはどうかと伯母から連絡があった。お母さんは思い出すのも嫌だわ。と、拒絶反応を露わにしていた。  私も初めは来るつもりじゃなかった。けれど、なかなか前進している手応えを感じられない就職活動から、町中を歩いている人間が私への当て付けのように順風満帆な顔をしていて、誰でもいいから殴ってやろうか。もしくは、この中の社長さんが急に持病の癪で倒れて、それを私が介抱することで就職にありつけないだろうか。そう考えている自分が嫌になり、気分転換になるかもと祖母の家に向かうのを了承していた。要はストレス発散だ。  幼い頃の微かな記憶を頼りに祖母の家への道を進む。私が住んでいた頃と風景が殆ど変わっていないこともあり、順調に歩を進めてゆく。  何にも思い出せないとは言ったが、実際景色を見ると案外記憶が浮かんでくるものだ。だだっ広いだけの何もない空き地で鬼ごっこをして遊んだ。ただ長いだけの神社から下りてくる坂を全力で駆けぬけて、車に轢かれそうになった。子供の頃は何はなくとも、体を動かすだけで楽しかったのだろう。  二十二歳になった私は今すぐにでも、冷房の効いた涼しい部屋で寝転がりたいけど。  ぼんやりと出来事があったのは思い出せるのだが、誰と居たか、いつの話だったかといった細かなディテールは思い出せる気がしなかった。本当の記憶なのか、似たようなシーンをテレビや映画なんかで見て、自分のものだとすり替えてしまっているのかも定かではない。  見覚えのあるような、無いような景色をキョロキョロと眺めながら歩いてゆく。  時折、すれ違う村の人が訝しげに、若干の敵意を混ぜながら私の姿をじっと見るのは、私がよそ者だからだろうか。それとも、祖母の葬儀にすら出なかったくせに、よくも今更顔をだせたものだ。と責められているのだろうか。  祖母の家についた私は、預かっていた鍵で玄関を開けようとした。けれど、そもそも鍵はかかっておらず、玄関の引き戸に手をかけるとガラガラと音を立てて開いた。  田舎は鍵をかけないと聞いた覚えはあるけど、本当なんだ。  湿った木材の黴びた匂いと、誰も住んでいない家に積もった埃の匂いが混ざって、私は咽そうになった。埃を吸わないように、できるだけ小さく、細く息をするようにして家の中を見て回る。生活感のない、この家だけ外界の時間から取り残されてしまったみたいだ。もう家具は伯母が処分したらしく、がらんどうな家。田舎らしい広さの家に、祖父が亡くなってから祖母は独りで住んでいたんだと想像すると、寂しくなった。会いに来ても良かったかな。  縁側のある部屋。畳の上で手足を放り出して寝転がる。女の子が大の字ではしたないでしょ。なんて注意する人間はここには居ない。  スマートフォンを取り出し、時間を確認する。画面の端に圏外という文字が目に入った。これだから田舎は嫌だ。  ほつれた畳の目がささくれのように尖って、ゴワゴワと背中に刺さってこそばゆい。冷房を点けたいけれど、冷房も取り外されていてそれも出来ない。そもそも、電気も水道も止まっているみたいだ。  この家で祖母はどんな暮らしをしていたんだろう。長女は遠くに嫁ぎ、次女は逃げ出したこの家で。  あ、天井のあそこ。木目が人の顔みたいに見える。  私は目を瞑った。  身体が畳の中に沈み込んでゆく感覚に陥る。セミの合唱コンクールが徐々に遠く、小さくなってゆく。それに反して、自分の心臓の鼓動の音と呼吸音が徐々に大きく近づいてくる。薄っすらとかいていた汗が引いてゆく。  何も思い出せなくても、生まれ故郷に降り立てば何かしらの記憶が浮かんできて、ノスタルジックな気分に浸れるものだと思っていた。けれど、いまの私の中には何もない。自分の生家のはずなのに、親しくない他人の家にお邪魔しているような居心地の悪さすらある。  もう、帰ろう。
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