「あ」から始まる物語り

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目の前に、真っ白な紙と、よく削られたエンピツが置いてある。 座った席のテーブルに、レストランでいうウェイトレスさんのような人が、メニューを置くように置いて行った。 「どうぞお使いください」 と。 使い方は教えてくれなかった。 本当にレストランだったなら、注文したいメニューを書くのだろう。 わからないけれどエンピツを手に取り、一本の線を引いてみた。 次は、点をポツポツといくつか。 大きかったり小さかったり、そのうち星型にしたりハート型にしたりしながら。そしてその点と点達を繋いで線にして、絡まった糸のようになったり、別の形になったりしながら点と点は繋がっていく。 そんな風に時間を過ごしていたら、今度は文字が書きたくなり、点と点をつないでいるうちに出来た形を物語りにしたくて、一文字字を書いてみた。 「あ」 「あ」から始める物語りにしよう。 さっきまで書いていた点や線を眺めながら、「あ」から始まる言葉を探す。 相槌。 合図。 赤。 青。 あんず。 編み。 いくつかすぐに浮かんできたけど、どうもしっくりとこない。 「あ」の次は「い」。「あい」と続けると、今度はいくつか漢字が思い浮かぶ。 愛。 藍。 哀。 会。 相。 他にもまだあると思うけど、なんとなく響きがしっくり来るから、ちょっとそれぞれ続けてみようかと試みる。 愛。それは、いつの時代も世界中が求め、不変を信じ、それが本当はなんなのであるかを考え続けている。それはわたしも同じでーーー 藍色のブックカバーに包まれた本が、目の前に置かれている。絞り染めで染められた布製のブックカバーだろうか。そして栞がその上に置いてあるのだけれど、この本は既に読み終えられているのか、これから読み始められるのかーーー 哀愁。「哀」という字を見ると、まっさきに浮かぶ言葉だ。どこか寂しげで、季節でいうと秋。温かさと肌寒さを感じ、どこか遠いところを見ながら、冬に向けて芸術や食事を楽しむ季節。どこか寂しげな笑みを浮かべーーー 会いたい人がいる。どこかで元気にしていることを願い、想像しながら、その人と会える日を楽しみに、日々流れる景色の中にいる。その人はーーー 相容れない空間の中にいる。真ん中だったり端っこだったりしながら。相容れないはずの世界の真ん中で、時空の歪みに飲み込まれそうになりながら、相容れない人たちの顔がーーー それぞれ少しずつ世界を作り始めたところで、紙がいっぱいになった。よく削られていたエンピツの芯も、すっかり丸くなっていて、この先を紡ぎ続けるにしても、新しい紙とエンピツ削りが必要そうだ。 さっきのウェイトレスさんのような人がいないか周りを見渡してみるも、今は姿が見えない。 仕方がない。 ひとまず、それぞれの物語りの続きを空に描きながら待つことにしよう。 でもどれだろう。一番書きたくなる物語りは。今はどれも続きが浮かぶけれど、まだどれも結末が見えない。 目を閉じて、それぞれの物語りへの旅を始めた。
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