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* * *
それがいつだったのか。はっきりとは思い出せない。
覚えているのはその日が雨だったということ。これだけは、とてもよく覚えている。
ざーざー。ざーざー。
暗い空から、ひたすらにノイズのような雨が落ちていた。ざーざーという雨音が、一日中空気を満たしているような日だった。
大人用の傘を差して、水たまりをよける遊びをしながら遙風が帰り道を歩いていると、道に少年が一人立っていた。
こんな日だというのに傘も差さず、胸に紋章のある制服も、灰色の髪もぐっしょり濡れていた。頬に流れる雨水にかまいもせず、両手を握りしめて、道の向かいのアパートを一心に見つめていた。
「…………」
彼が中学生なのか高校生なのか、その時の遙風には幼すぎて判断がつかなかった。
ただ、こまったな、と思った。遙風も、少年からすこし距離を取ったところで立ち止まった。
ざーざー。ざーざー。
少年が暗い瞳で見上げているアパートは、遙風の帰る家だった。
家に帰るためには、この人の前を横切って、かんかん音が鳴るアパートの階段をのぼらなくてはいけない。
「…………」
横切っても、怒られないかな。
なんとなく、その少年が怖くて、しばらく遙風は遠くから彼を見ていた。
ざーざー。ざーざー。
今にして思えば、その少年の持つただならない雰囲気に気圧されていたのだ。ほとんど睨みつけるようにして、暗い雨の中、自分の家を見ている少年。
しかししばらくといっても我慢できる時間はそう長くない。雨は重たく、空は今にも落ちてきそうで、あたりは一面冷えきっていた。
「くしゅん」
寒くって、遙風はくしゃみをした。
その声に、びしょ濡れの少年は弾かれたようにこちらを向く。
少年と遙風の目が合った。
ざーざー。ざーざー。
遙風はなりふり構わず駆け出した。少年の前を横切って、水たまりの中に足が入ってしまうのも気にせず一気にアパートの階段まで行き、甲高い音を立てて二階に上がった。首から紐で下げていた鍵をTシャツの内側から引っ張り出し、なんとか鍵を開けると慌てて家に入る。
ばたん。
薄暗い家の中に帰ってくると、息が上がってぜいぜい言っていた。遙風はがちゃんとここちら側から鍵をかけ直すと、やっと少し安心した。
心臓がどきどきどきどき言っていた。
どうしてだか、あのびしょ濡れの人が家まで追いかけてくるような気がしたのだ。
「…………」
けれどそんなことはなかった。
家の中には誰もいなくて、暗くて、雨の匂いがした。
ざーざー。
「…………」
遙風は黙ってびしょびしょになってしまった靴を脱ぐと、傘をドアに立てかけて部屋の中へ入った。
「…………」
外から見えないように、四つん這いになって畳の上を進む。窓まで行くと、そうっと道の方をのぞいてみた。
少年はさっき遙風が見た姿と寸分違わず道に立っていた。
目が合う。
「!」
遙風は慌てて頭を引っ込めた。
(こっち……見てる……)
怖いのと困ったのとで、遙風はどきどきがおさまらなかった。今日はたぶん、朝まで家にひとりぼっちだ。
(こまったなぁ……)
「くしゅん」
またくしゃみが出た。遙風は冷蔵庫から牛乳を出すと、マグカップに注ぎ電子レンジにかけた。誰もいない時に寒かったりおなかが空いたりしたら、とりあえず温かい牛乳を飲む。そうすると少し楽になるということを遙風は最近覚えたばかりだった。
大人用のものしかないので、遙風が持つととても大きなサイズのように見えるカップから牛乳を飲みながら、時折窓の外をちらちら見た。あの人はびしょ濡れのまま、ずっと立っていた。
ざーざー。ざーざー。
気がつくと、遙風は畳の上に寝ころんでいた。いつの間にかうとうとしてしまったらしい。
(…………)
「くしゅん」
くしゃみを一つしてから、遙風は目をこすりながら窓の外を見た。
もういないかな。
そう思って見たのだ。
しかし、少年はまだそこに立っていた。雨は相変わらず止んではいなかった。ざーざーと音を立てて、道路や少年の上に降り続けていた。
(…………)
だいじょうぶなのかな。
遙風はだんだん、あの少年のことが心配になってきた。部屋の中は寒くて、体がぶるっと震えた。隅に丸められている毛布をひっぱってきながら、
(あのひと、さむくないのかな)
そう考えた。
どれだけ長い時間、あそこでああやって雨に打たれているのだろう。
毛布にくるまって、遙風は窓辺へよった。少年を見る。彼もじっと、こちらを見上げてくる。
