古山 浩司

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浩司が覚悟を決めずにいると、引き戸が開いた。 数年振りに見る母はずいぶん小さく思えた。 「浩司じゃないか、なんだい、そんなところに立って」 母は怒るわけでもなく、久しぶりの再開を懐かしがるわけでもなく、いたって平然と言った。 様々な感情が浩司の中で沸き上がってくる。 「母さん、すまねぇ」 浩司は膝を付き、ボロボロと涙を流しながら謝る。 「俺のつまらない意地のせいで母さんに寂しい想いをさせた。謝っても謝りきれない。母さん、許してくれ。」 「お前を許したら何かあるのか」 頭を下げる浩司に母は静かに言った。 「お前を許しても私は生き返らないし、許さなくても何も起こらない。そもそも許す許さないの話ではないのだよ」 母はそういうと家の中へ入っていった。 入りな、と奥から声が聞こえた。 浩司は迷ったが、そのまま家に入ることにした。 「私はね」 母がゆっくりと語り始める。 「お前に怒る資格なんてないの。許して欲しいのは私の方だよ。」 浩司は部屋の入口に突っ立ったもまま黙って聞いている。 「お前の父親と別れたのは、お前がまだ3つか4つの頃だったか。お金が無くてね。そりゃもう必死で働いたさ。でも、どうしようもなくなったときお前と一緒に橋から飛び降りようかと考えたこともあった。それでも生きたのはお前が居てくれたからさ。お前の存在が私を生かした。1度でもお前を殺すことを考えた私が、恨まれることがあっても恨むことなんてないよ」 初めて聞かされた母の苦労。 貧しいことは幼心にもわかっていたが、それでも母はいつでも笑顔であった。 そんな母がこんなことを考えていたなんて幼い浩司が知るはずもなかった。 「俺には、育ててくれた恩がある。だが、最後に寂しい想いをさせてしまった。本当にすまない、」 浩司は再度深々と頭を下げた。 「やめておくれ。浩司が帰ってこなくなったのは、私が細かく言いすぎたからだよ。お前の人生だ。好きにさせてやればよかった。私は悔やんだ。我が子を殺そうと考えた天罰が下ったんだとおもっている。私はここで罪を償い静かに暮らしているよ」 母は遠くを見つめて言った。 浩司は何も言うことが出来ないでいる。 「加奈子さんは元気か」 話題を変えたかったのだろう、たばこに火をつけながら母は聞いた。 母は妻の加奈子には結婚式以来会っていないはずだ。 「元気だよ。実はもうすぐ、女の子が産まれるんだ」 母の顔が一気に明るくなった。 「そうかい。そりゃよかった」 嬉しそうにタバコを一口吸うと母がボソリと呟いた。 「もしも、お前が私に憂いを感じているなら。一つ頼みがある。」 「言ってくれ」 「いや、やっぱりいいよ。何でもない」 母にしては珍しく、言いにくそうである。 「構わず言ってくれ」 浩司はどんな頼みでも聞くつもりだ。 それじゃ、と頬を赤らめながら母が言った。 「その子の名前を|まりか茉莉花(まりか)にしてくれないか」 「それって、母さんの好きな花じゃないか」 小さい頃、母がジャスミンをプランターで育てていたのを覚えている。 茉莉花はそのジャスミンの和名である。 浩司はしばらく考え答えた。 「茉莉花か。良い名だな。たしか、花言葉は愛らしさだったか」 「よく知ってるね」 「昔、母さんに教えてもらったのを思い出したよ」 母は優しく微笑むと手に持っていたタバコを最後に吸い、灰皿に押し付ける。 「身重な嫁が家で待ってるんだろ。さぁ、もう帰りな」 と浩司に促した。 玄関から見えた夕日が海面に反射しキラキラと輝いて見えた。 三羽のカラスがカーカーと鳴きながら山へと帰っていく。 「家族を大切にな」 見送りにきた母が最後に言った。 「またくるよ」 浩司が言うと 「しばらく来なくていい」 と母が笑った。
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