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時乃の母親は、バリバリのキャリアウーマンだ。
住む家は山奥のど田舎で、祖父母は農業をしているが、彼女が手伝う事はなく、毎日山奥から車をとばして町に出て、せっせと書類作成に勤しんでいる。
以前母親から肩書と仕事の内容を聞いた事があったが、難しくてピンとこず、今でも彼女が何をして稼いでいるのかハッキリとは分からない。
女手一つで必死に育ててくれている、それだけしか時乃には分からなかったし、それだけ分かっていればいいと思っていた。
毎日忙しく働く母に、日々感謝している。
だから、自分の事で手を煩わせたくないので、用事や相談事は全て祖母にしていた。
母を困らせない事が、時乃の行動の基本だったので、もちろん自分の父親について聞いた事はない。
これまで彼女が辿って来た人生の道のりについても、雑談程度ですら聞いた事はなかった。
聞くべきではないと、どこかで思っていた。
(私に、きょうだい…?)
岡崎櫂からの告白を受けた後、時乃は「そんなアホな」と呟き、回れ右して逃げた。
走って逃げながら、何かの冗談か、もしくは彼にとって渾身のボケだったのだろうか、と考えたが、彼の真っ赤な顔と切迫詰まった顔を思い出して、それはないだろうと考え直した。
だからと言って、彼の告白を「そうですか」と受け止められるはずもなく。
モヤモヤとした感情だけが残ってしまい、実に気分が悪かった。
彩葉にも流石に言えず、ワクワクとして訊ねて来た彼女に、「ハンカチ落としたの拾ってくれてた」と言ったが、「女子力死んでるあんたがハンカチ持ってる訳ないやん」と鋭く突っ込まれて終わった。
明らかに狼狽える自分に、彩葉はそれ以上追求してこなかったが。
学校から帰った時乃は、家のコタツに入ったままゴロンと寝転んで、「うーん」と唸った。
向かいに座ってノートパソコンをいじっているタク兄が、「なんやどうした」と鼻で笑う。
タク兄は、近所の家に住む幼馴染みのお兄ちゃんだ。
時乃が鼻垂れの小学生だった頃から良くし貰っていて、時乃の家族も杉村家の一員としてタク兄を可愛がっている。
現在は春休み中の大学一年生で、こうしてノートパソコンを持参しては、時乃の家で課題をしつつ、くつろいでいた。
「タク兄ってさ、三兄弟の末っ子やでな?」
時乃のぼんやりとした質問に、タク兄もぼんやりと答えた。
「あー、そうやなぁ」
「きょうだいってどんな感じ?」
「えー、なんで?」
タク兄は、依然パソコンの画面を睨んでキーボードを叩いている。
メガネのレンズにパソコンの画面が反射して表情は見えなかったが、こちらに全く関心がないのは分かった。
今はそれがちょうどいいと、時乃は思った。
「私、きょうだいおらんからさ。どんな感じなんかなって」
「別に、特に何も変わらんのとちゃうか?確かに小さい時はおった方が楽しかったけど、大人になったらわりと疎遠になって寂しいもんやで」
タク兄の上の兄二人は、既に結婚をして家庭を持っている。
彼がそう言うのも、頷けた。
「そうなんかぁ…」
「っても、お前には俺がおるやろ。きょうだい同然のお兄ちゃんがここに」
「えー、こんなパッとせぇへんお兄ちゃんとか嫌やわ」
「言うたなコラァ。もう東京バナナ買って来んぞ」
「あはは、それは困る」
コタツの中で足をゴンッと蹴られ、ケタケタと笑う。
すぐにタク兄の関心はパソコンに戻ったが、時乃は言った。
「あのさぁ」
「なんやぁ?」
「うちのお母さんってさぁ…」
「美津さんがなんや」
「んー…」
沈黙の中で、考える。
杉村家を近くで見て来たタク兄なら、母の過去について何か知っていてもおかしくはないだろうと考えて口を開いたが…_、やめた。
「なんもない」
「なんやそれ」
タク兄は、それ以上追求してこなかった。
ホッとしつつ、昼間の少年を思い浮かべる。
子犬のように可愛いらしい顔をした岡崎櫂。
人の良さそうな、頼りなさそうな男の子。
(全然似てへんやんか、私に…)
それでも、全力で否定出来ない自分がいることに、時乃は深くため息を吐いた。
次の日、岡崎櫂は再び時乃を訪ねて来た。
しかも授業が始まる前の朝一番、特に人目が付く時間帯に、堂々とした様子で現れたのである。
昨日と同じブルーの作業着姿だったので、一際目立って仕様がなかった。
騒めく空気の中、岡崎櫂は周囲の視線をもろともせず、教室の中から時乃の姿を探し出すと、山の頂上でヤッホーとでも言うように、声高らかに言った。
「あの、杉村時乃さん、少しいいですか?お願いがあって来たんですが」
教室中の視線が、岡崎櫂から一斉に時乃に移り変わる。
時乃は冷や汗を垂らしながら、明後日の方を向いた。
「なぁ、呼んでるで。答えてあげへんの?」
すかさず彩葉が指摘する。
「えーっと、気のせいちゃう?」
「いや、がっつりフルネームで杉村時乃とか言うてたけど」
「幻聴じゃない?好きなら東京、って聞こえたけど」
「耳死んでるやん」
「あのさ、絶対人違いやと思うねん。ほら、杉村時乃とかって名前の人、日本のどこかにはいてるやん?私は杉村時乃って名前やけど、あの人の求めてる杉村時乃じゃないねん」
「いや意味わからへん。杉村時乃はあんただけやん」
「おるんや!私とそっくりな奴、この学校にいっぱいおるんや!オリジナルは隣のクラスにおるんや!」
「お前がクローンの方かい。ええからさっさと行ってこい」
「嫌や!絶対嫌や!なんか痛い!お腹痛いから!」
「小学生か!」
あーだこーだ言っていると、いつの間にか岡崎櫂が教室の中に入って来ていた。
時乃が座っている席の前に立ち、昨日と同じように律儀に帽子を取って頭を下げる。
「すんません、俺、どうしても杉村さんと話ししたくて…。時間、貰えませんか?」
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