7人が本棚に入れています
本棚に追加
―――昔読んだ絵本の中で。
きつねは言った。
大切なものは、眸に見えないと。
大切なものは眸に見えないと、賢いきつねはそう言っていたけれど。
それではこの眸に映る総てのものは、果たして一体何なのだろうか。
「どうした。まさかこの程度で目眩でも起こしたんじゃないだろうな」
もしかしたら。
きつねは、嘘をついたのかもしれない。
それはきつねの、優しい嘘だったのかもしれない。
『大切なものは、眸に見えない』
「もう回数も思い出せないくらいしただろう。何を今更、そんな顔をしている」
優しいきつねは言えなかったのだ。
本当は。
大切なものなんて、
「遙風」
この世界の、何処にも存在しないということを。
顎に手をかけられて、床から視界が上へと移る。
遙風の眸に映ったのは、灰色の髪と瞳を持つ、端正な青年の顔だった。
「…………」
「なんだ。何か言いたいことがあるんじゃないのか」
眉一つ動かさず、表情のない整った顔が言う。
すらりとした長身。品のいい服装。育ちの良さを思わせる身のこなしと、血に恵まれた美しい顔立ち。
自分には縁遠い、高貴な世界の空気だ。そう遙風は思う。しかし、その空気はどことなく懐かしくもある。
彼の名は菅井大地。
遙風の母の弟。世間に二人の関係を名付けさせれば、甥と叔父だ。
「…………」
遙風は彼をぼんやり見つめた。口の中の粘った水が苦くて、視界が歪んだ。
言いたいことなど何もない。
「ああ。黙っているのはそういう訳か」
とても下らないことに気づいたというように、大地は吐き捨てた。
「飲み下せばいいだろう。そんなことも言われないと分からないのか」
苦い。
苦しい。
彼の言葉が耳に届くと、頭の中でわんわんと反響して、眸の奥がぐらぐらする。
耐えられなくて瞳を伏せると、溜まっていた涙が頬にこぼれた。
「それとも床にでも吐き出すのか。弟が帰ってくるこの部屋の床に? 帰ってくるまでに綺麗に掃除でもするというのか。滑稽だな」
全く面白くなさそうに大地が言った。
「…………」
遙風は突然、弾かれたように立ち上がって風呂場へ駆けた。
このアパートは風呂とトイレが同じ空間にある。
遙風は便器の中へ吐き出そうとしたが、結局足がもつれてうまく動けず、風呂の洗い場へ口の中のものを出した。
「……っ、……っ」
自分の唾液と混ざった白濁の粘液が遙風の唇を汚した。寒気と吐き気がした。熱いのに寒い。冷や汗で体が湿っているからだろう。少し眠いような気もする。
「そんなに汚らわしいか? 俺の精液は」
屈み込んだ体勢のまま顔だけ入り口へ向けると、大地が扉へ背を預けて腕を組んでいた。じっと遙風が吐くさまを見ている。
「お前のものと、大して情報は変わらないというのに」
まじめな顔で、そんなことを言う。
皮肉なのか、本気でそう考えているのか。
不思議な人だな。
頭の片隅、意識のとても遠くで、遙風は思った。
「っ……は……」
食道がぎゅうぎゅうすぼまって、喉を外へ押し出そうとしていた。しかし出てくるものは何もない。
右手の甲を口に押さえつけて、なんとかかんとか遙風は息をした。えづくのは苦しい。涙の粒がぽたぽた洗い場へ落ちた。
「遙風」
感情のこもらない声で、彼は自分の名を呼ぶ。
遙風は大地の声に応えず、肩で荒く息をしながら、浴槽に引っかかっているシャワーへと手を伸ばした。もう一方の手で蛇口に取り付く。とにかく、口の中をゆすぎたかった。
大切なものなんて、何もないんだ。
きつねは、とてもよいことを教えてくれた。
蛇口をひねる。水が勢いよく吹き出した。
大切なものなど何もなければ、どんなことが起こったとしても、それに心を砕く必要がない。
この人も、自分も。二人の間のやりとりも、行為も。
何一つ、重要じゃない。
「遙風」
遙風が蛇口からの水を口に含もうとしたところで、唐突に、大地が近寄ってきてシャワーを乱暴に奪った。
「なっ」
遙風が声を上げる間もなく、冷たい水が降ってきた。大地が、遙風にシャワーを向けたのだ。大地は蛇口をひ ねり続けた。水圧が上がる。
「大地さ」
降る水に溺れそうになりながら遙風は声を上げた。
「水が欲しいんだろう」
流水は驚くほど冷たく、あっというまに遙風の熱を奪っていく。
「やめ……」
やめて欲しいと言おうとして、水が気管に入り、遙風は激しく咳をした。うつむいて、痙攣のように激しく肩を震わせると、大きな手が髪を掴んできた。
無理矢理上げさせられた顔の正面にシャワーヘッドがあった。
驚きに眸を見開く暇もなく、そこから噴出する水は容赦なく呼吸器に入り込む。
―――息が出来ない。
「洗いたいんだろう。好きなだけ洗わせてやる」
袖の先も、ズボンの裾も、上等な靴下もびしょ濡れにしながら、大地は遙風を溺れさせた。
粗末な風呂の洗い場が、シャワーに叩かれてざーざーとうるさい音を立てる。
「………っ………げ……あ……」
冷えと苦しみと酸素欠乏で、遙風は気が遠くなってくるのを感じた。
ざーざーという水の音が、何重にも歪んで聞こえて、うるさかった。
ざーざー。
ざーざー。
最初のコメントを投稿しよう!