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静子は 先に降りた乗客の後に続いて桟橋を歩いていた。
簡易的なゲートをくぐるとスーツを着た若い女が話しかけてきた。
「山室様でしょうか?」
静子は頷くと女は営業スマイルを作った。
「お待ちしておりました。山室様は、えーっと」
女はバインダーに挟んだ用紙をパラパラとめくり、何かを確認している。
「山室様は、C51のバスに乗ってください」
静子は要領が掴めず、戸惑うしかなかった。
「どこにあるの、どこで降りればいいの」
女は、乗り場はあちらです、とまっすぐ指を差した。
「降りる場所は運転手が教えてくれますから」
と言い残し女は去ってしまった。
釈然としないまま女が指差した方に向かうと大きくC51と書かれた古びた乗り合いバスが止まっている。
「どうぞ」
無愛想な中年男がドアを開け、静子を中に乗せる。
今にも止まりそうなエンジン音を響かせながら車はゆっくりと動き出した。
右手に海と夕焼け、左手には山が見えた。
車一台分しかない細い道路を車は止まりそうなスピードで走る。
車には静子と運転手以外誰も乗っていない。
やがて、緩やかな坂道を登り終えた頃、車は停車した。
「どうぞ」
男は相変わらず無愛想なままドアを開け、静子に降りるよう促した。
ここは小高い丘になっているようだ。
海から吹く島風が心地よい。
静子が降りた車は、ボロンボロンと燃費の悪そうな音を出しながらのっそりと動きだし、行ってしまった。
周囲を見渡すと一軒の小さな家があった。
初めて見る木造の家だが、懐かしい感じがした。
ここに夫はいるのだろうか。
コンコンとノックし「入りますよ」といつものように話しかけてからドアを開けた。
中では初老の男性がソファに座り、本を読んでいる。
久しぶりに見た夫の姿に、目元が潤んだ。
「あなた」
静子が呼び掛けると男性は読むのをやめ、振り返った。
「あぁ、静子。会いに来てくれたのか」
男性は立ち上がり、目を細めた。
静子は夫が笑ったときに目元に出来る皺が好きだった。
「元気そうでよかった。あなた、私がいないと何もできないんだから」
さっきまでの不安は消え去り、今は久しぶりに話す夫に安心感を覚えた。
目の前にいるのは紛れもなく長年寄り添った、自分の夫に間違いない。
「俺も静子が元気そうで安心したよ」
「元気なもんですか。あなたが亡くなってから、みんな私を心配して会いに来てくれるの。でも、夜には帰っちゃうでしょ。しーんと静まった暗い家で独りで過ごすのは寂しいものよ」
静子はソファに腰掛けながら言った。
窓から差し込む夕日が室内を暖かな色で包んでいる。
「つらい想いをさせてすまないな 」
夫は静かな声で言った。
「独りが寂しいからあなたの写真に話しかけても、あなたは笑っているだけ。みんな、良い写真だって言うけれど私にはちっとも良い写真に見えないわ。私を残して逝ったのに、どうして笑ってるの、って思うの」
夫は黙って聞いている。
静子が小言を言い、それを黙って聞いてるのはいつもと変わらない。
「でもホントに安心したわ。こんな素敵なお家で元気そうに過ごしてるなら」
夫の最期は病の激痛と闘い、薬の副作用に耐えるつらい生活であった。
「ああ、ここの生活は良いよ。静子が居ないこと以外は」
西日が眩しく、夫はカーテンを閉めながら言った。
「もう帰るわ」
そう言いながら静子はソファを立った。
「なんだ、さっき来たばかりじゃないか」
少し寂しそうにする夫を横目に静子は玄関に向かう。
久しぶりの夫との会話はあまりにも居心地が良くてこのままでは帰れなくなってしまう。
「あなたの声をもう一度聞けたらそれだけでよかったの。またすぐ来るわ」
そういう静子に夫は
「すぐは困る」
と笑った。
「私も死んだらここに来れるのかしら」
「そうだな。ここで、俺は待ってるよ。」
「ここに住めるなら死んだ後の楽しみが出来たわ」
木のドアを開け、外に出る。
「またね」
「またな」
短い挨拶をかわすと静子は来るときにおんぼろの車で登った坂を下り始めた。
静子の姿が見えなくなるまで、夫は手を振っていた。
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