しばらく、二人は無言で見つめあった。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
その間を無数の雨粒が、線のようになって落ちていった。
「くしゅん」
遙風はくしゃみをして、ずるずるとしてきた鼻をこすった。ぶるっとまた体が震えた。
さむい。
(……あのひとは、さむくないのかな)
ちらりと玄関の方を見る。
質素な靴箱に立てかけられたビニール傘が一つ。それは今日遙風が差してきた傘だ。そしてもう一つ、赤色の傘がたたきの上に転がっていた。
(…………)
それは真っ赤な傘で、安物だがビニール傘よりは値が張る。遙風の母親の傘だった。
「…………」
遙風はビニール傘を取りあげてじっと見る。
これはビニール傘だがよい傘なのだ。どの骨もおかしくなっていなかったし、大人用の傘なのに軽いし、なによりボタンを押すとバネがはじけて一瞬で開く。ある日気がつくと玄関に置いてあった。母に会いに来た男たちの誰かが忘れていったものなのだろう。
「…………」
よい傘だが、しかたがない。赤い傘は母のものだから。
遙風はビニール傘をぐっと握りしめると、ぐしょぐしょの靴をつっかけ、赤い傘を借りて外へ出た。むわりと雨のにおいが濃くなって、遙風はまたひとつくしゃみをした。
ざーざー。ざーざー。
かつかつ音を立てて外階段を降りる間、あの少年はじっと遙風を睨みつけていた。遙風はすごく緊張した。そんなに見られながら階段を下りるのは初めてだった。
地面に降りて、少年と向かい合う。彼は相変わらず無表情に、びしょ濡れで、しかし絶対に遙風から視線を逸らそうとしなかった。
遙風はひるんだ。少年のその眸が怖かった。きびすを返して逃げ帰ろうかと思った。そして絶対にそうするべきだったし、そうするのが正しかった。
けれど。
けれど。
「くしゅん」
くしゃみが出た。
「…………」
それで遙風は思い出したのだ。自分が何故ここへきたのか。このひとにどうして自分のビニール傘をあげようと思ったのか。
(さむくないのかな)
ざーざー。ざーざー。
(こんなびしょぬれで、このひとはさむくないのかな)
頬に張り付いた髪も、握り拳から滴る雫も、なんにも構わずにこのひとは立っているけれど。
きっと、寒いはずなんだ。
「あの……」
遙風は少年を見上げて、ビニール傘を差しだした。
「これ……」
「…………」
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
雨が無数に、二人の間にある空気を切り裂いた。
少年の顔に初めて表情が浮かんだ。
それははっきりとした、何も隠そうともしない、憎しみの表情だった。
苦虫を噛み潰したかのように、ぎりっと音がしそうなほど歯を食いしばった。美しい顔を憎悪に歪めて、彼は手を振り上げる。
遙風の眸に少年の手が映り込んだ。
遙風はその時、生まれて初めて憎しみの火を見た。それは暗く暗く、そして青かった。瞳の奥に宿る、呪いの炎。
ばん!
ばしゃっと音を立てて、遙風は道に倒れた。呆けて、少年を見上げる。雨が遙風の上にも降り注ぎ始めた。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
雨は氷のように冷たかったが、左の頬だけはかっかと、まるで少年の炎が移ったかのように熱かった。鼻と口の端から、雨とは違う赤くて温い、粘ったものが流れていた。
小さな遙風を力一杯ぶった少年は、白い顔をさらに真っ青にしてぶるぶると震えていた。寒さで震えているのではない。もちろん、自分の行為に怯えてでもない。
怒りに、その身からこぼれ落ちそうなほどの怒りと呪いに、少年は震えていた。
「…………」
遙風はただ血を流して少年を呆然と見上げ、少年は自分の体躯の震えが収まるのを待った。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
「…………」
少年は右手を左手で軽くさすり、突然、
「あっ」
道に落とされていた赤い傘を手に持った。
「それ……」
無表情に戻り、まるではじめから自分のものだったかのような自然さで傘を差す。
そして無言できびすを返した。
「…………」
遙風の声にも、遙風自身にも頓着することなく、赤い傘を差した少年は道を遠ざかってゆく。
遙風はびしょ濡れになって、その赤色が遠ざかるさまを見つめていた。
ざーざー。ざーざー。
ざーざー。ざーざー。
道に転がったビニール傘が、雨に叩かれて泥水の中に青く沈んでいた。
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