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第一話
たぶん、心の半分は動いていなかったのだ。
目に映る全ての景色が真っ平らで、色があるようでなくて、常に焦点がずれているようにぼんやりとして。
真っ白な梅林も、遠くに見える真っ青な海も、山に抱かれる小さな町も。
自分の心には何一つ触れなかった。
彼の瞳から、世界を見るまでは。
ここ、紀州の南部に位置する田舎町は、2月ともなると、山々の斜面に真っ白な花が咲き、太平洋の潮風によって舞い上がった梅の香りが町全体を包み込む。
杉村時乃は、青々とした山の中腹や、道沿いの畑に白く咲き乱れる梅林を横目に、制服のスカートをはためかせながら単車を走らせていた。
山奥の家から四十分ほどかけて、海の近くにある県立高校を目指す。
山と梅林だけだった景色は、学校に近づくにつれ、多くの家と商店が見えるようになり、小さくも活気ある町が目の前に広がった。
「おはよーさん。今日はギリギリ間に合ったやんか」
随分と長い時間、単車を走らせて来たおかげで、悲惨な有様になった前髪を忌々しく思いながら席につくと、高校からの時乃の友人、彩葉がニヤニヤとしながら近寄って来た。
「前髪えらい事になってるで。おでこ丸出しやん。直さへんの?」
時乃はげんなりとしてため息を吐く。
「直さへん。何回やってもどうにもならんもん。毎日せっせと直すのもアホらしくなって来たから、もうこのままでいくわ。この呪われし前髪と共に生きる道を選んで、清く正しく美しく、未来へ向かって歩んで行くわ」
「えらい壮大に言うやん。前髪ごときに」
「前髪は女子高生の命やで。前髪の乱れは乙女の乱れや。軽視したらあかん」
「じゃあ直せや」
時乃はミリタリージャケットのチャックを下げると、そのまま机に項垂れた。
まだ体が冷え切っていて、とてもじゃないが上着を脱げない。
彩葉が、哀れむように言った。
「あんたも大変やなぁ、毎日遠い山奥から単車で通学って。今の時期はめっちゃ寒いやろ」
「うん、寒い。何が辛いって、指先の感覚がなくなるくらい冷え切ってしまう所やな。これがめっちゃ痛い」
「あれ付けたらええやん、郵便局の単車のグリップに付いてるやつ」
「鍋つかみとか恥ずかしいわ」
「鍋つかみではないやろ」
「でも郵便局風はなぁ…。ヤクルトガールの方がまだマシかな」
「どっちも大差ないやろ」
時乃はパタリと机に伏せると、通学の疲れと寒さに目を閉じた。
大体朝はいつもこうだ。
「とりあえず暫く寝るわ。疲れた。もうなんだかとても眠いんだ……パトラッシュ」
「誰がパトラッシュや」
そのままいつものように寝入ろうとしたが、彩葉が許さなかった。
「あ、そうや。ちょっと気になる話あるんやけど、聞く?」
「うん、私がいずれ総理大臣になったら聞くわ」
「一生聞く気ないやん。あんな、園芸科の岡崎君って知ってる?」
「園芸科の岡崎?」
園芸科と聞いて、思わず顔をしかめてしまう。
この高校は、普通科、そして農業を学べる園芸科があるのだが、その科に進学する学生はほぼ農業に興味や関心がある訳ではなく(時乃の偏見)、周囲よりも成績が落ちる生徒が仕方なくその科を選んでいる節がある。
因みに大抵の男子は家が梅農家であり(時乃の偏見)、勉強が出来なくても就職先が決まっているようなものなので、のんびりしているのだ。
だからと言う訳ではないが、ガラの悪い連中が非常に多い。
中退も多く、去年の園芸科の卒業生は、入学時の半数しか卒業出来なかったらしい。
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