第1章 くらげライダー、意に反して一挙大海まで流れ着く

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どれだけ本気で済まないと思ってるのかはわからない。憔悴した様子もなく、相変わらず美しい滑らかなその顔を微かに顰めて優雅に軽く頭を下げてみせる彼女を見てると、もうまるで女優さんか。と内心でつい突っ込んでしまう。 申し訳なさそうな、いかにも心を痛めてますってリアルな表情の演技。自分が周りからどう見えてるかは常にきちんと承知して振る舞ってる人だよな、と改めて少し距離を置いて考えた。 でもまあそれはそうか。ちょっと気を取り直して冷静に、客観的になろうと努める。思えば幼稚園のときからついこの前まで本家の人たちも分家の方々も、はなみちゃんは将来のシゲミツのお嫁さん、と口でこそみんなはっきり言ってそう待遇もしてくれたけど。 法律とか制度的な仕組みでいうと、別にそのために特にどこかに届出をしたとか。わざわざ正式な契約を文書で交わしたって話は聞いたことがないから。婚約破棄、って言い張って例えばこちらがどこかに訴え出て弁償とかを要求しても、得るところは何もないんだと思う。ただそういうなんとなくの長年の空気、両家の間でのお互いの口約束ってだけだった。 成光くんが高校卒業後、進学した大学を休学して思い立って急にアメリカへ留学して。そのまま帰国もせずに向こうで知り合った在米の邦人の女の子と家族にも無断ですぱっと電撃結婚しちゃったからって。この家としてはわたしに対して、別に何とも補償のしようもないよなぁ…。 そう思えば、ただわたしに対して心から済まないって表情で辛い思いをさせたとひたすら誠実に謝る態度さえ見せておけばそれ以上、何かしなきゃならない義務も本来ないだろうしね。 それに別に、由里子さんに謝罪してほしいとは。わたしだって特に思ってはいない。そんなことしてもらっても状況が変わるわけでもないし。形だけでいいから、こんな不毛なやり取りは早く終わらせてさっさと辞去しよう。 そしたらもう以後、本家には二度と足を踏み入れまい。 そう考えて、なるべく何でもない明るい声を出して彼女に向けて請け合った。 「多分わたしの方も悪かったんだと思います。どこがって、…よくは。本人には今はまだわからないでいるところもあるけど」 思わず口ごもる。実際にそこまで頭は回っていなかった。でも。 …幼稚園の頃からずっと、この人と将来結婚するんだ。と心に決めていたその相手の子が。一言の断りもなく、平然と当たり前のようにわたしの知らない他の女の子と入籍してそのまま未だに弁明ひとつ寄越さないでいるのは冷徹なる現実の出来事だ。 その行動に愛情なんかかけらも感じられないのはいくら呑気なわたしにでもさすがにわかる。思えばこれまで許婚者として周囲から扱われても特別嫌な顔も見せなかったから、本人にも否やはないんだろうとこっちも受け止めていた。 だけどそれはそうじゃなかったんだ、むしろこれって。…実はわたしは彼から嫌われてた、いやもっとあからさまに言えば憎まれてたんだっていう方が実態に近い。…ってのがほんとのところなのでは…。 その事実に長いこと、あえて目を向けよう、気づこうともしなかった。そう考えたら。 そこで初めてじんわりと目蓋が熱くなる。…やっぱり、将来の妻って立場に安閑として彼の気持ちはどうなのか真剣に考えることもなかったから。結果、こんなことになったんだろうなと思う。 自分にだって落ち度がないわけでもないのに同情されるには及ばない。改めてそう思い定めると、わたしはきっぱり顔を上げて由里子さんを見返して断言した。 「こうなったのも、わたしがあの人を繋ぎ止めておけなかったから。そう考えたら仕方ないんだと思います。…彼本人にその気がないのに。こっちだけ結婚したくても。どうにもしようがなかった、と。…思う…」 これまでお世話になりました、と小さく付け加えて居住まいを正し、改めて正対して頭を下げるわたしを、身を乗り出して強い口調で押し留める彼女。 「そんな。…葉波ちゃんは全然悪くなんかないわよ。これまで一生懸命、うちのお嫁さんになるために頑張って何もかも完璧に身につけようと努力してくれて。それだって、自分の都合じゃなく。結局は成光の将来のためだって考えてくれたからこそでしょ?」 「う、…ん。…はい」 多分。 こうなると我ながらよくわからない。一体わたし、何のために。あんなに真剣にこの家を引き継ぐために努力したんだろ? ほんとに単純に、好きな人と一緒になる未来のため? 曖昧な気持ちでとりあえず頷くと、彼女はわたしの反応の微妙なニュアンスにはそれ以上拘泥せず素早く言葉を重ねた。 「そのことは本家も分家も、ううん村じゅうのみんながちゃんと理解して承知してるわ。…そのありがたみを全く考えもしないで。わたしの方が恥ずかしい、あんな酷い息子で。…ほんとにあの子ったら」 熱心に力説してくれるその気持ちはありがたい。わたしは小さく笑って首を横に振った。 「いいんです。…それに、おめでたい話には変わりないでしょ。跡取りの長男にお嫁さんが来たんですから。わたしのことは気にしないで、その人を迎えてあげてください。またいろんなこと、一から教えてあげなきゃならないけど」 鳥居家はこの辺り一帯を古くから取り仕切る歴史ある旧家で、少し前まで集落を囲む山地を含めて土地丸ごと全部を占有していた。 資産持ちなだけでなく、何やら呪術的というか宗教的な伝統も代々受け継がれていて季節の折々の行事やら祝祭やら決まりごとや覚えなきゃならないことが一杯あるので、今から改めてそれを片っ端から頭に叩き込むとなると。そう一朝一夕に簡単に済むとは思えないから、その女の子も教える側の由里子さんたちもこれからみんな大変だろうな、と他人ごとみたいにちらと考えた。 彼女は何故かそこできっぱりと、厳かに首をゆっくり横に振った。
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